記憶の外の声 3
秋を思わせるような風が頬にあたる。そこで髪を結んでいないことに気づいたが、いまはそれどころではない。
町中を出て、土がむき出しの道を行き、本部の門扉に差しかかった時、玄関の明かりが目に入った。あたしは門扉を開けると乱暴に閉め、玄関に走った。しかし扉の取っ手の冷たさと重さに急に我に返り、取っ手に手をかけたまま止まってしまう。
いるはずなのだ。この中に。そうでなければ玄関に明かりなど点きはしないはずなのに、しかしと思わずにいられない。誰もいなかった時のことを考えると不安がわき、無駄なことを考えてしまう。
余程しっかりと握っていたのか、取っ手を握っていた手が内側に引っ張られ、あたしの足は数歩前へと進んだ。ハッとして顔を上げる。妙な形で家の中に足を踏み入れたあたしと目が合ったその人物は、見慣れた黒の制服姿ではなかったが、いつもの柔和な笑みを口元に浮かべてあたしに応えた。あたしは感極まって彼の胸に飛び込んだ。
「おかえりなさい、ツカサさん」
子供をあやすように、彼は背中を叩く。
「長らく家を空けてしまって、すみません。不安にさせてしまいましたね」
あたしは彼が生きていて本当によかったと思った。
「感動の再会を邪魔してなんだけど」
真横から大きな溜め息が聞こえた。
「俺としてはすぐにでも離れてほしいな」
あたしは驚きのあまりノアから離れた。真横にいたのは、面白くなさそうに口を尖らせているギダだった。
「それに抱きつくなら俺にしてよ。ほら」
そう言ってギダは手を広げる。あたしは何度も首を横に振った。先程の行動を見られていたことに恥ずかしくなった。
「ギダ、寝言は寝てから言うものだよ。ツカサさんはひとりで心細かったんだから」
「だからって、おまえに抱きつくことはないだろ。俺がした時は引き剥がしたくせに。完全に役得じゃないか。満更でもないんだろ」
「否定はしないし、そこは人徳と言ってほしいかな」
彼らの会話をよそにあたしは手で顔を覆い、穴があったら入りたかった。
「すみません……」
勢いに任せて、あたしはいったいなんてことをしてしまったのか。
「いえ、ツカサさんが謝る必要はありませんよ。ちょっと嬉しかったですし。それよりも色々と大変だったでしょう」
「いえ、あの、あ、いつ戻ってきたんですか? いつ戻れるかわからないって聞いてたんですけど……」
先程の黒いローブを羽織った男は、フードから見慣れた髪飾りが覗いていた。それを見た時あたしは驚いて、しばらくしてから彼がミネルバにいることに安堵した。
と、ノアは溜め息交じりにギダを睨んだ。
「そんなこと言ってたのか?」
「本当のことなんだから仕方ないだろ」
「君は大袈裟に言い過ぎだ。ツカサさんに要らぬ不安を持たせてしまったじゃないか」
ノアは信じられないというように首を振ってから、瞬きを繰り返すあたしを応接間のソファーに座るよう促した。ソファーのローテーブルには三組のカップとソーサーが置かれていた。ふたつまではわかるが、三つ目のカップはいったい誰のものなのだろう。あたしの分の紅茶をノアが新たに淹れてきてくれた。
あたしがひとりで過ごしていた時はランプをひとつ持ち歩いていたため、天井の明かりには一度も火を入れていなかった。こうして点いているところを改めて見ていると、ここに来た当初は暗いと思っていたこの明かりもいまとなっては馴染みのある明るさだった。
「先程のことですが、実はギダからあることを頼まれていたんです」
ノアが静かに話しはじめる。
「あること?」
「はい。あることというのは魔物と関係があって、ここ二年ばかり、魔物が町の中にまで侵入してくることが増えていたんです。ツカサさんが町で盗賊を見た時も、湖のほうで魔物が出ていたんです」
町のほうでは盗賊が出ていたが、途中から現れたノアとニジェットがそんなような話をしていた気がする。
「魔物はそうそう町にまで来ることはありません。ですが実際にそうなっているのですから、何かしら原因がある。そしてその原因がある人物によって引き起こされているのではないかと、彼は仮説を立てました」
