第十六章 南蛮船
第十六章 南蛮船
天文三年1534年は慶事から始まった。二月、将軍義家と正妻諏訪殿との間に、嫡男が生まれて、虎王丸と名付けられた。この名は義家の幼名と同じで、これ以降代々将軍の嫡男の幼名になる。
義勝にとっては初めての内孫になる、初孫はすでに左大臣近衛稙家と長女真希姫との間に春丸と言う男子がいる。
「(気が付けば40か、もうこっちに居る方がずっと長いんだな、『四十にして惑わず』か、そんな風になれるのだろうか?『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり』って信長が好きだった幸若舞『敦盛』だったな、人生は短い、あと10年、何ができるのかな)」
義勝は美濃殿と並んで、安土城の対面の間で、嫡男誕生の祝賀を受ける義家を見ながらそんな事を考えていた。
そして、大阪本願寺に戻った義勝の元に、待ちに待った吉報が届く、博多の豪商、神屋宗湛、島井茂久がそれそれ一隻ずつ南蛮船を購入して、呂宋から回航するとの報告があったのだ。
義勝は、直ぐに博多に向かう、博多湾に入ると二隻の南蛮船が既に係留されていて、そのうちの一隻には多数の人夫が群がっていて、分解調査の作業に入っている様だ、船から降ろされた大砲は大型荷車に乗せられている。
「(指示した通りに動いていると気持ちが良いな)」
と義勝は思った。
船を二隻買わせたのは、一隻は分解して、内部構造を把握して国内で南蛮船を建造する為だ。
もう一隻は完成見本としての役割もあるが、乗組員の訓練船も兼ねている。
西教寺に入ると、早速、神屋宗湛、島井茂久を呼び寄せた。
「両名ともご苦労であった、して幾らであった?」
「私が買い入れました『サンタ・アントニア号』は、銀30000両でございます」
神屋宗湛が先に答えた。
「同じく『サンタ・エリサベト号」は、銀35000両でございます」
島井茂久の方が高いのは、鉄砲50丁の代金が含まれているからだ、
この二隻は姉妹船で、4本マストの『ガレオン船』で、排水量500トン、乗員は400名、大砲は40門搭載されている。どちらもポルトガル領インドのゴアで建造された船だった。購入価格は現在の価値だと一隻20億円位になる。
義勝は二人を労い、言い値で料金を支払った、二人とも銀では嵩張るので金で受け取る方を選んだ。
二人が礼を言って帰った後、義勝は義輔から現状の報告を聞いた。
この二隻の艦長は、それぞれ金を受けとった後で船ごと逃げようとして、事前に義勝に言われてそれを予想していた松浦興信が海軍の関船と小早船を動員し、二隻の周りを取り囲み、先に脱出をしようとした、『サンタ・アントニア号』を拿捕、艦長以下仕官を全員をその場で処刑した。船員や兵達は今は勾留中と言う事だ、そして、出遅れた『サンタ・エリサベト号」の艦長と士官には義輔が
「『サンタ・エリサベト号』で海軍の訓練を数年間手伝い、その後で代金と給金を持って呂宋に送られるか、ここで死ぬかどちらかを選べ」
と迫り、今は艦長以下380名程が、厳重な監視の下でサンタ・アントニア号の乗組員と一緒に唐津の街で暮らしているそうだ。 『サンタ・エリサベト号』は海兵隊の者が操船を覚え次第、唐津の湊に回航され訓練船として運航される事になっている。訓練に必要の無い船員や兵達は商船に乗せて呂宋に送り返す予定と言う事だ。
つまり分解している方は『サンタ・アントニア号』の方で、船から降ろされた大砲は、そのまま順次
『博多鎮守府』に運ばれて、30門が、海側の石垣の上に設置されることになる。
残った10門と予備の砲身は、複製できるか調査中だと言う。
