化石の魚 3
翌日の午後、あたしたちは森へ向かった。
宿泊施設から出て、なだらかな丘陵地帯を散策も兼ねて歩く。向こうに森や小山が見えるのだが、歩けども歩けども近づいている気がしなかった。
六十分は歩いただろうか。ようやく森の目の前にまで来た。ノアはさすが、あたしと違って平気そうな顔をしている。あたしは大きく息を吐いた。その様子を見兼ねたのか、ノアがすかさず言った。
「休みましょうか」
あたしは遠慮なく頷いた。
鬱蒼と茂る木々。薄暗く、このあたりだけまるで雰囲気が違う。恐怖をかきたてられるが、かと言って森に背を向けて座れない。仕方なく横目で見るような形で倒れていた木に座った。
「あと、どれくらいですか?」
ついてきておいてなんだが、あたしにとってはかなり重要な問題だった。
「そうですね。彼が言うにはここから三十分くらいで着くと言ってましたが、詳しいことは案内するひとが来るようなので、なんとも」
三十分……。宿泊先から往復で三時間。休憩も入れたらさらに時間がかかるわけで、運動不足のあたしにとってはかなり応えた。ノアはしばらく周りを窺っていたが、あたしの左手側にある、より森に近い倒木に座った。案内人らしきひとは見当たらない。
今日の天気は昨日と同じで曇りだった。しかも昨日よりも寒い風が吹いている。なんとか調達したコートを羽織ってはいるが、夜になるともっと寒くなるかもしれない。朝も寒いので、昼間に出てきて正解だった。
「あの、誰のお墓参りなんですか?」
そういえば聞いていなかったと思い、訊いてみる。
「友人の家族の、ですよ。詳しいことは話してくれないのですが、彼はずっと前から独りのようなんです。なのに、こういうことは頼んでくるのだから、本当によくわからない男です。ふつうは他人に墓参りなんて頼まないのに、何を考えているのやら」
話すノアの表情には苛立ちが見えた。
「彼は、ミネルバのあるニエジム領の警備隊のトップなんです。地方司令官と言って、これは確か話しましたね。そんな忙しいはずの彼なんですが、仕事から抜け出してちょくちょくミネルバに来るんですよ。おまけに手に負えない性格で。昔から食えない奴だとは思ってましたが、どうして彼が地方司令官になれたのか、未だに信じられなくて」
「そう、なんですか」
なんと言ったらよいものか。前傾姿勢で膝に頬杖をしているノアの、これほど参った様子を見るのは初めてだ。それほど『手に負えない』相手なのだろう。
「知恵は働くのですが、腹の内がまったく見えなくて。ひととしてあまり関わりあいたくないですね、正直に言えば」
ノアは乾いた声で笑った。ノアの語る友人の特徴を聞いていると、なんとなくガーランドのことを思い出した。浮ついたような、胸焼けのような、織り交ざった感覚が胸のあたりでもぞもぞと動く。
「何か、心配事でも?」
ノアは気遣うように顔を覗いてきた。
「そんな顔してますか?」
そう返すと、彼は「すこしだけ」と言った。
「えっと、あの、話は変わるんですけど……」
手をもみつつ、あたしは恐る恐る彼を見る。あたしは直前まで考えていた金髪の青年のことではなく、別のことを口にした。
「ノアさんて、えっと、……人間……ですか?」
その問いにノアは一瞬真顔になった。あたしはすぐさま後悔し、様々な言い訳と謝罪の言葉が頭の中にあふれでてきた。しかしその言葉が口から出る前に、ノアはいつもの柔和な顔になった。先程の友人のことを話す時よりも、幾分か気楽そうに見える。
「これは正直に話したほうがよさそうですね。隠しておきたかったというか、言うつもりがなかったので」
「えっ、じゃあ、いいです」
あたしは手を振り、慌てて断った。ノアはおかしそう笑っている。
「だいじょうぶですよ。ほかの方に話さないでいただければ。確かに私は人間ではありません。前にすこしだけ話した魔族です。驚きました?」
ノアは首をわずかに傾げる。よもやこんな簡単に聞き出せるとは思わなかった。そのことにも驚きつつ頷いた。
「あの……何が、違うんですか?」
「そうですねぇ。種としてまったく別なのですが、体のつくりは表面上変わりませんね。ただ魔族は体の中に魔力というものを持っていて、それを使うことで術が使えます」
ガーランドが話していたことと同じだ。そう思っていると、あたしは目を見張った。
ノアは左手の手袋を外すと、さっと小さく振った。掌から火が出ていた。厳密に言えば火は掌から浮いている。左手は最初から焼け爛れていた。
「詳しい原理は言っても混乱すると思うので言いませんが」
火が水に変わり、掌の上で踊るように動いている。
「これを魔術といいます。魔法とも呼ばれます」
彼の掌の水をしばらく見たあと、ふと視線を動かした時、いつもは茶色のノアの眼が赤くなっていた。ノアはあたしの視線に気づき、ひとつ頷いてから掌の水をぱっと跡形もなく消した。
「手品……じゃないですよね?」
眉間にしわを寄せて訊いたら、手袋をつけ直していたノアが吹き出した。
「もちろん違いますよ。魔族はですね、黒髪赤眼が基本で、ですが私の部族は紅い髪が特徴でした。眼の色も本家の魔族とは違って、私のように赤以外の色を持つ者もたくさんいました。いま思うと、何か理由があったのかもしれません。魔術を使う時だけはさっきみたいに眼が赤くなるんですよ」
ノアは何かを思い出すように、しばらく遠くに目を向け、それからこちらに向いた。眼の色はもう赤くはなかった。
「このくらいで、あなたの疑問にはこたえられましたか?」
「あ、はい……」
「よかった。これ以上話すと、たぶん私のことが怖くなるんじゃないかと思うので。まあ、いまでも怖いですよね。もともと赤の他人ですし」
「え、いや、そんなことは」
否定しておいてなんだが、そのような気持ちが微塵もないわけではない。
「私が魔族であることは口外しないでもらえますか?」
ノアは寂しそうに微笑みながら目を細めた。
「はい。もちろんです。でも、サイラスたちは……」
こんなふうに頼まれては、約束を破る気にもなれない。
「彼らは知ってますよ」
「そう、ですか。そうですよね」
普段の親しげな様子からして、知っていて当然だと思った。
「……あ」
「どうしました?」
「最後に、あの、これだけは訊きたいんですけど……」
おこがましいと思いつつ言うと、ノアがどうぞと言うように首を傾げた。
「あの、魔族ってどのくらい生きるんですか?」
「あー、それですか……」
ノアは声を下げて、すこし困っているようだった。
「人間からしてみれば……とても長く生きますよ。五百年くらいでしょうか。少なくとも私の部族はそうでしたね」
「ごっ、えっ?!」
あたしは驚いて彼を凝視した。確かに見た目はあたしやサイラスたちと変わらないが、彼の雰囲気や言動は同年代のそれと一線を画していることを薄々感じていた。
「ツカサさんの言いたいことは、なんとなくわかります。そうですね、見た目どおりの歳でないことだけは確かです」
「え、じゃあ、三十三っていうのも、本当は……」
「ご想像にお任せします」
そう言ったノアはすこし楽しんでいるようだった。珍しくからかわれたと思うとすこしこそばゆくて、視線を足元に逸らした。