あたしの隣に座っているギダに、ノアが話を促すように目を向けた。ローテーブルの上のソーサーにカップを戻し、ギダはすこし目を伏せて顎に手を当てる。
「〈角を持つ者〉っていう魔物を呼ぶことのできる種がいたんだ。もしその〈角を持つ者〉がこの町にいるのだとしたら、魔物が何度も侵入してきたことにも合点がいく。そこで俺はノアにそいつを捜しだすように頼んだ」
「どうしてノアさんに頼んだの?」
あたしは片方の眉を寄せた。
「文献には、〈角を持つ者〉は魔物を匂いで呼び寄せると書いてあった。その匂いは魔物と縁がある魔族も感じることができるみたいだから、ノア以外に頼める奴なんていないだろ?」
「確かに」
この町には彼しか魔族がいないはずだから、話を聞く限りではそういうことになる。
「で、刺されて重傷だったノアがちょうどアレリアにいたから頼んだってわけだ」
「じゃあ、あの、どうして本部に帰ってこなかったんですか?」
あたしがノアに訊くと、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すみません。私自身、目が覚めたのが一昨日のことで、そのせいで不便な思いをさせてしまいましたね。昨日からミネルバに帰ってきてはいたのですが、本部に戻ることは何故かギダに止められていて……」
言い終わってからノアは半眼でギダを見た。
「そんなに睨むなよ。おまえが本部に戻れば隊を業務復帰させないといけないし、俺は自由に動いてほしかったんだ。おまえの好きなりんご、差し入れてやっただろ?」
調子のいいギダの言葉を無視し、ノアは話を続けた。
「ギダはある人物に目星をつけていたのですが、そうそう魔物を呼ぶわけもないですし、まったく動きがなくて。匂いはある程度強まらないと感じないようで、本当に彼女がこちらの捜している人物なのか確信が持てなかったのですが……」
「『彼女』って、女のひとなんですか?」
「はい。なんでも〈角を持つ者〉は、女性しかいないそうです」
ノアはひとつ、神妙に頷いた。
「実はツカサさんやアサギたちの様子も見てましたよ」
「え、本当ですか? いつ?」
「踊り子の衣装を着てたので一瞬誰だかわかりませんでしたけど、ツカサさん、あの喫茶店からいきなり出てきましたよね、確か。すぐ裏に行ってしまいましたけど」
彼が言っているのは恐らく耳飾りを落として、拾うために外に出た時のことだろう。しかしノアがそこにいたということは、だ。
「もしかして、その女のひともあの喫茶店にいたんですか?」
「そうです。それから喫茶店は慌ただしくなって、ツカサさんが攫われたと騒ぎになりました。そのあとはその人物も移動したので私も移動し、あの廃屋に辿り着いたんです」
そういった経緯がありノアはあの場に現れたのか。あの時彼に手を掴まれなかったら、あのままあの水の塊の中に取り込まれていたかもしれない。リアやサイラスもどうなっていたかわからないのだから、偶然の引き合わせに感謝しなければならない。
しかしあたしは首を捻った。
「え、あの、あの時あの場にいた女のひとなんて、あたしとリアくらいしかいませんよね?」
「まあ、端から見ればそうですね。ですがあの時、誰かが確実に魔物を呼びました。あなたは間近で彼女を見ています」
あの時、誰かが魔物を呼んだ。当然あたしは違うし、リアも魔物に襲われたのだから違うはずだ。呼んだというからには、多少は魔物の行動を操れると思っていいのだろうか。それに〈角を持つ者〉という名前も引っかかる。
「……まさか」
先程、廃屋の近くでサイラスが魔物に襲われた時。
喫茶店の二階で踊り子の衣装に着替えていた時。
前に路地で、あたしとサイラスが黒い狼のような魔物に追われた時。
確かにあの子は、コーラルはあたしの近くにいた。
帽子が落ちて、白い角が見えた。
あの子がもし女の子だとしたら、辻褄は合う。
と、近くできしむ音がしてあたしはゆっくりと音のしたほうを見る。応接間の本棚の隣にある扉が開き、その向こうからアサギが出てきた。
「様子は?」
ギダが話しかけた。
「気を失ったまま、まだ寝ています」
アサギはのそのそと応接間に入ってくると窓際の椅子に座った。あたしはわけもわからずに眉をひそめていると、ギダがそれに気づいた。