この大砲は青銅製の口径4寸のデミカルヴァリン砲で、1貫目の弾丸を発射する、射程は半里ほどあり、熟練の砲手なら10町までなら命中精度は高い、この頃には鋳鉄製の砲身もあるが、精度が悪く
青銅より壊れやすいので、それ程普及していない。
「義輔、大砲の複製は、鍛治師ではなくて鋳物師に頼め、京の都から連れてくれば良い」
「は、鋳物師ですか、寺の梵鐘を作る?」
「そうだ、この大砲は青銅の鋳物だ」
と義勝は指示をした、青銅の鋳物なら鋳物師によって複製できる可能性が高い。
ちなみに正史の日本で南蛮船が使用されていないのは、水軍の合戦が沿岸や川で行われたからで、喫水が深い大型の南蛮船では座礁してしまうからだ。
また大砲も正史では天正四年1576年、キリシタン大名の大友宗麟が、日本に布教に来たポルトガル人宣教師達から火縄銃や硝石等と共に大砲(フランキ砲)を購入したのが初めてで、宗麟はこれを『国崩し』と名付けて実戦で使用している。ちなみにこの砲は『靖国神社・遊就館』に実物が展示されている。
「義輔、先程の話だと、 サンタ・アントニア号の艦長は処刑されたのだな」
「はい、父上」
「では、神屋宗湛が支払った銀30000両は何処に行ったのだ?」
「船にありましたので、鉄砲200丁と他の金や銀と一緒に回収してあります」
「そうか、それは上々、博多鎮守府の運営資金に充てよ、城の方はどうなっている?」
「九割ほど完成しております、海から見える天守はそれは見事で、南蛮の者共も恐れ入っておりました、
丹羽長政殿、村上康吉殿は鎮守府で父上をお待ちしております」
「そうか、大義である、唐津の街はどうか?」
「サンタ・エリサベト号の『ナヴェガドウ』(航海士)と言う役職の船に詳しい者によると、南蛮船の整備、建造には『船渠』と言う特別な施設が必要との事で、松浦川と波多川に『砂船渠』と言う物を作らせています」
義輔も義勝の意を汲んで、指示をされなくても南蛮船建造の用意を着々としていると言う事がわかり
義勝は嬉しくなった。
この『ナヴェガドウ』こと「カセリオ・デ・カルヴァーリョ・イ・アタイデ」と言う長い名前を持つポルトガルの貴族出身で、配下に船の補修をする『船大工』を数人抱えていた。
カセレオはこの唐津……と言うか、身の回りの世話をする女性……が気に入ったのか、後に帰国を拒否してその女性を妻として娶り、『唐津按針』と名乗り海軍省参与男爵となる。
砂船渠とは砂ドックの事で、『将軍』のドラマでも有名な『三浦按針』=ウィリアム・アダムスに正史で徳川家康が伊豆・伊東に作らせた西洋造船所と同じ設備だ。アダムスは慶長十二年1607年に二隻の南蛮船を建造している。
博多鎮守府を訪れると、見事な白亜の六層の天守が完成していた、この天守の六層目は、岐阜城、安土城や大阪本願寺の様に茶室にはなって居ない、数人で常に海を見張れる「物見櫓」となっている。
「おう、対馬が見えるな、義輔はもう行ったか?」
「はい、宗将盛殿から色々と朝鮮国についての話を伺いました」
宗将盛は、大永六年に千秋李光が筑前に上陸して博多を押さえた際、早々と臣従を表明した、その際に一族の宗盛治はそれに反対して謀反、李光の援助で謀反を制圧した将盛は本領を安堵されて現在は子爵となっているが、宗家は特例として安土在住を免除されているが、息子や娘達は安土に住んで居る。
この頃朝鮮国との関係は、良くも悪くも無い状況だった、倭寇討伐の件で共闘する事もあり、宗氏の仲介で朝鮮の商人が多数博多に来ている、また朝鮮の陶工が良い土を求めて、唐津や有田に工房を建てて移り住んだりもしている。
義勝は、本丸の評定所に、義輔、丹羽長政、村上康吉、松浦興信の四人を呼び博多鎮守府普請の労を労った
「まずは長政、見事な縄張りであった、引き続き唐津の湊と街、南蛮船大工所、『南蛮船造船所』の普請を
