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婚約者は、私の妹に恋をする  作者: はなぶさ
マリアンヌの真実
67/68

6

ルビーとの対話を通じ、イリアとはやはり少し距離を置くべきかと思案しつつ、時が流れるのを待った。

ほとぼりが冷めるのを待つ犯罪者というのはこういう気分なのかと、鬱々とした時間を過ごして。

それから。


転機が訪れたのは十六歳の春だった。

ある日突然、ルビーが我が家に現れたのである。

言うまでもなく、子爵家の令嬢が何の先ぶれもなく伯爵家を訪ねるのはあまりにも礼を欠いている。通常は手紙か伝令で訪ねても良いかお伺いをたてるものだ。

けれど、彼女はそうしなかった。

学院でこそ家同士のしがらみなど関係がないように振舞うものの、一歩、学院の敷地から出れば貴族社会のしきたりに倣うルビー。街中で顔を合わせたなら、まずは挨拶から入り礼を欠かさない。

だからこそ信頼のおける友人となったわけで。そんな彼女の予想だにしなかった行いに多少なりとも面食らってしまったのは仕方のないことだった。


「不躾に申し訳ありません、マリアンヌ様」


応接間に通されていた彼女は実に質素な身なりをしていた。足元を見れば、ブーツを履いている。つま先が汚れていて、いつもとはあまりに違う恰好に首を傾げた。

更に違和感を強くしたのは、ルビーの背後にそびえ立つ屈強な騎士である。恐らく、護衛なのだろうが、我が家が雇い入れている騎士とは少し性質が違うように思った。この人はきっと、誰かを護るための騎士ではない。

不測の事態に剣を持ち、戦うための騎士だということを、その隠しきれない存在感が示している。


「あまり時間がないものですから……」


色を失った頬が硬く強張っている。ふんわりと赤く染まっている丸い頬が好きなのに、いつの間にか痩せているようだった。

「ルビー?」

名前を呼んだものの言葉が続かない。何を訊けばいいか分からなかった。目の前の友人は、何もかもがいつもと違っている。きつくまとめた髪に何か意味はあるのだろうか。

とりあえずソファに座るように促すと、ちらと護衛を見やり、遠慮がちに腰を下ろす。

己の護衛騎士に対して警戒しているように見えて不思議だった。


「一体、どうしたの?」

控えていた侍女にお茶を用意するように指示を出し、自らも友人の対面に座る。

「……あの、実は……」

小さな唇が風を食むようにはくはくと動いた。うまく言葉が出ないようだ。急いでいるのか、あるいは焦っているのか分からないが額にうっすらと汗が滲んでいる。

落ち着かない様子で、まるで何者かに追われているかのような切迫感すらあった。

少しでも安心できるよう席を移動し、その隣に座り直す。このほうが、声も聞き取りやすい。

「人払いを」

お茶を運んできた侍女に告げれば「かしこまりました」と、ルビーの護衛に退出を促してくれる。長く仕えてくれているからか、一から十まで全て説明しなくとも、私のやりたいことや言いたいを察してくれるので助かる。


「……それで? どうなさったの?」


やがて二人きりになった室内で改めてルビーに向き直った。

落ち着いて、と紅茶の入ったカップを握らせると、震える指で持ち上げて軽く口をつける。その挙動を黙って見守った。ほうと、息をついた少女は一度天を仰ぎ、目を閉じる。

一、二、と数を数えるくらいの間をおいてすっと姿勢を正し、おもむろに瞼を上げた。音もなくこちらを見やる。話すのに覚悟が必要なほどの重大事項を今、私に打ち明けようとしている。


「―――――私、学院を辞めることになりました」


先ほどまでの様子とは打って変わって、抑揚もなく淡々と述べた。もしかしたら、そんな風に平静を装っていなければ泣き出しそうだったのかもしれない。赤く染まった両目に、動揺した私の顔を映り込んでいる。

「どうして、」

絞り出した己の声がひどく頼りない。自分でも初めて耳にするような声だった。

持っていたカップをソーサーに戻したルビーが、今度は困ったような顔をして、

「結婚するのです」と、一言告げる。

「結婚?」その意味を理解することができず、ただ彼女の言葉をなぞるしかなかった。

室内の空気が質量を得たかのように、重く背中にのしかかる。寒気がしたような気がしたので、両手をすり合わせた。己ながら分かりやすくうろたえている。


学院を辞めて、結婚する。


これが自分の意志であったならどれほど良かったことか。

でも、それが彼女自身の選択ではないことは火を見るよりも明らかだった。泣き明かしたと分かる疲れ切った顔が証明している。

「旦那様の体調が悪いようで、一刻も早く式を挙げたいと……。先方より申し出が」

「……そう、」

「そもそも学院へは旦那様のご厚意で通わせてもらったようなものなのです。だから、あちらがもう学院へは通うなと言えば、そうするしかございません」

婚姻の契約も交わしていないはずなのに、婚約者のことをもう、旦那様と呼んでいる。

左手の薬指にはまった赤い石が、窓から差し込む陽の光を暗く反射した。不似合いなほどの豪奢な装飾品。立て続けに靴を新調した理由が明確になる。贈り物なのだ、恐らく。

「どういうことなのか伺っても?」

問えば、こくりと頷き、

「我が家が国王陛下から賜った領地は……、土地そのものが痩せており、農作物があまり育ちません。それでも工芸品などを売って、それなりの生計をたてていたのですが。昨今の不景気や原材料の高騰により、それも難しくなったのでございます。工芸品自体、作ることができなくなりました。そして、代わりとなるものもなく。―――――要するに我が家は領地経営に失敗したのでございます」

