第2章 黒いセーラー服の課長その2
警察庁の建物を出たのは、夕暮れが近づく頃だった。
城島忍は、隣を歩く小さな課長――天宮ゆりねを、ちらりと見下ろした。黒いセーラー服に白いハイソックスという出で立ちの少女と警察官という組み合わせは街中では完全に浮いている。
通行人が二度見するのも無理はない。忍は自然と、ゆりねを人ごみから守るように体を寄せた。
「課長、今日は初日でお疲れでしょう。送りますよ。官舎はどちらですか?」
警察官は、概ね30歳くらいまでは官舎への入居が認められている。忍も、左遷のタイミングで新たに申請し、認められていた。ゆりねのような特別枠も、当然官舎手配だろうと思っていた。
ゆりねは、少し俯き加減に答えた。
「えっと……城島さんと同じ方向、だと思います」
忍は足を止めた。
「……同じ方向?」
違和感に気づいたのは、その瞬間だった。
官舎は近辺に点在しており、部署や階級によって割り当てが違う。逆方向になることも覚悟していた。だが、同じ方向なら送迎も楽だ。最初の違和感を、忍はそう自分に言い聞かせて振り払った。
二人は並んで歩き始める。東京の夕方の街は、帰宅ラッシュで賑やかだ。忍の長い足取りに、ゆりねは小走りでついてくる。
小柄なゆりねが懸命に動く様子が、なんだか可愛らしくて――いや、駄目だ。集中しろ。
官舎エリアに近づくにつれ、違和感が膨れ上がった。忍の住むことになっている建物が見えてくる。古びたが清潔な、警察官向けのマンションタイプ。嫌な予感が、胸に広がる。
「課長、念のため確認ですが……どの官舎にご入居ですか?」
ゆりねが、メモのような紙をバッグから取り出した。細い指で広げ、確認する。
「えっと……警視庁官舎、第三棟。部屋番号は……1502号室です」
忍の足が、ぴたりと止まった。
「……同じ建物。同じ部屋」
声が、裏返った。
ゆりねが、不思議そうに首を傾げる。
「はい。城島さんも、ですよね? 上層部から、そう聞いています」
狼狽が、忍の全身を駆け巡った。
思い出した。数日前、部屋に少ない荷物を置きに行ったときのことだ。ワンルームのはずが、やけに広い。リビングにキッチン、寝室が二つ。豪華すぎると疑問を抱いたが、左遷の慰めかと思った。あれは……同居を前提とした部屋だったのか。
(同居!? 私と、課長が!?)
頭が真っ白になる。12歳の少女と、28歳の自分が、同じ部屋で暮らす。しかも、上司と部下。警護担当とはいえ、これは……。
ゆりねには日本での身寄りがない。天才的な頭脳を持っていても、所詮は幼い少女。一人で暮らすには心細いだろう。上層部の判断だ。きっと、そうに違いない。保護者代わりとして、忍が選ばれたのだろう。SP経験を買われて。
理性が、そう結論づけた。だが、心臓はドクドクと鳴っている。
「……了解しました。では、行きましょう」
忍は、平静を装って歩き出した。ゆりねが、ほっとしたように後ろをついてくる。
エレベーターで15階へ。鍵を開け、部屋に入る。
広々としたリビング。新しい家具が揃い、キッチンも使いやすそうだ。寝室は二つ――一つは忍の荷物が置いてある部屋、もう一つは空きだ。
ゆりねは、部屋の中央で立ち止まり、深く頭を下げた。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
ドラマやアニメでしか聞いたことのないセリフ。声は小さく、辿々しい。黒いセーラー服の裾を、両手でぎゅっと握っている。
忍は、慌てて手を振った。
「課長、そこまで畏まらなくても! ここは職場じゃないんですから」
ゆりねが、顔を上げた。大きな瞳が、少し潤んでいる。
「でも……今は、職責から離れているから、肩の力を抜いてもらいたいんです。城島さんにも、楽にしていてほしいです」
その表情は、先ほどまでの緊張がいくらか減り、更に幼く見えた。頰が少し赤らみ、唇が小さく微笑む。年相応の、無防備な可愛らしさ。忍の心が、ドキリと鳴る。
(可愛い……いや、駄目だ! お姉さんとして、ちゃんとしないと!)
