報復者の眼差し 3
ふと顔を上げた。
電車の中で眠っていたようだ。いつも乗っている路線なのだから、寝るのが当たり前になっていた。だが、いつも起きる駅ではなかった。ここは何駅だろうか。
電車内はひとがまばらで、窓の外は明るかった。急行に乗ったのか、電車は長らく停まらない。どこに行くのか、どこで降りるのかわからない。だが不思議と不安がなかった。
いつの間にかホームに降りた。見慣れたホームを見回す。家の最寄り駅だ。足が自然と改札に向かった。階段を上る。一段一段、足が重たかった。ほかに階段を上るひとがいない。真ん中あたりまで上り、立ち止まって顔を上げると、セーラー服を着た誰かが後ろ向きで落ちていった。
振り返る暇もなかった。
決定的な音がする前。
衝撃が体に伝わる前。
一瞬にして、心臓が、潰れた。
*
目が開いた。
今し方見たものを夢だと認識して、詰まっていた息がふっと通った。体が冷え切ったように、恐怖で震えそうだった。
「お、目が覚めたか」
間近から声がした。
「え?」
よくよく状況を確認すると、あたしは誰かに背負われていた。その誰かと言うのがサイラスだった。あたしは我が目を疑った。
「あ、起きたんだ。よかったー」
別のところから返事がもうひとつ。
「え、なに、ちょ、え?」
背中から下ろされ地面に立ったあたしは、混乱しながらサイラスを見上げた。
「一応訊いとくけど、痛いところとかあるか?」
あたしは自分の体を見たり触ったりしてみたが、特にそういったところはなかったので首を横に振った。
「怖いこととかされなかった?」
今度はサイラスの横にいたリートが訊いてきた。邸に着いた時に会った薄紫髪の彼だ。手には槍を持っており、相変わらずひと懐っこそうに口の端を上げている。あたしは腕を組んで思い出してみるが、キミシアの部屋で気を失ってからいままで記憶がないので、もう一度首を横に振った。
「それならよかった。説明するからちょっと待ってな。えーと、どこから言えばいいのか」
「簡単でいいんじゃない?」
「簡単って言うけど、まとめるのって結構難しいぞ」
「そうだねー」
ふたりの掛け合いを見つつ、あたしはメイドたちの会話を思い出そうとしていた。が、どうにも思い出せない。何かを話していたことしかわからない。その前にどうしてあたしは外にいるのだろうか。見た限り領主邸の庭というわけでもなさそうだった。
「おまえは、領主の娘と一緒に誘拐されたんだ。それで、邸から運ばれて通りの荷馬車で眠っていたところを俺たちが発見した。それでいま、邸に帰るところだったんだ」
「そうそう。一件落着ってね」
リートが相槌を打つ。
誘拐。その単語を聞くこと自体が新鮮だった。
「領主の娘のほうは、ほかの警備隊が運んで行ったよ」
「お嬢さんを運ぶの、みんなすっごい速かったよね。俺ら、置いてかれたし」
とんと忘れていたが彼女は無事のようだ。と、あたしは腰につけていた短剣がないことに気がついた。
「あー、持ってかれたな。人質に武器持たせておくほど相手も馬鹿じゃないからな。アサになんて言おう……」
サイラスが盛大に溜め息をついた。
「見つかるかわからないもんね。代わりのは?」
リートが訊ねる。
「警備隊の備品だし、帰って司令官に頼むしかないかもな。聞いてくれるかはわからないけど」
リートからランタンを受け取ったサイラスを先頭にしてとりあえず歩いた。ここは領主邸からどのくらい離れているのだろう。通りを歩いて、庭の向こうの知らない邸を見るが、見当がつかない。
「いつからこっちにいるの?」
リートがつと訊いてきた。
「十日くらい前、だと思う」
「十日かー。まだそんなに経ってないんだね。慣れた?」
「全然。なんていうか色々、わからないことばっかりで毎日驚いてるわ」
苦笑いを見せると、リートのほうは明るく笑った。
「じゃあ、俺もびっくりすること教えてあげるよ。俺、人魚なんだ」
「え!?」
思わず立ち止まると、サイラスが口を挟んだ。
「おい、あんまり驚かせるなよ。っていうか、それ言っていいのか?」
「いや。だから黙っててもらえると助かるかな」
リートはあっけらかんとしている。
「人魚って、あの人魚?」
「んー、どの人魚のことを言ってるかはわからないけど、人魚の男であることは確かだよ。ただ残念ながら、尾ひれはないんだ。女はちゃんとあるよ」
「水の中にいなくても平気なの?」
「俺は平気だよ。例外の日もあるけど、そうじゃなきゃ警備隊なんてやれないよ」
「それは、そうよね」
あたしが妙に納得すると、リートはサイラスに言った。
「犯人は、なんで誘拐なんてしたのかな? 狙いは〈メイト〉だったのかな?」
話がもう変わっている。サイラスは顎に手を当てた。
「いや、今日の晩餐会にツカサが来ることは、アレリアでは司令官以外知らなかったと思うんだ。だから狙いは領主の娘のほうなんじゃないか?」
「娘さんを誘拐してお金でも強請ろうとしたってこと?」
「一概にはそうも言えない気がするけど……。領主は敵も多いみたいだし、他種排斥論に反感を持つ奴の犯行かもしれない」
「それだったらいっぱいいそうだね。俺も反感持ってるし」
リートが頷いた。
「それなら俺だって持ってることになるぞ」
サイラスがうんざりしたように溜め息をついた。何を話しているのかわからないが、領主は敵が多い、ということだけは覚えた。
時間はかかったが、なんとか徒歩で先程通った邸の門に着いた。庭にいる警備隊員の数が減っている気がした。サイラスとリートはさっさと門扉をくぐって邸の裏口へと向かった。
あたしは二度目だというのに、遠くから改めて邸を見て、やはり自分は場違いなところにいると思った。疎外感、というのだろうか。あたしは本当に、さっきまであの邸の中にいたのだろうか。
何気なく振り返った時、ふたつの赤い瞳があたしを見ていた。
黒い髪、白い肌、暗い色のコート。
魔女、と言いたくなるような女が立っていた。
彼女は立っているだけで、ただあたしの行く末を案じるように、寂しそうにこちらを見ていた。




