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第十章 左大臣就任

第十章 左大臣就任


 大永三年の春、雪解けと共に越中に越後の長尾定景が侵攻してくる。

「なんで、みんな一度負けても懲りないんだろう」

「それは、向こうからすれば親の仇ですからね」

と定李が言う

 確かに三年ほど前の戦いで越後の守護代長尾為景を打ち取っている、その嫡子である定景は元服したばかりの17歳だが、守護上杉定実と共に越中に侵攻して来たのだ。

 この定実は、上杉家の分家上条上杉家の出身で、先代守護で舅の上杉房能を倒して守護となった人物で

この事が、越後上杉家と関東管領の山内上杉顕定との争いになり、それが今の関東管領上杉憲房の代に変わっても続いている。

 この時の侵攻の目的は『敵討』ももちろんだが、越後も前年の甲斐と同様で、長引く戦乱により田畑が荒れて凶作になった事が原因でもある、隣国の越中は斯波氏の統治の元、豊作が続き豊かになっているのだ。

 斯波家の領地、各国の本城と主な支城は水堀と石垣に囲まれた瓦葺屋根の館が普通で館内は畳敷、板戸に代わり襖が使用される様になっている。米倉には兵糧米と備蓄米が蓄えられている、更に領地の庶民達も庄屋や商人、職人などは瓦葺で畳敷きの家に住む様になっている。

 そんな斯波領は凶作で飢饉に喘ぐ隣国からすれば宝の山に見えたのだろう、だが、斯波領はただ豊かなだけでは無い、圧倒的な武力も兼ね備えているのだった。

 義為は軍政を改革して領国の内他国と国境を持つ国には、防衛の為の軍事行動を許可している。

つまり、この場合越中奉行神保慶宗と軍権を持つ明智光綱は自己の判断で出陣できる様になっている。

 義為は慶宗と光綱の出陣の報告を受け、即座に能登、加賀、飛騨の奉行に出陣命令を出し、越中へ応援に向かわせた、そして自らの軍を率いて、信濃に入り、甲斐の軍も合わせて40000の兵で越後に侵攻した。信濃と甲斐の国人衆達に、斯波家の兵制を理解させる為でもある、彼らは自分の領地の農民兵では無く斯波家の常備兵達を指揮して初めて戦う事になる、ここで対応して実力を示せば昇進して加増される、

失敗したら、この先の家の未来が閉ざされる事態にもなるので必死だった。

 装備と補給が充分な斯波の兵と、飢えた農民兵の戦いは、ある意味一方的になる。

越中に侵攻した長尾定景と上杉定実は呆気なく討ち死に、越後の本城で名城と言われた春日山城も、立て籠った長尾と上杉の一族と共に炎に包まれた、これを受けて各地の国人衆は義為に臣従して、越後は開戦から三月で斯波家の物となった。

 戦の中、信濃の奉行小笠原長棟は義為の騎射や弓馬礼法を見て、自分が継承した『小笠原流弓馬礼法』

とほぼ同じな事に大いに驚いたと言う、義為も自分と同じ騎射が出来る長棟を気に入り、戦の後大幅な加増と岐阜場内の屋敷を与え、小笠原長棟の娘と次男小次郎との縁談を纏めた。

