女子供に手を出してはいかんのぅ
鍛冶場には源素が無かった。
思わず小首を傾げて、更にそのまま固まってしまうところだった。
「どういうこと……?」
リーヴの街は、源素に満ちている。
本来存在しているよりも遥かに多く、存在している。
それなのに何故この場所は、たった一欠けらの源素すら無いのだろう。
こんな場所は誰かが意識的に作らなければ自然と構築されるものではないのだが。
まるでその為に、その為だけに誰かがこの空間を生み出したかの様に、見事に源素が調整されていた。
思わず呟いてしまった呟きに対して、老男は呵呵と笑う。
口元の髭を撫で付けながらその好々爺然とした笑顔は崩さずに、声を掛けてきた。
「なんぞ気になる事でもあったかのぅ、お嬢ちゃん」
フィアナの曾祖父や祖父はこんな、優しく穏やかな表情は殆どしない。
毎日がつまらなさそうで、退屈で……ともすればまるで私達の事すら忘れてしまったような立ち振る舞い。
曾祖父が穏やかな表情をする時は必ずユノがいる時だけであるし、祖父に至っては祖母が居たところでにこりとも笑わない。
まぁあの人に関しては、両親と金勘定している時がとても機嫌が良さそうだから、つまりそう言うことなのだろう。
その為フィアナは、年齢を重ねた人間にあまり良い感情を抱いていない。
曾祖父にだって抱いていたのは術式師としての尊敬であって、曾祖父に甘えたいとかそういった気持ちは欠片も無い。
何時までも何時までも、亡くなった曾祖母に執着し懸想して愚かだ、と思うことすらある。
そんな感情も、前回のあの一騒動から殆ど消えうせてしまったが。
「――この作業場はとても静謐だわ」
この老男に見詰められていると、素直にならなければならないような気持ちになる。
穏やかで優しくて、緑や青の体内源素が多いのではないだろうか……何とも言えない安心感に包まれるという心地良さ。
ドラシィル家では絶対に会う事の叶わないタイプの男性だと思う。
リーヴスラシル家ではどうだろうか?
ロイジウス等は穏やかではあるが、ここまで安心感を抱かせる様な存在かと問われると――残念ながら、全力で否定せざるを得ない。
レオンハルトにしても同じだ、彼らが穏やかなのは日常が平穏だというだけの話であり、殺伐とした環境であれば彼らでも今のままではいられないだろう。
「余り雑多なのは好かんでなぁ。
この街で店を構えようと考えた時に、静かな場所にしてくれと頼み込んだのじゃて」
「その建築家はとても良い腕をお持ちの様ね」
無源素空間を半永久的に構築する、などという無茶をするなんて。
その言葉は飲み込んで、辺りを見回す。
「所で御老体、この鍛冶屋に置かれている武具は全て貴方が手を掛けられたのですか?」
「御老体とは他人行儀じゃの。
親しげにおじいちゃま、と呼んで欲しいものだのぅ」
にこり、と笑んだまま老男は動きを止めた。
穏やかで安心感を内包した存在ではあるが。
あぁ、とっても面倒なタイプじゃないですかこれ。
胸中で盛大に溜息。
最近、というか昔から男運が悪い気がするのよね、私。
そんな事を考えてみるが、一向に老男は動かない。
これはアレだ、呼ばないと一切反応してくれないヤツじゃないか?
茶目っ気を出すのは大いに結構ではあるが、何も今……今こんな……。
表面上には笑顔を張り付かせたままで、フィアナは苦悩した。
けれど相変わらず老男は動きを止めたままだし――その後ろで、あの男は口元を僅かに歪ませて、笑いを堪えているようだ。
あの男、あれで仕返しのつもり?
自分の口元がむずむずするのが解る。
だから、老男に対して笑みを強めてから言った。
「おじいちゃま、ジークルトったら酷いのですよ。
何時も何時もあの様に私を苛めるのです。
おじいちゃまからも、是非叱ってやって下さいな」
「ほぉ、ジーク坊がそんな事を。
いかんなぁジーク坊、こんな可愛らしいお嬢ちゃんを苛めては」
胸の前で両手を握り締めた状態で、老男を覗き込むようにフィアナは訴えた。
そんな彼女を見て気の毒そうな顔を浮かべて老男は、後ろに振り返る。
「女子供には優しくしろと、前々から教えておるじゃろ。
そんな事もその汚ぅて小さな頭には解らんのかのぅ?」
「いやちょっと待ってくれ、イヴェニル。
俺はそいつを苛めた事なんて無いし、俺にしては破格かと思うようなレベルで優しくしていると思うぜ?
寧ろどちらかと言うと苛められているのは――」
「嗚呼、おじいちゃま。
どうか聞いて下さいますか?
この様に彼は一事が万事この様な事ばかり仰るのですよ。
私は何時も悲しみの涙で枕を濡らしております。
彼のこういった言動はあんまりではないでしょうか、私はとても悲しいですわ」
「お前は黙ってろ!」
フィアナの位置からは老男イヴェニルの表情は窺い知る事が出来なかったが、ジークルトの慌てっぷりからすれば恐らくは余程の悪い顔でもしていたのではないだろうか。
ちょっと見てみたかった気がしなくもないが、彼の慌て方を見る限りではやめて置いた方が長生き出来そうだ。
悪乗りしてよよよとイヴェニルに体を寄せて泣き真似をすると、掌底が額に飛んできた。
力はほとんど掛かっておらずに少し頭が上を向く程度ではあったが、あえて逆らわず抵抗せず。
その直ぐ後に息を呑む音が聞こえ――ばたん、と床が何かを打ち付けられて大きな音を立てた。
「何があっても、女子供に手を出してはいかんのぅ」
「イヴェニル、折角だからその範囲をちょっと広げて、馴染みの男も其処に寄せてくれ」
「とても残念じゃの、儂ぁ男は伸し上がる生き物じゃと思っておるでな」
愉快な声を上げて笑う、イヴェニル。
「同じ事をやられんで良かったと、ジーク坊は感謝こそすれ不満を漏らすようではいかんのぅ」
少し上を向いていた視線を床に落とす。
仰向けの状態で両手足を大の字に広げたままのジークルトが、彼を見下ろすイヴェニルに対して抗議を行っていた。
抗議を行ってはいるものの、彼は決して腹を立ててもいないし不満や不平を述べているのではない。
あくまで、これは双方間のじゃれ合いなのだ……だからこそ、二人とも表情には笑みが浮かんでいる。
何だか複雑な気分になりながらも、そっと声を掛けた。
「何時まで伸びているつもりなの。
そんなに床が好きなのならば、いっそ這い蹲ってどこぞの黒い生き物みたいに地べたで生を全うしているが良いわ」
僅かに顎を開き合えて冷たく見下ろしながらそう言ってやると、悔しそうな顔をする彼。
二人のそのやり取りを見て、成る程と得心のいった表情で笑っているイヴェニルがいた。
そろそろ孫の顔を見る日も近いかのぅ、などと暢気に声を漏らして、即座に二人から否定の声を上げられる。
それでも嬉しそうに、老男は笑っているのだった。




