その事実が欲しいだけ
食事を終えて、一旦部屋へ戻る。
最早、住居と変わらない扱いとなった一室は、宿として提供されている二階ではなく三階に変更した。
一ヶ月毎の宿代を纏めて支払うことによって長期滞在に対応するための場所へ、部屋を移動して貰ったのだ。
その為に遠慮無しに所狭しと衣服や術式具を並べ、使いやすいように改装済みである。
「レオノーラのご飯は美味しくて良いのだけれど……。
ちょっと、量が多いから、体重が心配だわ」
ワンピースの裾を捲り上げて、むにむにと腹部を摘んでみる。
取り立てて気にする程でもない、きちんと括れて程好い肉付きをしているのだが、彼女自身は少し気に入らないようだ。
真剣な表情で暫く掌で撫で回してからベッドに横になった。
「うーん。
太った感じはしないけれど……でも、見えないところは解らないからなぁ。
大丈夫、大丈夫だと……思うのだけど……うーん」
腹部だけでなく、太ももや臀部辺りも両手で弄りながら悩む。
その日に摂取した脂肪や贅肉はその日の内に、と言うものね。
そんな事を考えながら、本格的にマッサージでも始めようかと考えた。
一人用の個室だから、誰に気を使う事も無く無防備に下着や臀部を晒して――
「楽しそうですねぇ、お嬢さん?」
声が聞こえてきた方向へ顔だけを向けると。
窓枠に腰掛ける一人の男が、にやにやと不気味な笑み貼り付けたままで此方を見ていた。
まさか、一人で身体の維持調整をしている時に、来訪されるとは思わなかった。
露になっていた衣服の裾を下ろして整えながら、動揺を表に出さずに心を落ち着けるよう努める。
上体を起こして、ベッドの淵に腰掛けた体勢で彼に向き合った。
……でも、人の下着と尻見ておいて、平然としているなんて本当に失礼。
何よりも、腹部を確認している最中という、他人特に異性には隠して置きたい部分であるというのに。
しかし彼にはこういった抗議はなんの意味も成さないという事が解るので、あえて平然と対応する。
「それなりに楽しいわ。
お前と居るより遥かにね」
「そいつは何よりですねぇ?
けれど、目的を忘れてはいないですかぁ?」
「目的……?」
一瞬、彼の言った意味が良く解らなくて瞬きをしながら聞き返してしまう。
そんなフィアナに向かって、眼鏡を上着の胸ポケットにしまいながら、彼は言う。
「人形を破壊するんでしょう?
俺に何か手伝える事はないかなぁ、なーんて思ったのでお邪魔しましたよ」
あー、という気の抜けた声が口から漏れた。
慌てて口元を両手で押さえたが、生憎と漏れ出でた声は聞かれてしまったようだ。
「何ですか、その声ぇ?」
長い舌を此方に見せるように伸ばしてくる。
蛇だ、蛇の紋章。
醜悪な意味を持つその紋章が視界に入ったと同時に、あからさまにフィアナは顔を背けた。
世命樹と呼ばれる、このユーグラヒム大陸の中心に生える大樹。
大陸はその根によって支えられているとも、その樹が宿す実を口にすると理を統べるとも伝わる。
その樹に宿る実を食べつくさんとして、大陸ごとを囲い込んでいると言われているのが、黒い蛇。
その蛇を模した黒い紋章を体内に刻んでいる、男。
もうそれだけでフィアナは嫌悪感から嘔吐しそうになった。
彼女が嫌悪している事を知っていて、彼は舌を伸ばす。
恐らく癖になっているのか、それともその蛇の紋章を尊いものだと彼が信じているのかは解らない。
あの蛇が抱え込んでいる星は、『目的』という意味の印を指し示す。
つまりは世命樹の実を口にして、全ての理を手中にせんが為にだけ動く、という意味を持つという。
全てを知る、のではなくて強制的に与えられる理をただ会得する為だけの思考。
相変わらずの他力本願さに頭痛がしてきた……早く帰ってくれないだろうか。
「お前が出来る事なんてないわよ、何一つね」
顔を背けたままで、そう吐き捨ててやる。
その言葉を笑って受け止めてから、しかし真顔を作って彼は更に続けた。
笑いが途切れたのでつい表情を覗ってしまったので、何時になく真面目なその顔を見てしまった。
「お嬢さん、生家が大切ではないのですか。
俺はこれでも貴女の味方のつもりでいるのですよ?」
「何が味方のつもり、よ。
何のかんのと言ったところで、お前は私をドラシィル家に一度連れ帰るのが目的でしょう?
