記憶の外の声 4
コーラルを見つけ、しばらくしてから彼女を部屋に戻したあと、ギダに外に出ないかと誘われた。
夜のミネルバ、特にこの家の周辺は驚くほど静かだ。秋の虫のような鳴き声が庭の草むらから響き、ときどき小動物が動いたような物音が聞こえ、すこしだけ心臓に悪い。玄関の明かりがあたりを静かに照らしていた。夜空に月はなく、星々がちらちらと輝いていた。
外に出ようと誘ってきた青年は背中を向けて数歩先に立っている。空に見入っているのか先程から見上げたままだ。玄関の明かりがわずかに当たっているが、ほとんど影に見えなくもない。こちらから話しかけるのも妙な気がして、あたしは口を開かなかった。この静寂を自分の声で破るというのは、なんだか無粋なことのようにも思えた。
いや、正直に言えば、この沈黙を破る勇気があたしにはなかった。このまま沈黙が続くようなら家の中に入りたかった。寒さや、場に漂うなんとも言えない緊張感から逃げたかった。
そうこうしているうちに夜目が利くようになった。庭の芝生がよく見えるようになり、向こうに見える門扉の影もはっきりとしてきた。視線を手前に戻すと、ギダがこちらを見ていることに気がついた。穏やかに笑っているように見える。
「……何か、話したいこと、あるんでしょ?」
言ってから、すんなりと言葉が出てきたことに内心驚いた。それから、自分の声が妙に静かで優しいことにも。冷たい風があたしの髪や庭の木々を揺らした。
ギダは頭をかいて、視線を外した。
「……確かに話したいんだけど、何を話そうか迷ってた」
「あなたが?」
あたしは目を見開いた。ギダは軽く笑い声を漏らす。
「とりあえず、さっきのことも含めてお疲れさん。今日は大変だっただろうから」
「あぁ……うん」
あたしは大袈裟に溜め息をつく。思い返せば密度の濃い一日だった。平穏だったここ一週間ばかりが嘘のようで、この一週間で起こるはずだった出来事を今日一日に圧縮したのではないかとも思える。できれば何もない日に均等に割ってほしかった。
「そういえば、あの時の墓参りって、あなたの家族の……だったの?」
森の広場にぽつんと立っていたいびつな墓石を唐突に思い出す。
「ああ、そうだよ」
「じゃあ……あなたもエルフなの?」
「んー、微妙なところかな。俺は人間とエルフの混血だから。ちょっと複雑で、人間の血のほうが濃いんだけど、じいさんはエルフだよ」
口調から、特に話しにくいことでもなさそうな感じだった。
「見た目じゃわからない奴も多いからね。俺みたいな奴はこの町にもぼちぼちいる。あ、でも、そのために地方司令官になったわけじゃないから」
同情をしてもらいたいわけじゃない、とギダは手を振った。
「じゃあ、なんのために?」
「それは、ひみつ」
「隠すほどのことなの?」
「もちろん」
問い詰めたところで口を割ることはないだろうと思い、あたしは素直に諦めた。特に気になったわけでもなかった。
「キミはさ、帰りたいって思ってる?」
彼は声色をやや低くして真面目に訊いてきた。なんとなくだが、彼はこのことを話したかったのではないかと思った。
「うん。思ってる。でも、どうしたらいいのか、全然わからなくて……」
「そう、か」
彼の申し訳なさそうな、寂しそうな様子に、気にかけられていたのだとわかった。目が合うと一瞬心臓が跳ね、あたしはごまかすように笑う。
「あ、でも、思い出したこともあるの。姉のことなんだけどね」
「お姉さん? 前に言ってた?」
「うん。そう」
彼は、かなり前にあたしが一回だけ言ったことを覚えていた。記憶力がいい。
「実はね、もういないんだ。事故でね、あたしを庇って死んじゃったみたい」
「……みたい?」
ギダは不思議そうに首を傾げる。
「覚えてないの。断片的なことしか思い出せなくて、気がついたら、もう姉のいない生活を送っていたの。そういえば、墓参りもしてないかもしれない……」
父は気を遣っていたのか、姉のことを話したことがなかった。姉がいなくなって、もう六年になるというのに、あたしはなんと薄情な妹なのだろう。それを聞いていたギダは俯いて、つらそうに口を引き結んでいた。