頼むぞ」
「はは、かしこまりました」
「康吉、海兵隊はどれだけ集まった?」
「は、海軍伝習所を作った事により、水軍以外からの兵を集める事ができる様になりましたので、数だけは15000を超えております」
「そうか、海の上で戦うのは陸とは全く別物だからな、良く鍛えてやれ」
「かしこまりました」
「興信、軍船はどうだ?」
「松浦党から100、他の水軍から100、合わせて200。内大型船は唐船10、大安宅が30、関船60、小早100、新造の唐船は5です」
「南蛮船の乗組員は選んであるのか?」
「は、若い者を中心に選んでおります、150名程が水夫、200名が海兵、内50名が砲兵と言う事になります、これは艦長からの指示で、半数ずつ南蛮人と一緒に訓練公開する事になります」
この頃の殆どの水軍の航法は『沿岸航法』で、 沿岸部を目視によりながら航海する方法が基本だ、それに対して明船や南蛮船は太陽や月、北極星の位置から自船の位置を測定する『天文航法』と『羅針盤』を併用した航海方法だ、だから日本の商船は、対馬を経て朝鮮沿岸を通って明国に至る航路を通るのが普通だった。ただ一部の豪商は明の『安針』(航海士)を雇い入れて、黄海を横断する航路を使用してた。
当然ながら倭寇の船や倭寇と関係が有る松浦党の船は天文航法と羅針盤を取り入れている。
松浦党としては、他の水軍に秘匿して置きたい航海上の優位を失う事になる。だがここで義勝の方針に逆らうわけには行かなかった、その為にも海軍の主導権を握りたいと考えている。
一方で、村上水軍は数では圧倒的に勝るが、主力は瀬戸内海におり、船も外洋航海に向かない和船がまだ多い、頭領の村上康吉が海軍卿なので、優先して新造の唐船を配備しているが、それでも倭寇を従える
松浦党には、黄海や東シナ海での船の運用で全く敵わない状態だった。今回嫡男の村上通康以下一族の若手を大量に海兵隊に入れたのは、この状況を打破したい読みがあっての事だった。
義輔はそんな水軍の頭領達の思惑は無視して、実力主義で海兵隊の士官を決定している。
そして、明智勝光を組頭にして、100名の鉄砲隊を組織している。
「父上、鉄砲の腕と弓の腕はどうやら同じ様ですね、弓の成績の良い者は鉄砲の成績も良いのです」
と新たな発見をした様だ。
評定が終わり、少し体を動かしたくなった義勝は、義輔の案内で三の丸の練兵場に行く。
練兵場の端に何故か船が置いてある。
「あれはなんだ?」
「あ、あれですか、兵の中には船の事を殆ど知らない者が多いので、古い関船を置いてあるのです」
「関船か、そう言えば私も乗った事が無かったな」
と義勝は、梯子を使って船に乗ってみた。
「ここで、水夫が櫂を漕ぐのだな」
「はい、大変ですが、良い鍛錬になります」
「所で、義輔この船を弓の的にしているのか、矢を抜いた跡があちこちにあるが?」
「はい、実は……」
義輔曰く、古の弓の名手と名高い鎮西八郎源 為朝の言い伝えで、船を射て沈めたとの逸話があり、
それが実現できるのか皆で試してみたと言う事だった。
「父上は、若い頃、今鎮西八郎と呼ばれたそうですが可能だと思われますか?」
「為朝殿の逸話か、確か『保元物語』の『昔は矢一つにて鎧武者二人を射通しけり。今は舟を射て多く人をぞ殺しけり』と言う話だな」
「は、流石父上良く御存知で」
「船を沈めるには、この『碁板』(甲板)を貫き、さらに船底の厚板を貫かなければならぬ、つまり、的として二枚の木材を間を置いて立ててそれを射れば良いのではないか?、面白そうだな早速やってみよ」
こうして練兵場に船大工から貰ってきた二種類の木材、碁板用のヒノキの厚板、船底用のクスノキの厚板が実際の寸法に基づいて立てられた。