まだ家に帰るつもりも無い私の味方をするには、まずその考えを捨ててから来なさい」
そう言い終えた時、彼が笑った。
いつものように此方を馬鹿にした笑みではなくて、もっと何と言うか。
真面目に話していたのに、ふと言われた言葉が妙に可笑しくて可笑しくて、つい口元に笑みを浮かべてしまった……そんな笑い方をした。
こんな風に笑うのか、とふと思う。
「当然、お嬢さんには生家へ戻って頂かなければなりません」
そう続けられたので、再び顔を背けてやる。
すると男は勝手に窓から室内へ侵入して、此方に歩み寄って来たようだった。
フィアナは顔を背けているのだが、近付いてくる気配を感じて少し眉根を寄せる。
だが、部屋へ侵入されて不快ではあるのだがそれでも顔を向かい合わせるよりは見ない方を選ぶ。
そう強く思ってフィアナは依然と男の方を見ないように視線を逸らす。
「けれどそれは俺との婚姻の為だからね。
俺は別に、その後にお嬢さんが何をしていようと……興味はありませんよ」
そう言いながら彼は、彼女の腰掛けるベッドの淵にしゃがみ込むと、そっとフィアナの左手を取った。
両手で、壊れ物でも扱うかのようにそっと握り締めると、無言で此方の様子を伺っているようだ。
少し冷たいその両手を振り解こうとしたが、いつもの態度とは違う彼に少し緊張してしまう。
だが、どちらにしろフィアナの返答は決まっている。
決まっていることを何度伝えても諦めないこの男には、やはり根底から嫌悪しか抱かない。
「あぁ、成る程ね。
ただドラシィル家との婚姻関係での繋がり。
その事実が欲しいだけなのね? アレッサ」
嫌悪も露に吐き棄ててから、アレッサの両手から自分の手を引き抜いた。
触れられている事すらもあまり良い気持ちにはならない。
ついでに一度手の甲にしっぺをしておいた。
「私はお前に興味がないわ。
とっとと一人で帰りなさい。
もうお前の挑発にも乗らないし、関わりたくもないし、そもそも婚姻関係も結びません」
跪いたままのアレッサがそっと、両肩を竦める。
「相変わらずお嬢さんは、手厳しいなぁ。
いつまでも変わらずにその態度で居られるなら、俺もそれなりの対応をしなければならないんだよねぇ」
「……何が言いたいのかしら」
「素直じゃない女は可愛くないよねぇ、って話だよ、お嬢さん」
言うなりぐっと顔を鼻先まで寄せてくる男。
その漆のような双眸と濡れた漆黒の瞳からの視線が交差し、そして離れた。
「まぁまたお邪魔させて頂くぜぇ。
ちょっとぁ素直になってくれていると、俺も楽で良いんだがなぁ?」
外した眼鏡を取り出して器用に片手でかけなおすと、口元を醜悪に歪めて笑う。
窓までゆっくりと歩いていくと窓枠から体を部屋の外に出して小さく術式を唱える。
術詞は聞き取れなかったが、緑の術式が確認できた。
「次は良い返事を期待しますかねぇ」
最後に一言言い残して立ち去るアレッサ。
フィアナは無言でベッドから立ち上がると窓硝子の取っ手に手をかけて、勢い良く窓を閉めたのだった。