「いるんだよ。二階に彼女が」
ギダの説明は簡潔だ。
「えっ、じゃあ、あの子、コーラルがここにいるの? いま?」
「その通りです」
ノアが言葉を継いだ。あたしはあの騒ぎの時のことを思い出した。
「確かにさっき、あの子を連れてってましたよね……。あの、それってだいじょうぶなんですか? 家族は……」
「ご家族にはもう伝えてあります。問題は、むしろその家族にあって……」
「家族のほうが、事件のことを知って拒否してるんだよ。いや、わかってて放置していたと言うべきか」
ギダは腕を組み、珍しく苛ついているようだった。
「特に母親が酷い。ここに連れてくる前に家のほうに連れてったけど、自分の娘が事件を起こしたと知って、娘が家に戻るのを拒みやがった。唯一の救いは、その娘が気を失っていて、母親の言葉を聞かなかったことだな」
虫唾が走る、とギダが吐き捨てた時、アサギが出てきた扉のほうから物音がした。この場にいる四人の視線が一斉にそこに向けられる。
間の悪いことに、半分開いた扉から見えたのはたったいま話していたことの中心人物だった。ちらと見えた彼女の表情は差し迫っていて、すぐに見えなくなってしまった。
「……寝てたんじゃないのか?」
ギダが苦い顔でしくじったことを認めた。
「僕が見ていた時は寝ていたんです」
アサギは自分の非は認めず、ありのままを言った。
「本当は起きていたんじゃない?」
あたしがそう言うと、ノアは溜め息をついてから無言で扉の向こうへ行った。
「さて、どうしたものか。とは言っても、できることなんて限られてるしな。明日また彼女を連れて家に行くしかない」
ギダはカップをあおると、ごちそうさん、と立ち上がった。
「明日来るって、だいじょうぶなの? 地方司令官なんでしょ?」
あたしは驚きながらギダを見上げる。彼は一昨日も一週間前も来ていた。これほど頻繁にミネルバに来ていて仕事に差し障りないのだろうか。
「だいじょうぶじゃないけど、無理だったらほかに代理を頼むさ。そのためにミネルバ警備隊のまとめ役がいるわけだし」
ギダが軽く返した時、ノアが慌てて戻ってきた。
「彼女がいなくなった。捜すの手伝ってくれないか。ツカサさんもお願いします」
ギダはマジかよとつぶやいて、項垂れた。
あたしたちは手分けをしてコーラルを捜すことになった。こういう時、広い家というのはかくれんぼにおあつらえ向きというのか、それぞれが各部屋を隅々まで捜したがなかなか見つからなかった。あたしはまさかと思いつつ自分の部屋へと向かった。
持っていた明かりをかざすが、それだけで彼女の存在を確認できるはずもない。一応ベッドの向こうや椅子の陰を見るもやはりいない。備えつけのクローゼットの扉を開けて、やはりこんなところにはいないよなと思いつつ、二つ目のクローゼットを開けた途端に変な声が出た。
一瞬顔を上げたコーラルは、膝を抱えて泣いていたようだった。一応あたしもその場に屈み込んでみるが、こういう時どう声をかけたらいいのか迷ってしまう。そういえばあたしが泣いていた時、彼女は声をかけてハンカチを渡してくれた。なかなかできることではないのだといまさらながら感心した。
彼女は、あたしと同じなのかもしれない。
この町で自分の居場所を見つけられず、途方に暮れ、そのことを真っ直ぐに見ることができない。あたしには父と姉がいたが、彼女には誰もいないのかもしれない。あたしがリアに晩ご飯をご馳走になっていた一週間、コーラルはほぼ毎日来て、一緒に晩ご飯を食べていた。彼女の事情を知っていたリアは、だからこそ世話を焼いていたのだろうか。
そう思っていたらなんだか目頭が熱くなってきて、目の前の少女を抱き締めずにはいられなかった。姉と違ってすぐに泣くような性格ではないのだが、これはもう環境の変化が原因だろう。
姉にはよく、事あるごとに抱き締められていた。すこし恥ずかしい時もあったが、嬉しい気持ちのほうが大きかった。こうして相手の温かさに触れていると、抱き締めているほうも安心することに気づいた。姉もあたしを抱き締めながら、そんなことを思っていたのかもしれない。