かなり端折っての説明のようだが、私のような外部の人間に言えるのはこのくらいしかないのだろう。

「そこに援助を申し出てくれた人物がおり、その担保として私がその方の下へ嫁ぐことになったのでございます」と、そういう話だった。

お相手は商人だと言っていたから、その人にとってはきっと箔付けのため結婚なのだろう。自身は爵位を賜れずとも、子爵令嬢との縁が強力な後ろ盾となる。赤貧の子爵家だろうと、爵位はそれそのものに意味があり、それほどに魅力的でもあるらしい。

「そんな生贄のような縁談……」

思っていたことがそのまま口に出てしまい、はっと口元を押さえる。ルビーは少し双眸を見開き、ふふと笑んだ。

「マリアンヌ様が失言なさるなんて珍しくて笑ってしまいました」

そして、堪えきれないかのようにふふふと吹き出し、目元を緩める。脱力するような笑い方は珍しい、と思っていたら、笑みを隠すように両手で口元を覆った。ふっと息を吐き出したのを最後に、その瞳の輪郭が、じわりとほどける。

声は一つも漏れないのに、肩が震えていた。

「ルビー……!」

かける言葉も分からないのに、名前を呼ぶ。答えるように頷いた彼女はそれでも泣くまいとしているのか、深い呼吸を繰り返す。

ややあって「何度、泣いても……、涙って枯れることはないのですわ」と、目元を拭った。

だというのに、留まることのできなかった涙が頬を伝い「泣いたところで失ったものは取り戻せないのに、」と嗚咽を漏らす。そうしてまた、水滴が一筋零れて膝に落ちる。


「我が家を援助してくださるというお話はいくつかございました。それこそ金銭だけを支援してくださるというものもあったのです。事業が安定したら利息を足して返済してくれればいいと」

それだけ聞けば二つ返事でお願いをしそうなものだが、どうにもきな臭く。事実として、その話が流れたからこそ彼女はここにいる。続きを促せば、やはりその話自体が立ち消えとなったらしい。そのとき、彼女の両親に助言を与え、かつ支えてくれたのがルビーの婚約者のようだった。

「両親と旦那様は古くからの友人でもあります。ですから初めはただ、相談事をする仲でしかなかったと、そう聞いております」

それがいつの間にか、ルビーとの縁談話へと進んでいったようだ。


「両親は選んでいいといいました。何を選ぶのもお前の自由だと。―――――八つの私に、そう言ったのです」


その頃のルビーを私は、知らない。今と同じように聡明ではあったはずだ。頭もよく利口で利発。勉強にも励んでいたに違いない。それでも、だ。

たった八つの子供に、何を選べというのか。

「もちろん私は、行きたくないと言いました。当然です。父よりももっと年かさの男性に嫁ぐなんて考えてもみませんでした」けれど、

「ある年の冬、領地を例年よりもひどい寒波が襲い、大勢の死者が出たのです。それまでとは比べ物にならないほど領民は飢えました」事業に失敗し、働き手も失い、食べるものもない。天井知らずに膨らんでいく借金。領地に残った年若い娘たちが売られていく。両親が頭を抱えて打開策を練ろうとしている姿を、ただ見ているしかなかった。

「その時思い出したのです。旦那様との縁談を」

「……、」

「私は十歳になっていました」

視線を落とした友人はもう泣いていなかった。触れるだけで痛そうな赤い眦に、苦悩だけが滲んでいる。

「父に申し出て連絡を取ってみると、旦那様は心配無用とだけお返事くださり……、」

かなりの豪商といっていたから、領地の窮地を救ってくれたのだろう。つまり、彼女や彼女の両親にとっては恩人。―――――それなのに、全てが仕組まれているようにも感じる。