「ごめんなさい、いきなりこんな話……。なんか、いつものあなたらしくないわね。気を遣う必要もないわ。これはあたしの問題だから」
自分に言い聞かせるように、あたしは言葉をつむいだ。なおも俯いていたので、ギダの胸らへんを拳でゆっくりと押した。あたしとしては茶化すつもりだったのだが、下ろそうとした右手を途中で、受け止めるように握られた。
「……優しいね。手も振り払わないし」
彼の声色から安堵が滲んでいた。あたしが彼と初めて会った日、助けてくれたのに手を振り払ったことを言っているのだろうか。その時のことを思い返すと申し訳ない気持ちがわいたが、手を握られていることへの気恥ずかしさのほうが上回っていた。
「こういう日もあるわ。たぶん今日だけだと思うけど」
声が震えないように気をつけて言うと、彼は笑った。彼の右手はとても温かかったが、自分の手も急に温かくなってきて、手汗をかいてしまいそうだった。
「いや、この前も毛布、かけてくれたじゃないか」
「あれは、その、起こすのが忍びなくて、悩んだ結果というか……」
「お礼も言ってもらえたし、ほんとここに来てよかった」
あたしはハッとしてギダを見上げると、彼は笑っている。
「……起きてたの?」
ギダは嬉しそうに頷く。恥ずかしさに言葉が出てこない。
「なんで寝たふりをしてたかって言いたいんだろ? 目が覚めると隣で誰かさんが寝てて、肩を貸してたから動けなかったんだよ」
「でも、そうだとしても寝たふりをすることないじゃない」
「だけどそのおかげでお礼の言葉も聞けたし」
確かに起きていたら礼など言わなかっただろう。ほかに余計なことを言ってなくて本当によかった。今度からは気をつけなければ。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
あたしの反応をしばらく楽しんだあと、ギダはゆっくりと手を離した。
「明かり、なくてだいじょうぶなの?」
平静を装いつつ訊く。ふつうのひとならば、ランタンのひとつはほしい暗さだ。あたしもここに帰ってくる時持っていた。今日は月も出ていない。
「たぶんね」
ギダは肩をすくめて見せる。
「それじゃ、おやすみ」
別れの挨拶にあたしは頷いて、彼の背中を見送った。徐々に遠ざかる背中は影となり、周りの景色にどんどん溶け込んでいった。そろそろ門扉に着くだろうか。
風が強くなり、解いている髪が揺れる。家の中に入ろうと思った時、あの少年に殴られた頭が急にまた痛くなった。何気なく見上げた空は雲もなく、星々がさらに輝いている。先程よりも夜目が利くようになったからだろう。空が低く、星が降ってくるような感じがした。ここまで綺麗な夜空を見たことはなかったのだが、どこかで見たことがあるような気がした。見上げていたというよりは、仰向けになっていた時に。
どういうことですか!
娘の体がないって、いったいどういうことですか!
いったいどこに行ったっていうんですか!
男の、父の叫んでいる声だ。白い廊下の先で、白衣を着たひとに叫んでいる。
これは、いつの、記憶だ。
あたしは、何を、思い出そうとしている?
記憶の衝撃と頭の痛みに意識が集中して、視界がぶれた。足から力が抜けそうになり、体が崩れる瞬間、力強く肩を抱かれ支えられた。
「え、な……どうして」
戻ってきた彼にかろうじて問うが、彼はあたしの背にもう一方の腕も回した。数秒間、あたしの動きは止まった。
「本当は、さっきしたかったけど、なんか、できなかった」
ギダは、ぽつりぽつりと、言葉をこぼす。
「でも、やっぱり惜しくなって、戻ってきた」
あたしの背に回した腕の力が、ゆっくりと強くなる。密着した彼の体が、服越しでも温かいのを感じた。それに伴うように、あたしの心臓の音が徐々に、はっきりと聞こえてきた。痛みと不安がどこかに去り、いつになく穏やかな音だった。自分はここにいると実感するような、そんな感覚が体に沁みていくようだった。
第二部に続く。