 越後には、早々と長尾氏と見限って参陣した、直江親綱を奉行として任命した。

ちなみに戦の後、以前の戦いで討ち死にしていた、長尾為景の子の中に虎千代が存在するか確認したが

為景の子は定景だけだと言う事を聞いて、義為は武田信玄に続いて上杉謙信にも会えないのかと大いに落胆した。

 しかし越後を手にした事で、佐渡も支配下に置き、国内最大の佐渡金山を手中にしたのは斯波家にとって大きな収穫だった。

この時点で義為の領国は20カ国になっている。

 まだ若い将軍足利義晴を補佐する細川高国は既に諦めているのか、全ての国の守護職就任を義晴に認めさせている。


 翌大永四年の正月も、岐阜は穏やかで静かだった。城下町も大いに発展して、人口はこの時点で京を遥に凌ぐ10万人近くになっていた。

 いつもの様に源衛寺の茶室から、城下を眺めて

「流石に、人が増えすぎたかな、信長が安土に本拠を移した理由がわかる様な気がする」

とつい独り言を言ってしまった。

「はて武衛様、信長とはどなたの事ですか、安土とは?」

と実恵に言われて気が付く

「あ、いや今のは忘れてくれ、今年は静かな年になって欲しい物だな」

「左様ですね、この岐阜は五年ほど戦に縁がありません、ですが京の町などは相変わらず小競り合いが多い様で、山科も苦労している様です」

とうまく話を変えられた様だ。


 だが義為が平和を望んでも世間はそうは行かないのが世の常だ、斯波家に従属している一色義幸の丹後に隣国但馬の守護山名誠豊が侵攻して来たからだ。

 義幸からの救援要請を受けた、若狭奉行鹿伏兎定好は即座に動き神戸為盛と共に、兵10000を率いて救援に向かった。

 定好から報告を受けた義為は、越前の滝川貞勝に兵30000と近江の千秋季光、京極高延にそれぞれ兵10000の合計50000の兵で但馬に出陣させた。

 山名誠豊は実権の有る守護では無く、山名四天王と言わる但馬の国人衆に担がれた傀儡で、前年にも

隣国播磨に侵攻したが敗走している。垣屋続成、田結庄是義、八木豊信、太田垣輝延の山名四天王は

其々が牽制しつつも、この頃までは山名誠豊を神輿として担いでいたが、斯波家の中でも武闘派筆頭の滝川貞勝、千秋季光に攻められた結果、四人共あっさりと居城を明け渡して、斯波家に臣従を誓う。

この結果、山名誠豊は居城此隅山城を捨て、隣国因幡の同族山名豊治の元に落ち延びて行った。

 ここで兵を返さないのが武闘派たる所以だろう、滝川貞勝、千秋季光、鹿伏兎定好は、臣従を誓った

山名四天王を先陣として、そのまま一気に因幡の国に攻め込んだ。

 そして、天神山城を落とし、山名豊治、山名誠豊を討ち取ってしまう。

ここでやっと、滝川貞勝は侵攻を止めて、義為に状況報告と指示を仰いだ。

 義為は、滝川貞勝を因幡奉行に、神戸為盛を但馬奉行に任命して、臣従を誓った山名四天王の妻子を人質として岐阜に連行せよと言う指示を出す、守護を傀儡として他国に侵攻する様な家臣を信用する事はできないと思ったからだ、もちろん反抗した場合は一族皆殺しと言う事になる、50000の兵の前に反抗する度胸があるかは別の話しだが。

 この時義為は山陰道と山陽道については、まだ本格的に攻略をするつもりが無かった、このまま前進を続けると、尼子氏や大内氏との争いになるのが明白だ、だからもし山陰と山陽に侵攻するなら、その前に畿内を固める必要があると思っていたからだ。この時自らの非力を悟った一色義幸は丹後守護を返上して、斯波家の臣下となった。

 但馬の国の生野銀山、中瀬金山を斯波家の物とした事はこの戦の一番の成果となった。

更に因幡の賀露湊も、斯波氏の直轄地として、日本海の海運の支配も着々と進んでいる。


 岐阜で「論功行賞」をしている義為の元に、伊賀衆、甲賀衆から急報が入る。

管領細川高国が守護を務める京のお膝元、山城の国で国人衆が一斉に反乱を起こしたと言う、山城では以前も惣国一揆が起きて当時の守護畠山氏を追放した歴史がある、今回も細川高国と細川晴元を擁した三好元長が無意味な抗争を繰り返した結果、国人衆や農民は疲弊し再び一揆を起こしたと言う経過だ。

 更にこれに呼応する様に延暦寺の僧兵3000が京に押し出し、洛中で狼藉三昧の後、山科に迫っている。延暦寺と本願寺の抗争の歴史は、今から60年程前に、本願寺の勢力拡大に危機感を覚えた延暦寺が、本願寺を仏敵と認定して、僧兵を動員して当時の大谷本願寺を破却する等の弾圧を加えた事が始まりだ。そして今、山科の本願寺が再び勢力を拡大している事に危機感を覚えて、この武力の空白状態を利用して再度の攻勢に出たと言う事だ。

