優しい言葉が実は残酷な刃となる
「と、言う流れがあったんだ」
目の前でそうほざく男は息も絶え絶えだった。
そうですかーなどとにこやかに笑っている彼女の表情には優しさの欠片も見出せなかった。
「どのような事情があろうと、費用が無いのは事実ですよね?」
「否、だから……あったんだって! ちゃんと!!」
「でも私は貰っていませんから」
「そうは言うが――あぁぁ……マジかよぉぉぉ」
良い大人ががっくりと項垂れる様は、何とも言えない気持ちになる。
食事が並んだテーブルに着きながら、胡乱気な表情でフィアナは彼を見ていた。
助けてあげる事は、容易い。
彼女の懐には彼一人分位の宿代も食事代も、普通にある。
しかしそれは本当に彼の為になるのかどうか。
今後も何か問題が起こる度に当てにされては困る。
彼はこの地に永住するのかも知れないが、フィアナはその内目的を達成したら自領土へ戻るつもりでいるのだ。
リーヴスラシル領は快適であるが残念ながら彼女が守るべき場所ではない。
この地は時期領主となる、レオンハルトがきちんと管理してくれるだろうと信じている。
「レオノーラ、後生だぁぁぁ」
「……しつこいなぁジークルト。
こっちだって慈善事業やってんじゃないんだからね!」
宿屋の看板娘の足に縋り付く大の男。
そんな彼を少しの間観察していたが、やがてフィアナはそっと視線を逸らした。
見続けることすら忍びない。
彼にだってきっと、針先程の僅かな誇りがあるだろうから――
「フィアナ、助けてくれ!」
誇りなど無かったらしい。
最早お客様扱いすらしてくれなくなった看板娘に見切りをつけると、フィアナの方へ擦り寄ってきた。
足元で頭を下げて土下座を演じる彼に対して敢えて反応せず冷ややかに見詰めてやる。
暫くすると彼は顎を引くのを止めて、フィアナの顔色を伺おうとした。
その頭の上に素足を――靴を脱いだのは最大限の温情だ――乗せて、敢えて高飛車に言ってみる。
「あらあら、ジークルト。
この私に一食一晩の憩いを願い出るつもりなら、あまりに頭が高い態度は如何なものかと思うわ。
今の貴方が出来る最大限の誠意は、つまりこう言う事よね」
逡巡する間だったのか、ほんの少しの間頭を上げようとする抵抗があったが。
瞬きをする間にその抵抗は消え失せて、平伏するジークルトの姿。
「……ぐぅぅ」
「やだ、呻いてる。
何だか気持ち悪いわ」
「そりゃ……ねぇだろう、あんまりだ」
べちゃり、という音を立てて平伏から五体投地へ切り替わった。
あらまあと口元に手を当てて、驚いた振りをする。
そんな二人を遠目に見たままにレオノーラは営業用の微笑みを浮かべた。
「フィノリアーナ嬢とジークルトはとても仲が良くていらっしゃる」
「えーっと、レオノーラ?」
「もしフィノリアーナ嬢がジークルトの宿代を負担して下さるのなら、当方何の問題もありませんよ」
「嫌よ、何を考えているの」
顔を背けて見るが、足元には地面にへばり付いた蛙に似た男が横たわっている訳で。
その頭にしなやかな足を乗せている様は新密度の深さを物語っていると言っても良い。
「けれど最大限の誠意を彼は示しております」
足元の蛙もどきを指差された。
確かにこの様子は彼の要望を受け入れたと受け取られるだろう。
思わず舌打ちする。
踏むだけ踏んで、いそいそと距離を開けておけば良かった。
己の対応の悪さに臍を噛む。
……が、まぁ。
特に懐が痛い訳でも無かった。
両腕を組んでうんうん唸って見せるもののもう結果は出ていた。
やれやれ、とそのような気持ちを持ちながら、胸元の裏から金貨を一枚レオノーラに投げる。
突然の事に器用に対応した彼女は、実に美しく麗しく跪礼してみせた。
「御緩りとお寛ぎ下さいませ。
フィノリアーナ嬢、ジークルト"様"」
はっと顔を上げようとした男の後頭部を、先程とは比較にならないほど強く強く踵で踏み付けて地べたへ這い蹲らせておく。
別に支払うのが惜しいという訳ではない。
いくらリーヴスラシル領の街とは言え、場所柄そこまで高額な市場でもないのだ。
満足の行くまで十二分に頭を踏み付けてから、やっと足を下ろした。
嬉しそうに見上げてくる二十も後半の男を見ながら溜息。
この男がこれで生計が成り立っていると言うのが不思議である。
当然、今彼女が宿に対して支払った金貨一枚。
それだけで例え夜な夜な豪遊したところで、問題なく支払える。
けれどまぁ、フィアナは面倒を避けたかった。
毎夜毎夜今のように足に縋られては困るし、頭を踏むのも……そろそろ面倒なものを感じる。
「見っとも無いわよ、貴方」
「何とでも言え、どうとでも言え。
本来なら出来た事が出来なくなった時、人は自尊心をも捨てられるのだ」
「……格好悪ぅい」
「ええぃ、聞こえない聞こえない!」
何とも都合の良いお耳ですこと。
もう何も言わずに、男への興味を失う。
それよりももっと興味が沸いたのは、男が日銭を失った理由の方だ。
「女にスられた、ってどれだけ暢気なのよ」
街を歩いていたら急に女に勝負を持ち掛けられて、革袋を持っていかれた。
確かそのように男は言っていたかと記憶している。
「そんなつもりは無かったんだが」
「現にそうなっているじゃない、貴方の『つもり』なんて知ったことではないわ」
「まぁ、結果はな?
最後の曲がり角で腕を伸ばした時に、きちんと捕まえていれさえすれば――」
「負け犬の遠吠えね」
下らない、と吐き捨てる。
するとフィアナの向かいで物凄い厚みのパンケーキに舌鼓を打っていたらしい少女が口を開いた。
「ジークルトは決して鈍足ではない。
相手の方が余程素早かったのだと思う」
「彼の運動神経が良い方なのは認めるわ。
でもその立派な身体を持ってしても、女一人に翻弄されてしまったのでしょう?
それって『貴方の唯一の取り柄は実は全然取り柄ではなかったのですよ』と言う様なものよ。
つまり傷口に塩を念入りにぬーりぬりと擦り込むのと同じ。
優しい言葉が実は残酷な刃となるという事を少しは覚えるべきね、ユノ」
「あんまりだ、あんまりだー!」
「貴方も大概にして頂戴、五月蝿くて先程から食事にならないじゃないの」
手にしたスプーンでびしっと指し示してやると、口を紡ぐ男。
そりゃそうだ、本日彼が宿に身を置けるのはフィアナのお陰。
……まぁ、彼が日中にフィアナの右手への贈り物をしていなければ、今夜の宿代くらい賄えたのではないか。
その気持ちが僅かでも心の片隅に引っ掛かってしまったので、どちらにしろ御礼はするつもりだったのだが。
そっと左の指で華奢な腕輪を撫でると、自然に頬が緩んだ。
別にあの男に対してどうという訳でもないけれど。
家名を気にせず付き合っていて良い人間関係は、とても穏やかで心地良いものだと、そう思うのだ。