「この二枚の板を射抜く事ができれば、弓で船を沈められると言う事ですね」
義輔の呼びかけに、海兵隊の弓自慢達が集まって来た。
何人かが試すが、通常の弓では当然一枚目に刺さるだけで、この頃にはもう鎮台弓隊では標準装備になっている四人張りの弓で、一枚目を割り貫き、二枚目に刺さる程度だった。
「では私が」
と義輔が自分の六人張りの弓を取り出した所で、義勝は
「待て、義輔、私の弓を使ってみよ」
と、供の者から愛用の九人張りの弓と専用の矢を受け取り渡した。
九州に来る前までは、この弓を引けなかった義輔だが、ここでかなり鍛錬を積んだのだろう、体格も一回り大きくなった様に見える、これなら弓が引けると義勝は思ったのだ。
「え、父上の弓を……かしこまりました」
義輔は二度、三度と呼吸を整えて矢を番え、ゆっくりと弓を引く、無事に引きり矢を放つ……外れだ
「落ち着いて良く狙え」
「はい」
今度は見事に、矢は二枚の板を割った。
「おー」
兵達から歓声が上がる。
「恐れながら大御所様、これですとかなり高所から船を射ると言う事になりますが」
そう言うのは明智勝光だ
「(正論だが、そう言うのは心に留めて置く物だ)」
と義勝は思ったが、
「そうだ、だからこの様に射る」
と、義輔から弓を受け取り、矢を番えると斜め上方の空に向かって放つ。
矢は、急角度の放物線を描き、 ほぼ垂直に練兵所の関船に落ちる。
船からは、バキバキと言う板の割れる音がした。何人かの兵が船に向かって駆け出した、そして
「底板が割れてます!」
と大声をあげた。
「勝光、わかったか」
「は、お見事にございます」
この後、本丸に戻った義勝は義輔に、自分の弓を渡した
「良く鍛錬したな、この弓を見本として、弓師に渡し自分の弓を作るが良い」
「は、父上ありがとうございます、それにしても、やはり父上の弓は神技、私などまだまだ鍛錬が足りません」
「剣も弓も毎日の鍛錬が寛容だ、其方が率先して鍛錬に励めば兵隊もそれを見習う、それが大事だ」
「はい、肝に銘じます」
「これで、念願の南蛮船も大筒も鉄砲も手に入れた、来春には南蛮船に乗り明の国『寧波』の湊を訪れたいと思う、心してかかれ」
「はい、ですが父上が行かれるのですか?」
「たわけ、遣明船の正使は其方だ、将軍義家からの国書を届けるのだ……と言うのは表向きでな、
我らの海軍の拠点を明国の沿岸に作る事を考えている、明国と共同で南蛮と倭寇の者たちに対応すると言う事だ、これを相手に飲ませるのが其方の仕事だ、わかったな」
「は、かしこまりました」
「さて、ではその前に、もう一国行く所が有る」
「はい、どちらでしょうか?」
「琉球だ、其方琉球のことは何か知っているか?」
「いえ、あまり、薩摩の西に平家の落武者の子孫共が住む島があり、それが琉球と言う事くらいですが」
その後も色々と話をして、翌日に義勝は天守二層にある、松浦興信の執務室を訪れた。
松浦興信は、既に岸岳城から博多鎮守府の二の丸の屋敷に移り、副総監として実務を執っている。
資材の手配、人の確保など様々な実務を一手に引き受けている状態だった。
部屋に入って来た義勝を見て、興信は慌てて平伏をしようとして、机の上の書類の山に頭をぶつけそうになる。
「大御所様、お呼びいただければ参りますのに」
「其方が忙しいのはわかっておる、呼びつけるより私が来る方が時間の節約になるだろう」
「はは」
「さて、興信、其方ら松浦党と琉球の関係は今どうなっている?」
「は、琉球ですか……」
興信は一瞬考えたが正直に話す事にした。
……なるほど、簡単に言えば商売敵と言う事で、しかも琉球は明国から軍船まで貸与されていると言う事か?