 しかも、同じ山科の日蓮宗の寺『本圀寺』までも僧兵を繰り出して、本願寺側の寺町を襲い始めたと言う。

「(全く、あの人は何をやってんだ?)」

 あの人というのは細川高国の事だ、この頃将軍足利義晴はまだ14歳で、何の実権も無く指揮する兵も無い。

 義為は直ぐに親衛隊20000を連れて出陣、山科本願寺へ向かう、義為にとって既に京の帝や将軍より山科の方が優先度が高いからだ。岐阜から京までの街道整備が終わった事も有り、岐阜を出てわずか二日で山科に入り、山科の門前町で狼藉を働いていた延暦寺と本圀寺の僧兵達を討伐する、この時始めて実如から託された本願寺の兵権を使用する事になった。

 そしてそのまま本圀寺を囲み、山科からの退去を要求した、当然反抗すれば全山を焼き払うつもりだ。

義為を恐れた、住職大僧都日栖は寺から退去して、近郊の末寺に落ち延びて行った。

 義為は、寺の破却を命じて、山科本願寺に入る。

「余計な事をしなければ、こちらから手を出さないのに、愚かな者共だ」

と独り言を言っていたそうだ。


 時が来たと理解したのだろう、細川晴元と三好元長は阿波を出て摂津の芥川城に入り、高槻城、池田城を抑えて、摂津から高国の勢力を一掃した、義為は、本願寺の救援とは別に独自に軍を動かす。

 まずは、伊賀光就に伊勢、伊賀、大和、河内、紀伊の国人達を率いさせて50000の兵で、石山御坊に入れて、晴元と元長に備えさせた。 山城には千秋季光に越前と近江の国人衆と30000の兵で侵攻させて、一揆衆と会談を行い、軍事力を背景に一揆衆を斯波家の保護化に置く事、山城守護は義為が就任する事を確約して一揆を解散させた。一揆衆は隣国大和での斯波家の統治を既に知っていて、義為の守護就任を強く希望したからだ。

 

 更に尾張と三河の衆を動員して、兵50000で近江の比叡山延暦寺を囲んだ。この頃の天台座主は、皇族の尭胤法親王だが、義為は以前奈良の興福寺に対して行ったのと同様の勧告をする。

 つまり山法師と言われた僧兵の武装解除と放逐。延着寺の寺領の検地と『荘園』や税の収受権の没収、更に矢銭20000貫を要求して、従わなければ全山を焼き払うと言う内容だ。

 興福寺の時より内容が厳しいのは、僧兵達の悪行が酷かった為だ。

 座主尭胤法親王は要求を飲むと答えたが山法師達の反抗に合い、千秋定李の助けで山を降りて京に戻った。残った者達は山に籠り徹底抗戦の意思を示した為、義為は二日間の猶予を与えて、叡山内にいる女や子供……そもそも女が居る事があり得ないのだが、事前の調べて遊女や京から拐かされて来た者達とその子が多数居る事がわかっている……を下山させる様に通告する。

「(私は織田信長より優しいからな)」

と思う義為だ、そして二日後、予告通りに全山に攻め込み、全て焼き払い不逞僧侶達を一掃した。

 この火は京の京都からも良く見えるので、帝は義為を更に恐れて、息子知仁親王へ譲位をしようと画策する様になり病に臥せってしまう、そして管領細川高国は、畿内の騒乱の責任を取ると言う口実で管領職を辞して、最後に残った領国丹波に逃亡した。

 都に残された、14歳の将軍足利義晴は、何も出来ずにただ茫然としていたと言う。

摂津では、圧倒的な兵力差で細川三好勢を圧倒して、細川晴元(この頃は将軍義晴と敵対していたので六郎と名乗っている)が討ち取られ、阿波に逃走しようとした三好元長も討ち取られ、三好側に着いた和泉守護、細川晴貞も岸和田城で討ち取られている。

 これにより畿内の細川、三好の勢力はほぼ一掃されて、義為は大和、河内に加えて、山城、和泉、摂津の三カ国を併せて畿内五カ国を掌握する事になった。

 更に、都から丹波に逃走した細川高国は、国人領主達の反乱で、守護代波多野元清、赤井時家らに攻撃されて自害して果てた、管領として天下を指図した高国の呆気ない最後だった。

細川吉兆家もまた事実上滅亡して、幕府の三管領家は斯波家のみが残った事になる。

守護代波多野元清以下丹波の国人衆は義為に恭順して臣従を誓った。

 

