嵐、来たる 4
「ほんと、すみませんでしたっ」
リート・ロートブラットが腰を直角に曲げて頭を下げると、彼の薄紫の長い髪が跳ねた。朝、彼はいつもより早く本部に来ると、応接間に入って開口一番にそう言った。
「いいよ。事情は知ってるし、仕方ないよ」
私はソファーから立ち上がって頭を上げるよう促すと、浅黒い肌の青年は至極申し訳なさそうに頭を上げた。
「いやー、自分にとっては毎度のこととはいえ、ほんと申し訳ないというか、自分ではどうしようもないのはわかってるんですけど……」
彼は諦めたように肩を落とした。
「ムティラフのところでもそうだったんだから、気にする必要はないよ」
ムティラフとはアレリアの警備隊で、異動前のリートがいた隊の隊長だった男だ。彼もリートの事情は知っていたはずだ。
「いやー、まあ、そうなんですけど……ここは人数が少ないじゃないですか。だからひとり休むだけでも結構な痛手っていうか……」
確かにアレリアのほうが一隊の人数は何倍も確保されているだろう。それに引き替え私の隊はミネルバの中でも一番人数が少ない。ニジェットの隊なら人数がいるので、彼女の隊に入っていたら彼も気に病まなかっただろう。
私はふと向かいに座っているサジタリスを見た。彼女は私の視線に気がつくとリートに向かって口を開いた。
「やってしまったことはもうどうにもなりません。でしたらそれを挽回できるよう、今日以降誠意を尽くして仕事に取り組めばいいのではありませんか?」
彼女の言葉は相手を納得させる点において、実に的確にまとまっていた。私としては励ましているようにも聞こえてしまうのだが、彼女にその気はない。
「私もそう思う。それに月に一度必ずあることなんだから、周りが許してくれている内は、大人しく自分の体に付き合ってあげたらいいよ」
「……わかりました」
リートは不甲斐なさそうにして、私と入れ替わるようにソファーに座った。
「そういえば妹さんは元気?」
応接間の本棚から書類を出そうとした時、ふとリートに訊いた。
「ああ、はい。元気ですよ。昼間はあんまり外に出られないから、退屈そうですけどね。でもあいつ、夜にこっそり家を出てるんです」
「え、だいじょうぶなの?」
夜中に少女がひとりで出歩くとは、いくらなんでも不用心だ。
「あいつ、結構放浪癖があるんで、止めてもダメなんですよ。俺がアレリアにいる時からしてたみたいで、昼間は命にかかわるから気をつけてますけど、夜はその心配がないんで羽目を外しちゃってるというか。俺も父さんも昼間外に出られないのを見てるんで、あんまり強く言えなくて……」
リートにとっては心配の種のひとつなのだろう。いつもは明るく奔放な彼も、いまは兄の顔をしている。
「俺がついて行けばいいんだろうけど、仕事のあとはきついしなぁ……」
リートは思案気に頬を手でこすった。
「あー、そうだ。ラグさん、実は変なもんがうちに来たんですけど」
私の名字のラグトムを短くして、彼は私をそう呼ぶ。サジタリスについても愛称のサーシャ呼びだ。彼は家族以外、誰に対しても愛称や役職名で呼んでいた。
「まあ、実物見たほうが早いかと思って持ってきたんですけどね。これです」
そう言って彼は立ち上がり、私にそれを渡した。それを見た時、衝撃が走った。見たことのある封筒だったからだ。私は冷静に、ゆっくりと封筒の中の紙を出した。二つ折りの紙を開き、書いてある文章を読んで確信する。
おまえたちはこの町にいるべきではない。一刻も早くこの町から出て行け。
この手紙は紛れもなく、ここに届いた脅迫状と同じものだった。
「これ、いつ届いたの?」
動揺していることを悟られないように、私はゆっくりと紙を封筒に戻した。
「えーと、確か……三日前ですね。宛名も送り主も書いてなくて、気味悪くなっちゃって」
ということはうちに脅迫状が届いた日と同じことになる。
「送ってきたひとに心当たりはある?」
「いや、見当もつかないです。一応バレないように過ごしてきたつもりですけど、どっかで漏れたのかもしれないし。でも明らかに排斥論の影響を受けた奴の仕業だと思うんです。いままでこんなことなかったし、近所付き合いも悪くなかったはずだって父さんも言ってたんで……。エリジュのことは病弱だって周りに言ってましたし、いまさらそれを疑われたと考えるのもなんか変な気がして」
このことはニジェットに伝えたほうがいいだろう。いますぐには難しいが、夕方の見回りを誰かと交代してもらえば可能だ。
「わかった。これは預かっておくよ」
「よろしくお願いします」
「あと、夕方の見回り、代わってもらってもいいかな?」
「もちろん。いいですよ」
リートは快諾した。
「じゃ、俺、すこし早いですけど、行ってきます」
いつもの人懐っこい笑顔を見せて、彼は元気に見回りに出て行った。玄関の扉が閉まる音が聞こえると、懸念事項が増えてしまったことについ溜め息が出た。
「心労が絶えない様子ですね」
サジタリスが声をかけてきた。私は苦笑いをする。
「仕方ありません。悪いことは重なるものです。でも」
「でも?」
「ずっとこのままということはありません。良いことも悪いことも、必ず終わる時が来ます」
「では、それまでの辛抱、ということですか」
「そういうことになりますね。根競べですよ」
自分で言っておいて、なんだかおかしかった。恐らく、ここで悪いことが打ち止めにされることはない。むしろ度を増して襲いかかってくるだろう。それが経験則からわかっていても逃げることは難しい。
「あなたは前向きですね。あの方とは大違いです」
彼女はほんのすこし嘆いているようだった。私は思わず訊いてしまう。
「ギダは前向きじゃないんですか?」
無表情のままサジタリスは首を横に振った。
「あの方は前向きではありません。もうずっと後ろを見つめて、後ろに向かって走っています。けれど時は移ろい流れるもの。後ろに走っても、進むことも戻ることもない。止まっているのと同じです」
ギダは一見飄々として、物事に深く関わろうとしないように見える。しかし私は、彼が何か得体の知れないものにひとりで向かっているように感じていた。目的のためなら手段を厭わないのは知っていたし、怪しいツテをいくつも隠し持っている。本当なら私を頼らずとも、ひとりでこの町の事件を解決できてしまうのだろうが、そうしないのは彼がその力を自分の目的以外で使う気がさらさらないからだ。
彼はいったいその力で、何を潰そうとしているのだろうか。
名前を偽ってまで成し遂げたいこととは、いったいなんなのか。
「申し訳ありません。口が滑りました。いま話したことはお忘れください」
彼女は紅茶を飲み干すとカップを恐らくキッチンへと持っていき、手に持っていたジャケットを羽織って見回りへと行ってしまった。彼女の横顔に、憂いの色が見え隠れしていた。