「……何も、言わないでくださいませ。マリアンヌ様」

どこからどこまでが、その男の手によるものなのか。きっと、ルビーも、彼女の両親も勘づいているはずだ。

「私はもう、選んだのです」

言葉が出ない。

なぜなら私には、彼女の選択を咎めるような度量はなく、その権利もない。彼女や彼女の実家、その領地、領民を救えるような力も持っていない。


今更、

「そんな顔をなさらないで。マリアンヌ様」

今更、何ができるというのか。


「私はこう見えて、可哀相ではありませんのよ」

背筋をまっすぐに伸ばして、しなやかな指でカップを取ったルビーが小さな口にお茶を含む。味わうように鼻ですっと息を吸い込み、こくりと嚥下した。

「とても美味しい」と、目を細めて悦に浸る。

「結局、こういう生活を捨てられないというだけですの」

本音ではないと分かっている。強がりなのだということも察していた。

家のために「旦那様」と呼ぶ、年の離れた富豪の下へと嫁ぐのだ。しかも、相手には既に二人の妻がおり、子供も複数名はいるはずだ。不安しかない。

だが、こういったことは珍しい話でもなかった。

家と家の取引のために結婚するのは何も女性だけではなく、男性が、家の存続や繁栄のために好きでもない女性を娶ることだってあり得る。


どんな時も願うことは一つだけ。

伴侶となる人が善良であること。

そうでさえあれば、理不尽な扱いを受けないだろうと、それだけを信じている。


「それでは、私はもう行かなければなりません」


不意にすっと立ち上がった友人に「もう?」と問えば、

間髪入れずに「すぐにでもここを発つ予定です」と返事がくる。やはり急いでいるらしい。

あまりにも突然の展開に頭が追い付かない。ルビーを追うように慌てて立ち上がったものの、動揺してテーブルに足をぶつけてしまった。「まぁ、」と支えてくれたその人の手を掴む。


指が冷たい。


互いに縋りつくような恰好になってしまい、息が触れ合うほどの距離で見つめ合った。

「……マリアンヌ様」

「はい、」

「一度だけ抱きしめても構いませんか?」

「ええ、もちろん」

自分よりも小柄な女性に、包まれるようにそっと抱きしめられる。柔く、きつく。絶妙な加減だから、いつでも振り切れるのに、いつまでもそうしていてほしいような気がした。

思わず「行かないで」と、そんな言葉が口から零れる。

悩むことなく「いいえ」と首を振る彼女が「既に融資を受けているのです。私が嫁ぐことを前提に借り受けましたゆえ、行かなければなりません」と、突き放すように離された。

「代替はききません。金銭ではお返しできないのです。そういう……、お約束ですから」

「そんな……、選択肢のない道……ありえませんわ」

揺れるルビーの目を見ていた。

頭の中で、父に頼めば何とかなるかもしれないという考えも過る。けれど、相手はただの富豪ではない。社交界にも名の知れた人物で、上位貴族の覚えもめでたい。その反面、商売の取引に関してはかなり強引な手を使うとも噂に聞いた。逆らう人間には容赦がないと。敵に回していい相手ではないのだ。

ルビーのために、我が家を危険にさらす?


できない。


「マリアンヌ様」

「……、」

「選択肢がなかったわけではありません。私たちにはいつだって二つの道があります。いくつかの選択肢から自ら選ぶ道と、何も選ばない道です。私の前にも道があって、何も選ばないことだってできました。そうすれば、ただ破滅を待つだけで良かったのです」

その方がきっと楽だった。でも、生き延びる道を選んだ。と、ルビーは言う。

「だからお願いです。今こそ、施しを与えてくださいませんか」

「……施し?」

「はい。言ってください。絶対に、―――――幸せになれると」


私の優しさは施しに似ていると言っていたルビー。自分が持っているから、その余剰分を他人に与えられるのだと。それは詰まるところ、人を傷つけるものだった。

だから気を付けるべきだと自らを律している。社会通念上でも、誰も彼も見境なく施しを与えるべきではないと、そう決まっているのだから。

施しは、必要な人にこそ与えられるべきもの。

彼女は何かが欠けている人ではない。なのに、施しが欲しいという。

言葉に詰まる私に、追いうちをかけるのは唯一といっていいほどの友人。


「そして、さようならと言ってくださいまし。もう二度と会うことがないように」


「言えないわ」と答えれば、いいえそうしなければならないのです、と言葉を重ねる。

そうだ。もう分かっている。ここで別れたらもう、会えない。

彼女の嫁ぎ先がどういう家で、その夫がどういう人か分かっているから。

厄介な人間だ。

だからこそ、我々貴族が油断してはならない相手でもあり、不用意に近づいてはならない。私のように、爵位があるだけで何の力も持たない小娘など。赤子の腕をひねるよりも簡単に蹂躙されることになる。


「貴女様は判断を違えたりはいたしません。だから、ここでお別れでございます」


離れていた体をもう一度引き寄せ、ぎゅうっと抱きしめる。ひくりと、耳元でしゃくりあげる声が聞こえた。

「ルビー。貴女は絶対に幸せになる」

「はい、」

「絶対に、大丈夫」


絶対に、


繰り返した言葉がそらぞらしく天井に向かって消えていった。私が分け与えるものは本当の優しさではない。施しは、与えたら終わり。その先はないと、どうしようもないほどに理解していたから。




私はずっと、選択を間違っていたと思っていた。

けれど。

―――――選択肢のある道と、何も選ばない道。私が本当に歩いていたのは、どちらだったのろう。


ルビーは教えてくれたのだ。

何も選ばないことすら、一つの選択なのだと。






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