 山科に戻り、戦後処理をしている義為の元に、先の関白、太閤近衛尚通が密かに尋ねてきたのはそんな時だ。

帝の意向を伝えたいとの事なので、義為は円如に頼み、茶室を拝借して尚通と会談をする。

「斯波大納言、忙しい所にすまんな」

と近衛尚通から声をかけられて、義為は恐縮した。

「いえ、太閤様のお越しとあれば、して何用でございますか?」

 太閤の要件は、管領が逃走して童の将軍が残された状況の幕府の立て直しと、応仁の乱以降の戦乱をどう収束させるかと言う事だった。

 帝としては、『斯波義為は恐ろしいが、もうこれ以上童の将軍と、細川らに政を任せられない、争いが続くのは嫌じゃ』

との事らしい。

 この近衛尚通が両細川の争いを『春秋戦国の世の時の如し』と評した事から『戦国の世』『戦国時代』という言葉が生まれたと言われている。

 義為は少し考えて、武力による諸国の鎮撫、つまり『天下布武』が必要と話し、太閤もそれには了承した、その上で、義為が新たな将軍になるか、せめて管領になる事を要請された。

 だが、義為はそのどちらも断った、今の幕府の制度では、誰が将軍になっても同じ事だと思ったからだ……と言うかこれはハルトとしての知識だが……

 その上で、義為は一旦、将軍や管領といった存在を無視する事にして、関白や帝が天下静謐『惣無事令』を発して全国の守護や領主達の私闘を禁ずると全国に通達するのはどうかと提案した。

 尚通は当然、武力を持たない朝廷の権威だけでそんな事ができるわけは無いと否定する。

そこで、義為は

「では、私を左大臣に任命していただきたい、その官位と斯波家の武力で天下布武、天下静謐を実現して差し上げましょう」

と大見えを切った。

 尚通はしばらく目を瞑り熟慮した後で、

「承ろう」

と答えた。

 義為はもう一つ武家を従わせる為の手段として、朝廷に公家の物とは別に、武家官位を認めさせ、

義為の任命権を認める事を提案した。

「もちろん官位の発行は朝廷にお願いして、その都度手数料を取るのです、従五位なら金100両とか」

と言うと、尚通はすぐに納得した、これで朝廷の資金難がかなり改善されるからだ、正確な手数料は後ほど検討するとして、義為の提案を了承した。

 正二位左大臣は足利幕府の歴代将軍の最高位と同じで、義晴より上位になる。

つまり、ここで義為は将軍より上位の存在として、帝の意を受けて政務をとり、右近衛大将として軍権を行使する存在と言う事になった。

 更に、左大臣就任に伴い、足利復姓の綸旨を受け、帝の諱、『勝仁』から『勝』の一文字を与えられ、『足利義勝』と名乗る事になる。足利尊氏の例に倣えば、帝の諱を前にして勝義と名乗るのが当然だろうが、義為は源氏の正統を示す名『義』を前に出す事で、あくまでも源氏の武力による天下布武の意思表示とした。

 太閤との会談の後、義為改め義勝は山城の奉行に柴田勝達、和泉奉行に佐久間盛通、摂津奉行に京極高延、丹波奉行に蜂須賀正利を任じて統治に当たらせる。

 そして、義勝は領国の軍制の再編を行い、因幡、但馬で有効性を認めた方面軍制を編成した。

「山陰道方面軍 滝川貞勝以下、因幡、但馬、丹後、若狭、越前の奉行と国人衆、但し越前奉行斯波義雄は除く」

「山陽道方面軍 千秋季光以下 近江、丹波、山城、摂津、河内」

「南海道方面軍 伊賀光就以下 伊賀、伊勢、紀伊、大和」

「東海道方面軍 松平昌安以下 三河、遠江、駿河、甲斐」

「北陸道方面軍 服部友成以下 加賀、能登、越中、越後」

 遠江で長年義勝を支えた、奉行井伊直平はこの頃病で、家督を嫡男井伊直宗に譲っている。

奉行職は世襲制では無いのが、岐阜で義勝の親衛隊として功績を上げていた直平の嫡男直宗を遠江奉行に任命して松平昌安を補佐させる、そして井伊直平はこれまでの功績で従五位上遠江守となる、井伊家は南北朝時代に、先祖井伊行直が遠江介に任ぜらて以来の正式な官位を得た事になる。