「は、琉球は明国に『馬』を納めていまして、この馬が大変良い馬で高値で売れるのです」
「それを、松浦党の倭寇が略奪していたと言う事か」
「は、誠に恐れいった事ですが」
「まぁ良い、事情はわかった、琉球や明には松浦党が倭寇だと知られてはおらんのだな?」
「はい、薄々は勘づいているかと思いますが……」
「ならば良い、これよりは明と琉球と敵対する事は控えよ良いな」
「はは」
「それで、琉球と商いをしている薩摩の商人を誰か知らんか?」
「確か坊津の湊に『島原宗啓』と言う者がおりますが、その者が島津の頃から琉球との商いをしていたはずです」
「そうか、邪魔してすまんな」
必要な情報を手に入れた義勝は、博多に戻り、神屋宗湛、島井茂久と面談する、
「はぁ島原屋さんですか、店が有りますが今は番頭さんだけ居て細々と商いをされていますな」
という返事だった。
義勝は、越後の縮緬問屋の出家した隠居と言う事にして、紹介して欲しいと頼んだ所
「いやいや、それは無理がありすぎます、大御所様のお国訛りは誰が聞いても尾張、商人と申すなら、尾張の縮緬問屋と言う方が、まだ無理はありません」
と笑いながら言われたので、その案を取り入れて『尾張の縮緬問屋尾州屋の隠居、勝如』
と言う事で、島原屋の番頭と会い、薩摩の坊津の湊に向かう事にした。
薩摩は島津氏が滅ぼされた事で、鎖国状態では無くなり、今では諸国の商人が出入りする様になっていて、博多からは乗合船も出ている。
義勝は当初は、一人で供の甲賀衆二人を手代に扮装させて坊津へ行きそこから更に琉球へ向かう予定だった、だが、この事を義輔に伝えると、どうしても一緒に行くとの事で、用心棒(護衛)の諸国修行中の武芸者と言う事にして同行させる事にした、甲賀衆二人の仮名は当然、助さん、角さんで、義輔は柳生三厳と言う仮名にした。元ネタは当然、ハルトが小学生の頃に祖父と良く見ていた時代劇だ。
義勝達、四人は博多から乗合船で、他の商人達と一緒に坊津の湊に到着した。坊津は古くからの貿易港で、博多、伊勢安濃津と並んで日本三大津と言われる事もある。
湊の周囲には商人達が泊まれる旅籠が並んでおり、商人達の倉や家が立ち並んでいて、かなり栄ている、湊には明や琉球、台湾など他国の商船の姿もある。
義勝達はその中でも一番大きな旅籠に逗留して、島原宗啓との面談の約束を取り付けた。
宗啓の屋敷は倉浜と呼ばれる地区にあり、一際立派な倉のある屋敷だった。
快く面談に応じた宗啓は、琉球に渡りたいと言う義勝の話し……実際に喋ったのは今までも何度も商人に扮した事がある手代の助さんだが……を聞いて
「酔狂なお方ですな、生糸や織物なら博多で充分用が足りるのでは?」
と言う事なので、義勝は角さんに命じて、焼酎を出して、宗啓に飲ませた。
「これは琉球の「サキ」ですか、いや違う」
「美濃の焼酎と言う酒です、琉球にはこれに似た酒があると聞いて是非飲みたいと思いまして」
と言うと、宗啓は納得した様で
「ええですな、私も早く隠居して、各地の美味い物や美味い酒を食べ歩きたいですわ」
と言う事で、琉球への船に乗せてくれる事になった。
この島原屋は今では本業の商いを殆どしていない、この頃、琉球は明国に朝貢し、その保護下にあった為に、商人達は自由に入国する事ができなかった、
入国には琉球王の朱印状が必要とされていたのだが、島原屋はその朱印状を商人達に売っていたのだ。
そして、朱印状を買った商人達が琉球に持ち込むのは御禁制にしている銀だ、幕府の目が届かないこの湊では堂々と密貿易が行われていたのだった。
宿に戻った義勝が、義輔に
「朱印状を売っているとは、流石に私も驚いた」
と言うと、義輔は
「県令や代官は何をしているでしょうか、早速取り締まらなけば」
と言っている。
「まぁ、此度は見逃そう、それよりも琉球に渡る方が先だ」
と言う義勝だった。
義勝が琉球行きにこだわるのは、ハルトとしての知識には琉球が入っていないからだ。
歴史の授業で、薩摩に攻められて臣従したと習った事は覚えているが、それがいつの時代で、どういう背景だったかまでは知らない、しかも流石に伊賀や甲賀の忍び達でも琉球まで行った者はいないので実情が
