怯えるひとの子 1
「あ、久しぶりー」
町中で歩いていると気軽に誰かが声をかけてきた。わたしが驚いて振り返ると、一ヶ月前まで毎日のように会っていた少年がそこにいた。長めの黒髪を緩く結び、前髪で左目を隠しているヘイルは、前と、むしろ前よりも明るくわたしに挨拶した。
「そんなに驚いた?」
目の前まで来たヘイルの問いにこたえられずにいると、彼はおかしそうに笑った。ヘイルは黒と焦げ茶のズボンに、胸元の開いたオリーブ色のプルオーバーの下には白いシャツを着ている。
「格好が違うとやっぱ印象変わるね」
ヘイルに言われ、改めて自身の格好を見る。立て襟のシャツの上にロングセーター、下はズボンを履いているが、この寒さだとコートを羽織ってきてもよかったかもしれない。頭には白の頭巾をつけていた。『おれ』で過ごしていた一ヶ月前まではもっと男っぽい格好をしていたが、『わたし』に戻ったいまはそういった格好をすることがなくなっていた。ただなんとなくスカートは履いていない。
「もしかして気にしてるの? 色々と」
ヘイルの言葉にわたしは視線を逸らし、肩にかけていたトートバッグの持ち手を強く握った。茶色のマフラーに隠した唇から吐いた息が頬に当たり、視線の先の石畳が冷たく目に映った。
「関係あるけど関係ないよ。確かに君は男の格好をしていたし、色々と問題も起こしちゃったけど、ぼくは正直どっちでもいいんだ。だから関係ないわけ」
あっけらかんとしたヘイルの言い分は、本当にそんなものなのだろうかと思ってしまうくらい、すごく簡単にまとめられていた。わたしは自分の起こしたことを責められると思っていた。
「でさ、コーラル、『雨さん』って知ってる?」
わたしは首を横に振った。もとから町のひととあまり話をしないので、そんな噂は聞いたことがなかった。こちらから会話を避けていたせいもある。
「いますごい噂になってるんだ、『雨さん』。なんでも雨の日になるとね、どこからともなく現れてひとを攫ってくんだって。こう、路地の向こうから来てさ。友だちが雨の日に道に迷ってたら、びしょびしょに濡れた手で肩を触られたんだって。二日くらいまともに寝れなかったらしいよ」
ヘイルが身振り手振りを加えて楽しそうに説明をした。ヘイルはわたしと違って友人が多く、そういった話も耳に入りやすいのだろう。
「それと関係あるか知らないけど、ここだけの話、第五地区のヒュース通りのメレップさんちの娘さん、数日前から姿が見えないんだってさ」
「それって、ただの家出じゃ……」
「そうかな? 面白そうじゃない? ぼくとしては人魚が湖で目撃されたこととか、魔族の噂も捨て難いところなんだけどね。自分があとふたりいればなぁ」
ヘイルが言い終わるかどうかという時、すこし離れたところから悲鳴のようなものが聞こえた。ヘイルは好奇心に目を輝かせてわたしを見やる。わたしはすこし迷ったが仕方なくついていくことにした。
町の中心の第五地区には、それほど大きくはないが噴水のある広場がある。わたしたちは悲鳴の聞こえるほうへと向かっているうちに、自然とそこへ向かっていた。
悲鳴が大きくなってくる。広場が見えてきた時、よりはっきりと聞こえた。壁のない広場は十字路の真ん中にある。少年がふたり、こっちの道に逃げるように駆けてきた。その後ろに大きな黒い影があり、それは宙に浮いていた。いや、浮くというよりも飛んでいた。
わたしたちはその影を見て足をぴたりと止めた。それからその場の状況を見てもっと驚いた。あたりには怯えてその場から動けないひとや、怪我をしているひとがそこかしこにいた。悲鳴と罵声と羽音が響き、大きな黒い影が広場をぐるぐると回っている。
噴水の前には女の子がひとり、堂々と立っていた。わたしと同じ十五歳くらいに見える。彼女はドレスのように裾の広がった、紺色のダブルボタンのコートを着ていた。目の上と肩の上で切り揃えられた髪は黒く、耳の上には羊のようにいかつい角が生えており、それが異様に目立っていた。
角。
あの子も角が生えている。
「わかったかしら? あんたたち、これ以上あたしの気に障るようなことをしたら、絶対に許さないから」
誰が聞いてもわかるほど彼女は怒っていた。
「あの子、初めて見るね」
声を抑えて話すヘイルにわたしは頷く。倒れているのは同年代くらいの少年がほとんどで、その中には一ヶ月前までよく会っていた金髪の少年ゼギオンもいた。ヘイルは真っ先にそこへ走り、わたしは気が進まなかったがついていった。ゼギオンの額は切れて血が流れていた。茶色のコートやズボンは砂埃で汚れ、目蓋を薄く開けながらうめき声を漏らしている。
「ゼギオン、だいじょうぶ? 何があったの?」
冷静なヘイルが彼を起こす。
「見りゃわかんだろ。こっぴどくやられたんだよ」
ゼギオンは自棄気味に言ったが、ヘイルは、説明不足だ、と睨む。
「ぼくは結果じゃなくて、原因が聞きたいんだけど」
「おまえ、すこしは心配しろよな。こっちは怪我人だぞ」
「だから、だいじょうぶ? ってさっき訊いたじゃん。この様子じゃ、どうせ自業自得なんでしょ」
正論を言われ、ゼギオンは腹立たしそうに口を歪ませた。しかしすこしの沈黙もヘイルの冷たい視線が許さない。
「……おれは途中からだったけど、キュリオたちがあの女に突っかかってたんだ。あの角のことでな。それで、女としばらく口喧嘩して、怒った女があの黒い飛んでるやつを呼んで、俺たちを襲わせたんだ」
ヘイルがそこでこれ見よがしに溜め息をついた。
「そりゃ怒るのも無理ないよ。だってゼギオンたち六、七人に対して、相手はひとりだったんでしょ? まったく」
あの少女はただ怒るだけに留まらなかった。力があったのだ。
「事情はわかった。あの黒い鳥は彼女が呼んだんだね」
「ああ」
わたしたちは、未だ広場を飛んでいるその黒い影を見上げた。
「あれって魔物……だよね?」
ヘイルは怯えた風もなく真面目に問う。
「……たぶん」
わたしは確信が持てなかったが、状況からしてそうだろうと思った。体に響くほどのすごい羽音で、小さな嵐のようだ。そうこうしているうちにその影は小さくなっていき、女の子の肩に留まる頃にはハトくらいの大きさになっていた。
「カァ」
そのくらいの大きさになってわかったことは、黒い影はただのカラスだったことだ。わたしたちは唖然とした。
「魔物って……操れるものなの? しかも体の大きさも変えられて?」
目の前の光景にヘイルの声は弾んでいた。
「いま、んなこと言ってる場合じゃねーだろ」
ゼギオンの声は上ずっていた。カラスを見ていると、紺色の布を拾ったあとの女の子と目が合った。恐怖で心臓が刺されたみたいに痛んだ。女の子はとにかく不機嫌だった。すごく偉そうに腕を組み、重くて冷たい雰囲気をまといながらこちらを睨んでいた。
「マジかよ……」
ゼギオンが信じられないというように声を漏らした。女の子がこちらに近づいてきたのだ。肩に乗ったカラスは色々な方向を見ていたが、何かに気づいて女の子が足を止めるとカラスも動くのを止めた。わたしたちが不思議に思っていると女の子はくるりと向きを変え、わたしたちが通ってきた道とは違う道へさっさと行ってしまった。