 義勝はその事を自ら伝える為に、岐阜の井伊直平の屋敷を訪ねた。

病床の直平を見舞い、官位と嫡男直宗の奉行就任を伝えると、直平は涙を流して喜んだ

「遠江守殿、覚えておられるか、初めて貴殿にお目にかかった時に馳走になった鰻、『宇治丸』は美味であった、早う病を治してまた馳走してくれ」

と言うと、直平は

「懐かしゅうございますな、あの斯波の若様が今や左府様とは、この直平若様にお仕えできて、誠に光栄でございました感謝いたします」

と頭を下げた。

 それを聞いた義勝も目が熱くなったが、涙を堪えて長年の戦友を労り、医師や薬湯の手配をして、井伊の館を後にした。

 この時、同じ様に義勝の初陣から従って来た松平昌安には、従五位上三河守を授けた。

松平家は井伊家と違い土豪の出身だ、本来の歴史では家康が松平の姓では官位を受けられないので、無理矢理に源氏の新田氏の一族『徳川』を名乗ったのは有名な話だが、それはこの歴史でも同様だ、ただの土豪の松平氏が官位を授かった事で、同じ土豪出身の国人衆達は目の色が変わった、この頃の国人衆達には官位と言うのはそれほど名誉の有る物なのだ、だから勝手に官位を自称している者も多い、それが義勝に従っていれば例え土豪の出身でも正式な官位が与えらるとなれば、彼らの働きが変わるのは当然かもしれない。そして、各奉行や国人衆達は、岐阜に居る子息達をこぞって義勝の親衛隊赤母衣衆に志願させる様になる、自分の息子が功績を上げ出世しない限り、奉行職を継承できないと悟ったからだ。

 

 左大臣となった義勝は、翌年の大永五年正月に、帝と自分の名で、天下静謐『惣無事令』を発して全国の守護や領主達の私闘を禁じ、従わない者は朝敵として征伐すると宣言をした。

 当然ながら、この様な命に素直に従う守護達では無いので、この後も各地で戦乱は続くのだが、これにより義勝は公然と各地の抗争に介入する権限を得た、と言う事だ。

義勝は、各方面軍に大幅な裁量権を与えて、惣無事令に従わない守護、領主達を討伐させる事になる。

 ただし、方面軍を編成したが、領地に関しては奉行のままで、以前の守護代の様に両国を私有化出来ない様にしてある。これは、ハルトとしての知識で、室町幕府が衰退した原因の『守護領国制』を終わらせ、更に自分に何かあった場合に本能寺の変の後の織田家が没落した状況を避ける為だ。

 この年2月、病に臥せっていた、山科本願寺の第九代宗主実如が示寂、円如が第十代の宗主となる

実如の葬儀には、帝の勅使が差遣され義勝の家臣で宗門に帰依をしている者がほぼ全員参列して、厳かに行われた。義勝はこの時実恵と並んで読経をあげた。

 実如の喪に服す間も無く、義勝は宿舎にしている山科本願寺南殿……第八代宗主蓮如上人の隠居所だった……に円如、実恵、定李を集めて、今後の政治体制について話会う

「今の幕府のありようでは、帝の望まれる天下静謐は不可能だと思う、だから皆には新しい政の仕組みを考えていただきたい。藤原摂関家、上皇の院政、平清盛公の大相国、源頼朝公の鎌倉の幕府、北条の執権政治、建武の新政、そして室町の幕府とどれも失敗してる、なんとか皆の知恵をお借りしたい」

 そう義勝は言って頭を下げた。

「左府様、頭をお上げください、この円如、浅学非才の身なれど、帝と左府様のご期待に添える様、精進いたしまする」

と円如が皆を代表して言ってくれた。

「しかし、これは大事ですね、でもやり甲斐がある」

と定李は言う、実恵は黙って頷いていた。

「敎恩院様(実如)がご存命でしたら、良い知恵を授けていただけたと思うのですが、残念です」

と義勝は言う、実如の死を心から惜しんでいたからだ。

 歴史上僧侶は、政治顧問として時の政権や大名を支えていた、家康の『天海』『金地院崇伝』今川義元の『太原雪斎』、毛利家の『安国寺恵瓊』が有名だが、僧侶はこの時代公家と並ぶ知識人だ、だから義勝も円如、実恵の知識と知恵を大いに当てにしたのだ、そしてこの二人と話が通じる知識人は義勝の家臣の中には、神官である定李しか居ないのだ。