全くわからなかったからだ。
それから数日して、島原屋の船は義勝達一行を乗せて、坊津の湊を出港した。
目指すは琉球の首都首里だ、潮と風の具合もあるが、3日から5日程度で着くとの事だった。
琉球に近づくと
「海の色が違う」
と義輔は驚いている、義勝も
「これは見事な景色だ」
と簡単する、感情を表さない忍びの二人も流石にこの海の色には驚きを隠せない。
船は無事に首里の湊に到着した、船から降りて湊から街に向かうと義勝は驚いた
「これは、まさに異国だな」
ハルトは沖縄に行った事が無かったがTVのニュース等で沖縄の景色は知っていた、でも現実の首里は
行き交う人々とも建物も目に慣れた16世紀の日本の景色とはまったく違っていた。
「父上、ここは本当に日の本の内なのですか、とても平家の末裔が住む国には見えません」
と義輔も驚きを隠せない。
普段はあまり顔に表情を出さない忍びの助さん角さんも流石に感嘆の表情をしているのがわかる
「失礼ですが、尾州屋様でしょうか?」
と若者が近づいて来て声をかけてきた。
助さんが
「そうですか、あなたは?」
と答えると
「島原屋の手代、八助にございます、主人より皆様のお世話をする様に申しつかっております、お迎えが遅れて申し訳ありません」
と頭を下げた。
「島原屋さんの方でしたか、お世話になります」
と一同は頭を下げ、八助の案内で、商人街にある宿に向かった
「八助殿、その着物と帯は?」
「流石に縮緬問屋の御隠居様ですね、お目が高い、これはこの国の服装で琉装と言います、生地は芭蕉布と言いまして、この国の特産品ですが、高級品ではありません、涼しくて良いのですが薩摩ではあまり売れません」
「うむ、見れば見るほど不思議だ、その布の冠も帯も……」
そして行き交う人々の言葉が全くわからない
この時代庶民はその地方の言葉を話しているが、武士や公家、僧侶、商人には室町典礼に基づいた、標準語の様な物があり、それを話せる事が教養の一つであった、なので寺子屋ではその話し言葉を教えている。 当然の様に、薩摩訛りと陸奥訛りの者が国言葉で話せば会話は成立しない。だがそれでも、なんとなく意味はわかるのだが、琉球の言葉はまったく別だった。
こうして義勝一行が宿に入り、宿屋の主人から教わった飯屋で琉球料理を
「父上、これは猪肉ですかね、柔らかくて美味いです」
「この白身の魚は何かな、少し甘いが歯応えがあって美味い」
と堪能している頃、同じ船で首里に到着した望月太郎以下の甲賀衆は義勝を見失って途方に暮れていた。義勝一行が所持していた朱印状と甲賀衆の朱印状では格が違い、薬売りや針売り等の行商人に扮していた甲賀衆は、背に担いだ連雀の中まで役人に詳しく調べられたからだった。
今回義勝の警備の責任者である望月太郎は司法省参与望月吉棟の嫡男で将来吉棟の名を嗣く者だった。
義勝が供の者として、甲賀衆二名だけを連れて行くと言ったので、慌てて皆で商人に扮して博多から坊津までの義勝と同じ乗合船に乗り込み、さらに朱印状を購入して首里までの船に乗ったのだった。
だが、準備が間に合わず、船に乗れたのは五人だけだった。 義勝と義輔がたった二人だけの護衛で琉球まで行った……などと父や司法卿滝川貞勝の耳に入ったら、間違いなく首が(比喩では無くリアルに)飛ぶ事になる。
「お頭、どうしましょう」
「手分けして宿を探れ、まずはそこからだ」
と甲賀衆達は、商人街の宿を調べたが、言葉が通じないと言う難関にぶち当たり、さらに途方に暮れるのだった。
そんな時に一人が、宿の二階の部屋の窓にぶら下げられた甲賀の笠を見つけて直ぐに太郎に報告をした。
「出来した、だがこの宿は高そうだ、我らは向かいの旅籠に泊まろう」
と太郎は安堵して、旅籠に入る。そして案内された明国風の部屋で、また困惑するのだった。
「この上で寝るのか?」
忍びの訓練は積んでいるので、木の上だろうが岩の上だろうが寝る事はできる、ただ部屋の中で、床几台……(牀)明国のベッド……の上で寝ると言う習慣が無かったからだ。
翌朝、義勝と義輔の二人は、宿の中庭で、木刀代わりの杖を振って朝の鍛錬をする。