忍は、咳払いをして、キッチンに向かった。
「さて、夕食にしましょう。課長……いえ、ゆりねさん。日本に来てまだ慣れないでしょう? お姉さんとして、日本料理を振る舞いますよ」
ゆりねの目が、ぱっと輝いた。
「お姉さん……?」
「あ、すみません。つい。年上ぶってしまって」
「い、いえ! 嬉しいです……お姉さん、って呼んでみたいです」
ゆりねが、頰を赤くして呟く。忍の理性が、また少し揺らぐ。
メニューは、肉じゃがとサラダ。忍は料理が得意だ。SP時代も、独り暮らしで腕を磨いた。冷蔵庫には、事前に買い込んでおいた材料がある。
鍋にじゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉を入れ、醤油とみりんで味付け。煮立ついい匂いが、部屋に広がる。ゆりねは、キッチンのカウンターに座って、興味津々で見つめている。
「わあ……いい匂い。日本のお料理、久しぶりです。イギリスでは、フィッシュアンドチップスばかりで……」
「そうなんだ。じゃあ、今日は胃袋を掴んでおかないとね」
忍は笑って、盛り付けをする。テーブルに並べ、二人で向かい合う。
ゆりねが、スプーンを手に、一口食べる。
「…………!」
目が、大きく見開かれた。
「おいしい……! お姉さん、すごいです! 温かくて、甘くて……お母さんの味、みたい」
声が、少し震えている。ゆりねの瞳に、涙が浮かんだ。両親を亡くした過去を、忍は知っている。きっと、思い出が蘇ったのだろう。
忍の胸が、温かくなった。
「よかった。気に入ってくれて」
ゆりねは、夢中で食べ続ける。小さな口で、頰張る様子が、たまらなく可愛い。サラダも、ぱりぱりと音を立てて平らげる。
「もっと、ありますよ。おかわりどうぞ」
「は、はい! お願いします!」
ゆりねが、皿を差し出す。頰に米粒がついている。忍は、思わず手を伸ばし、拭ってあげた。
「ほら、ついてる」
「あ……ありがとう、お姉さん」
ゆりねが、照れくさそうに笑う。その笑顔に、忍は完全に胃袋を掴まれた気分だった。いや、逆だ。ゆりねの胃袋を、しっかり掴んだ。
食事が終わり、片付けを済ませる。ゆりねは、満足げにソファに座り、お腹をさする。
「お姉さん、ありがとうございました。こんなに美味しいの、久しぶりです」
「これから、毎日作るよ。家族みたいに、ね」
言葉が、自然に出た。ゆりねが、ぱっと顔を上げた。
「家族……?」
「あ、すみません。変なこと言って」
「い、いえ! 嬉しいです……私、家族がいなくて……お姉さんが、いてくれて、よかった」
ゆりねの声が、小さくなる。忍は、そっと隣に座った。
「私も、守る人ができて、よかったよ。課長としてじゃなく、ゆりねとして」
部屋に、穏やかな空気が流れる。外はすっかり夜。新しい同居生活の、始まりだった。
忍は、心の中で誓った。
(この子を、絶対に守る。仕事でも、日常でも)
ゆりねは、眠そうに目をこすっている。忍は、寝室を案内し、ベッドを整える。
「おやすみ、ゆりね」
「おやすみなさい、お姉さん」
小さな声が、返ってきた。
忍は、自分の部屋に戻り、ベッドに横になる。心臓が、まだ少し速い。
(同居か……大変になりそうだ)
だが、不思議と嫌ではなかった。
異色のコンビの、日常が、少しずつ形作られていく。