 この会合はここから数年続き、円如と親しい太閤近衛尚通の嫡男近衛稙家、更には知仁親王まで加わって新たな政の仕組みを作る事になる。


 『惣無事令』に対して、最初に反抗したのは、関東で同族争いを続けていた古河公方足利高基だ、高基は自らが鎌倉公方足利基氏の子孫で、足利尊氏の直系であると言う誇りから、義勝の足利復姓を認める事が出来ずに、公然と兵を上げて反抗をした、これに同調したのが関東管領、山内上杉の上杉憲房だ。

 その一方で、高基の弟、小弓公方足利義明は義勝に恭順を表明、扇谷上杉の上杉朝興もこれに続いた。

 義勝は東海道方面軍 松平昌安に兵50000北陸道方面軍 服部友成に兵50000の併せて100000の大軍で関東に出陣させる。 

 

 更に山陰では出雲の守護で、伯耆を抑え、石見、安芸、備後に侵攻していた尼子経久が義勝からの停戦命令を無視した。

 義勝は滝川貞勝の山陰道方面軍50000を出陣させる、そして同時に千秋季光の山陽道方面軍も同じく50000で播磨へ出陣させて、播磨の守護赤松晴政と守護代浦上村宗以下国人衆へ恭順を呼びかける。

 

 この頃の足利左大臣家は余裕で二正面作戦に対応できる様になっていた。

そして、山科に勘定奉行平手経英、普請奉行丹羽長政を呼び、新たな城と街の建設を指示した、

もちろん場所は近江『安土山』だ、ここに岐阜を遥に上回る巨城と城下町を作る事にしたのだ。

 何しろ、岐阜の金蔵に金銀が溢れ更に蔵を増築しているし、兵糧米や備蓄米も数年凶作が続いても困らない量を確保してあったから資金的には大いに余裕があるのだ、


 義為は山科で精力的に政務をこなし、伊賀衆、甲賀衆、根来衆からの各地の報告書を読み、本来は幕府の仕事である、提訴などもこなしている。

「幕臣とやらは一体何の仕事をしているのか、誰か一度見てまいれ」

と指示すると、どうやら幕府政所執事の伊勢貞忠は、御所に出仕しているが、肝心の役人が居ない為に

ただ座っているだけだそうだ。将軍を守る奉公衆も大舘尚氏、三淵晴員、飯川国信等が居るが、ここ数年の動乱で所領と城を失って抜け殻の様になっているそうだ、だから実質は小姓が数人で将軍の世話をしているだけと言う状態で、最早幕府としては全く機能していないのが明白だった。

 なので、義勝は幕府に変わり、全ての政務を山科で行う事として、実質この時点で室町幕府は消滅したと言える。


 関東と山陰、山陽が各方面軍を出陣させた義勝は、阿波と四国に残っている、細川と三好の残党、それに彼らと行動を共にしている足利義賢の討伐をして、後顧の憂いを断つ事にした、伊賀光就の南海道方面軍50000を淡路島から四国の阿波に出陣させる、この時義勝は、熊野と九鬼の海賊を水軍として再編成して彼らを総動員して制海権を確保する、制海権を失った細川三好軍は、阿波の山間部に逃げ込むが、山岳戦に長けた大和奉行服部保長率いる伊賀衆と、津田算行率いる根来衆が多数参加している討伐軍に、逃げ込んだ山城や砦を次々と落とされて、足利義賢、細川之持、三好康長が討ち死に、康長と同行していた、元長の嫡子千熊丸もこの時に死亡している。この千熊丸が正史での三好長慶なのだが、彼もまた歴史に登場する事は無く消滅した。

 この後、阿波の三好氏と争っていた、讃岐の国人衆は足利左府家に恭順して臣下となる、義勝は阿波と讃岐の奉行を津田達勝に任せる事にした。更に土佐でも国人衆達が恭順の意を表して続々と降ってくると、土佐は最初に降った本山養明を奉行に任じて、土佐を纏めさせる事にした。

 これで四国は伊予を残すのみだが、伊予守護河野通直は、わざわざ山科まで来て義勝に臣従を誓って

本領を安堵され伊予奉行となる。

 足利左府家の細川三好討伐から始まる四国攻略は、半年も掛からずに完了するのだった。


 この戦いに参陣した武将達の内、伊賀光就、鈴木孫一、服部保長、津田達勝はそれぞれ官位を得たのだが伊賀光就は上位の正五位下伊勢守を断って従六位上伊賀守を選んでいる。鈴木孫一は従五位上紀伊守、