だが、
「これ暑くて無理だな」
「はい父上」
と早々に諦めて水を被り、部屋に戻った。
部屋に戻ると、甲賀衆が部屋で待っていた。
「なんだ、其方達も来ていたのか、供は二人で大丈夫だと申しただろう」
「いえ、とんでもございません、大御所様に何かありましたら我ら甲賀の者全員で腹を切らなければなりません」
と太郎が平伏しながら言うので、義勝は仕方なく警護をする事を許可した。
そこに昨日の八助が部屋の外から声をかけてくる。
「尾州屋様、起きていらっしゃいますか?」
「八助殿か、入られよ」
「おはようございます、あ、この方達は?」
「昨日の船の中で一緒だった行商人の方々だ、皆琉球は初めてで勝手が分からぬと困っていたのでな」
「左様でございますか、皆様琉球で商いをするには、鑑札が必要でございます、これから尾州屋様を
首里城にお連れして、鑑札を受け取りに行く所です、皆様も一緒に来られますか?」
と八助が言うので、義勝は太郎に、目で合図をする
「はい尾州屋さんがよろしければ、同行させていただきます」
と太郎は頭を下げる。
「それで、その大変申し上げにくいのですが、鑑札の発行には……」
と八助が言った所で
義勝が
「角さん」
と一言言うと、角さんは懐から帛紗に包まれた、足利一両金貨100枚を八助に手渡した。
「これで足りるかな?」
「はいもちろんでございます」
八助はこの尾州屋がとんでも無い大店で、勝如と言う僧形の隠居がかなりの人物と言う事を認識した、
船に乗り合わせただけの行商人を一瞬で取りまとめるなど、並の商人にできる事では無いからだ。
「(これは久しぶりの上客だ、大儲けする良い機会だ)」
と心の中で思っている。
この八助がしているのは、今で言うツアーコンダクターと同じ仕事だ。
観光客を案内して、手数料を取り、自分の馴染みの店に連れて行き、更に店側からも手数料を取ると言う
商売だった。
一行は八助の案内で首里城の一角にある、御物奉行所で鑑札を発行してもらった。
「先程の二つの門も見事だったが、これはまた見事な城だ、なんとも不思議な佇まい、赤い柱に赤い瓦とは」
「明国から職人を呼び、明の都の『紫禁城』を真似て作られたと言われております」
「なるほど明国の……」
その後は八助の案内で地元の商店を何軒か見て、義勝は妻達への土産物として高価な帯や生地、琉球の簪を買い込んで、八助を喜ばせた。
「八助殿、明日は酒蔵に案内して欲しいのだが、可能か?」
「はい、もちろんでございます」
八助は満面の笑みで答えた。
宿に戻り、義勝は甲賀衆を全員招集した。
「其方達、誰か一人この首里に残って店を開けよ、そして琉球の事を逐一知らせるのだ、出来るか?」
助さん角さんを入れて7人の甲賀衆は顔を見合わせた。
「恐れながら大御所様、そのお役目、この山上吉宗受けたまりたく存じます」
この山上吉宗はこの中で一番年長で苗字がある事から望月家の中忍である、朝倉攻めの際に一乗谷に潜入していた一人だった。
「済まぬな。やってくれるか、望月太郎、それで良いか?」
「は、山上吉宗頼んだぞ」
義勝達が帰国した後に、山上吉宗は近江の薬問屋、山上屋として首里の商人街に店を構える。
もちろん八助はこの店の出店に対して全面的に協力をして、大金を手にする事になる。
吉宗はこの任務が終わったら、引退を考えていた。今まで様々な国や城下町に潜入してきたが、この街ほど、心をそそられる場所は無かった、異国と言う事もあり、仕事も情報収集だけなら体力が落ちた今の自分でも充分に役に立てると思ったからだ。この不思議な南国で骨を埋めるのもまた一興かと思っている。
それに大御所義勝である、10代前半で忍びとなり、数々の領主や城主の元で雇われてきた、その中には既に滅びた六角氏も居たが、其の誰もが忍びの吉宗をまともな人間として扱って来なかった、常にそこに居ない者、あるいは下賤な者として扱われてきた。
そんな吉宗達忍びの者と、義勝親子は同じ席で同じ飯を一緒に飯食べ、酒を注ぎ話をする。
こんな雇い主は今までに存在しなかった。吉宗は初めて真の主君を得た思いだったのだ、その主君の頼み
を受けないわけが無いのだ。