服部保長は正五位下大和守、津田達勝は従五位上阿波守になった。


 関東に出陣した、松平昌安の東海道方面軍、服部友成の北陸道方面軍は其々、相模の国と上野の国を制圧して、国人衆達を吸収し武蔵の国で戦っている。

 だが関東の国人衆達は、坂東武者の気質を受け継ぎ京への反発心と独立心が強く、一筋縄ではいかない所があった。その報告を受けた義勝は、関東に『親征』をする事を決める。

 まずは、足利義晴を山科に呼び、義晴の名で鎌倉公方以来続いていた、『関東公方』の廃止の令を出させる、そして「関東管領職」と武蔵守護を上杉憲房から剥奪させた。

そして、山科での政務は宰相格になった円如に一任して、定李、実恵を伴い岐阜に帰還した。


 そこで出陣の準備をしていると、自室に、嫡男虎王丸が光仙丸、実恵、塚原高幹を伴ってやって来た

「父上、此度の出陣、我ら二人を是非共に加えていただきたい」

と虎王丸と光仙丸は二人揃って平伏している。

 義勝が、実恵、塚原高幹を見ると二人は揃って

「私達は、止めたんですけど言う事を聞かないのです」

と言う顔をしている。

「駄目じゃ、初陣は元服が済んでからと決まっておる、それまで待て」

と言うが、二人は納得出来ない様だ、

「そう言えば左府様の初陣は確か18の頃でしたね」

と実恵が言う(実年齢は17だったが、この時代は数え歳が常識だ)

「そうじゃ、元服が終わり武芸も身についての初陣じゃ、実恵殿はいかがだった?」

「私は得度が終わり、名を実恵と改めてからでございますね」

「塚原高幹は?」

「私は元服が終わって17の時に武者修行に出ました」

「どうだ、二人ともわかったであろう、戦場は子供の来る所では無い、共に武芸と学問に励み、一軍の将として恥ずかしく無い様になるのだな、お前達には私には居なかった最高の師匠が二人も居るのだ、それだけ有難いと思え」

 義勝がそう言うと二人はまだ不服な顔をしていたが、おとなしく退出していった。

「実恵殿、塚原高幹、世話をかけるな、それと此度の戦、二人には共に来てもらうぞ」

「はい左府様、かしこまりました」

「いや左府様、二人とも見所があり私は楽しんでいますよ、いずれは左府様の様な武将になられると思います、最もそれでは光仙丸様の方はお困りになるかもしれませんが」

と高幹は笑った。

「確かに、もう少し学問に励んで経を学んでくれれば良いのですが」

と実恵、こちらは苦笑いだ。

 史実では塚原高幹(卜伝)は足利幕府の十三代将軍足利義輝や後に戦国最強の剣聖と呼ばれる上泉信綱や剣豪大名北畠具教らの師匠として有名だ、人に教える才能にも恵まれていたのだろう。


 義勝は、定李、実恵、高幹を供に親衛隊の赤母衣衆兵20000を連れて、東海道を下る、

今回の行軍では旗指物は「孫子四如の旗」三旒の「名号幟」、「足利二つ引」の大金扇の馬印、千秋家「五七桐竹紋」の熱田神宮旗に加えて塚原高幹の青地に金の『巴紋』の鹿島神宮旗が並び、更に義勝は初めて、日輪と「天照皇太神」と入った『錦の御旗』と「足利二つ引」に「八幡大菩薩」と入った『武家御旗』を掲げて進軍した。当然だが錦の御旗は官軍の象徴であり、『武家御旗』は足利将軍家の象徴である、この二旒の旗に背く事は自らを『朝敵』と認めた事になる。

「旗だけでも御利益がありそうですね」

と定李は気楽に笑っている。


 目的地は相模の国、小田原城だ、この城は義勝に恭順した扇谷上杉の上杉朝興の城となっている。

史実でこの城を居城とした後北条氏は、義勝によって伊勢盛時、氏綱、氏時が討たれた事により伊豆で、盛時の遺児菊寿丸がかろうじて、伊勢氏の所領を維持している存在になっている。

 岐阜から小田原城までは約12日の距離で、義勝は街道沿いの領民や、各地の国人衆に迎えられながら

行軍して行く。

「富士の山をこんなに近くで見たのは初めてです」

と尾張出身の定李と京の生まれの実恵は感激している、東国の生まれの高幹はそれ程でも無い様だ。

 義勝はハルトとして富士には登山した事があるが、この時代の富士山は現代とは少し違う姿をしている。江戸時代の宝永大噴火以前の姿だからだ。

 箱根の山に差し掛かると、50名程の武士とも農民とも見える者達が、片膝をついて待機している。

親衛隊の中に居る、甲賀衆の頭領『望月本実』、伊賀衆の頭領『百地三太夫』の二人が配下の者達100名で取り囲んだ。

「左府様、この者達は忍びでございます、お気を許しませぬ様に」

と言うので、義勝はその者達の長らしい者に声をかけた。

「その方ら風魔の者か、お主は風魔小太郎だな」

と言うと、名前を呼ばれた男は、平伏して答えた

「誠に恐れ入ります、我らは箱根の関を守る風魔衆にございます、私は仰せの通り頭領風魔小太郎と申します、左府様が我らの事をご存知とは光栄の至りでございます」

とどうやら本気で感激している様に見える。

「それで、その風魔衆が何用か、私の命を狙いに来たのではあるまいな」

義勝は笑っているが、望月と百地の二人はまだ殺気を露わにしている。

「とんでもございません、我ら小田原の上杉様に雇われ、左府様の道案内として参上した次第でございます」

と言う事だ。

「大義である、では案内を頼むぞ」

と義勝は風魔小太郎に言った後で、望月と百地の二人に目で『油断するな』と合図をした。

 ここから先は敵地でもあるので、油断は禁物だからだ。

歴史では風魔衆は小田原の北条氏五代にわたって使えた忍びとして有名だ、一族の長は代々風魔小太郎と名乗っている。歴史オタクで忍者が大好きなハルトが知らない訳は無かった。 

 

 とにかく風魔衆の先導で、義勝一行は無事に小田原城に入り、そこで、松平昌安、井伊直宗、吉良持清、渋川嗣知、それに松平貞光改め、愛鷹貞光と再会した。

 三河の松平氏は宗家となった松平昌安のみが『松平』を名乗り、十八松平家と言われた他の家は全て

領地に因む姓に変えている、松平昌安の弟である松平貞光が愛鷹に変えたのもその為だ。

 更に城に控えていた、足利義明、上杉朝興の二人とも面談をして、義明には鎌倉公方以来の『関東公方職』の廃止令を通達、上杉朝興は、「関東管領職」と武蔵守護を義勝から任命されると期待していた様だが、義勝はその事には一才触れなかった。

 足利高基と関東公方の地位を争っていた足利義明は戦う理由を失ったとして再び出家、還俗前の『空然』に戻り、鎌倉に隠棲する事になる。

 義明と言う神輿を失った上杉朝興は、義勝に臣従する事で上杉憲房と争う姿勢を表明する。

義明に従っていた国人衆達は全員が義勝に臣従を誓い本領安土を約束された。

 また、実質上の相模守護が不在なので、義勝は愛鷹貞光を相模奉行に任命した。

 この後、義勝は「空然」に案内させて、鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮に参内して源頼朝公の像と対面した。

ハルトとしては二度目だ、中学の修学旅行で東京国立博物館を訪れた時に見ている。

「(あの時はまさかこんな事になるとは思わなかった、まぁよろしくお願いいたします)」

と像に礼をして、小田原城に帰還した。

 この時伊豆から、元服前の伊勢菊寿丸が、参陣を希望して小田原城にやってきている。

義勝は菊寿丸を元服させて諱を与え、伊勢義氏と名付けて伊豆の本領安堵と、伊豆奉行に任命して帰国させている。この伊勢義氏は正史での北条幻庵だ。

 足利義明が「空然」に戻った事で、後に義明の孫足利国朝以来明治維新まで続いた喜連川家は誕生する事は無くなった、正史ではこの喜連川家が足利氏唯一の大名として残った家系だった。

 ちなみにハルトの先祖は祖父の持つ系図によると『津川近治』と言う人物で、正史の斯波家最後の当主斯波義銀の子で大阪夏の陣で大阪城で戦った後、尾張に帰国して帰農し庄屋になった人物らしいが、真偽は定かでは無い。

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