あまりいじめないであげて
「もぅ、また叩いた!
女の子をぽこぽこ叩くなんて、あまりに無体だわ。
修羅か悪鬼の所業に等しいのではないかしら!」
先程より強く打ち下ろされた手刀に、抗議の声を上げるフィアナ。
そんな彼女を見て諦めたようにジークルトは左腕を彼女の両膝裏へ差し入れて前へ軽く払い、仰け反る様に姿勢を崩させる。
崩れて無防備になった背中側へ右腕を伸ばして支えて担ぎ上げると、くるりとフィアナの視界は回転し空を仰ぐ体勢になった。
「問答無用だ、さぁ飯行くぞ飯」
完全なる横抱き、つまり俗にお姫様抱っこと呼ばれる状態で抱え上げられて、思わず言葉に詰まるフィアナ。
文句が飛ぶ前にと急ぎ店内へ駆け込むジークルトは、年の離れた妹のような、そんな彼女の扱いにも大分慣れてきた様だった。
対して妹役に該当する彼女は、子ども扱いされるのが不服なのか良く頬を膨らませて拗ねている。
そんな言動をしているから余計にジークルトは溜息しか出ないのだが、此れが男女差なのだろうか。
宿の中の酒場では、看板娘がにっこりと料理の並んだテーブルの椅子を下げて待機している。
そこに的確にフィアナを座らせてから、やれやれとジークルトは彼女の向かいにある木箱に座った。
何時も何時も彼は木箱に座って椅子にはあまり座らない。
行儀が悪いと一度フィアナが注意したことがあるのだが、その時は椅子を逆向きに設置して背凭れに顎を乗せて座っていた。
なんともみっとも無いその行いに、唖然として二の句が告げなくなった彼女。
もう何も言うまいとして、結局ジークルトは相変わらずの木箱に腰を下ろすようになった。
少し肌寒くなっていたとはいえ、気持ちの良い芝生から香りの良い店内へ運ばれたフィアナはわざとむくれてみせる。
「聞いて、レオノーラ!
ジークルトったら酷いんだから。
私の格好がとんでもない、なんて言うのよ。
あんまりだと思わない? 自分の格好を棚に上げて!」
「おい待て」
「ジークルトの格好が可笑しいのは今に始まった事ではありませんよ」
「ちょっと待てこら」
「それは解っているけれど、そのセンスで他人様の格好に口を出すなんておこがましいにも程があるわ。
大人しく褒めていれば良いのにうだうだと文句をつけてくるのだから、嫌になっちゃう!」
「話を聞けよ」
「美麗なものと醜悪なものの判断がまだ付かないのでしょう。
未熟な彼への怒りを静めてあげて下さい、どうか私に免じて」
「もしもーし?」
「レオノーラがそう言うのなら……仕方ないわね。
今日は大人しく文句を言わないでおいてあげるわ。
ジークルト、彼女に感謝なさい」
そういい捨てると、先程渡されたままだったジークルトの上着を大人しく着る。
文句を言うだけ言われた後なので、憮然とした表情で彼は木箱の上で指をばきばきと鳴らした。
さも可笑しそうに看板娘は笑い、それから彼にも食事の為の用意を施す。
彼は軽く片手を上げて応じてから階段の上を振り仰ぐと、叫んだ。
「お前らも、飯食えよー?」
階上に居るのは、少女と少年とその侍女。
ちょうど少年が此方を覗き込んでいたところだったらしく、嬉しそうに階段を駆け下りてくるのが見えた。
その後を静々と微笑を浮かべ付き従う追従する侍女は、相変わらず隙が無くて腹立たしい。
更にその後ろから無表情で追従する少女はまたしても着飾った服装を着ていた。
絹のような白銀の髪は、耳の辺りから後ろに向かって左右で編みこまれている。
後頭部で結ばれている所には青の造花が添えられていた。
衣服は薄桃色の柔らかな布が足元まで伸びている上着と、橙に少しプリーツの入った膝上までのスカート。
靴は焦げ茶色の鞣革が使われており、乳白色の喉元まで覆うハイネックの胸元には黒曜石のブローチが留められていた。
先導していた少年は、上品な水色のブラウスに深い紺の上着を着ており、胸元には薄紫のスカーフが僅かに見える。
陽光のような髪は結わえずに綺麗に梳いており、動くたびにさらさらと頬を擽っていた。
少女と合わせたかのような橙の短いズボンに、家紋の刺繍が施された靴下と紺の靴。
二人が並んでいるとまるで精巧な人形の様にも見える。
「ところで、ジークルト!
あんまり僕のフィノリアーナをいじめないで!」
彼女の隣の席に座るなりそう言い捨てた少年に、引きつった表情でジークルトは応対する。
「俺はいじめてないんだけど……というか、どう見てもいじめられているのは俺だろう?」
「お母様が、女性にはとことん優しくしなさい、って言うんだよー?」
「やめておけ、やめておけ。
女は優しくすると調子に乗る、甘やかすと付け上がる。
そんで、守ってやらなくても強い女が大半だ、男の方が弱い」
顔の前で手を振りながら、明後日の方向を見ながら溜息。
そんなジークルトを胡乱気に見つつも、レオノーラから受け取った麻の布で髪の毛を一つに纏めながら言葉を掛けた。
粗雑ではあるが、食事をする間だけなので特に気にはならない。
「その人、その成りでとっても弱いのよ。
泣いてしまうかも知れないから、あまりいじめないであげてくれる?」
「フィノリアーナがそう言うなら仕方ないなー!」
フィアナに向かって花開く天使のような笑顔で笑いかけてから、くるりと男の方を見て、そして笑いかける。
「程々で良いよ、シャルロッテ、程々でね」
ぎょっとしたジークルトが後ろを振り向くと、口元に微笑を湛えたメイド服の女性が一人。
そっと彼の肩に両手を置いてそして答えた。
「お任せ下さいませ、レオンハルト様」
言葉を無くしたジークルトを完全に無かったものとして、フィアナは手近にあった麦のパンを手に取る。
中には胡桃と白葡萄が混ぜ込んであって、しかもつい先程焼き上がったばかりのようでふんわりと香りが鼻腔を擽った。
両手でしっかりと掴んで左右に千切ると更に香りが広がる。
レオンハルトとは逆隣に腰掛けた少女に右手のパンを無造作に放ると、鮮やかに受け取ってそのままもくもくと齧り付いていた。
流石にフィアナは小さく千切りながら用意されたオイルに軽く浸しながら、口へ運ぶ。うん、美味しい。
「パンのお味は如何ですか?」
果汁を絞って微量の炭酸を混ぜたという、彼女独自の飲み物を瓶からグラスに注ぎながらレオノーラが問い掛ける。
生憎と咀嚼中な為に手で印を作る事によって返答を返す。
上手く伝わったようで、彼女は恭しく跪礼して見せた。
それから、辛いものが好物であるフィアナの為に用意された、唐辛子と唐柿で緩く仕上げたスープ。
皿ではなくてカップに用意された何時ものそれを彼女の右手元に置くと、今度は少女の隣に馬鈴薯の冷製スープを差し出す。
パンに齧り付いたままの少女は決してパンから口を離さずに、目線だけを上下させ目礼した。
相変わらずの机いっぱいに並べられた料理。
彼女の得意料理はアイントプフのような家庭料理だそうだが、フィアナやレオンハルトに気を使ってか手の込んだ料理を提供してくれる。
当然レオノーラの親族に該当するらしいシャルロッテも手伝うそうではあるが、毎日毎日有り難い事だ。
そう感謝しながら、フィアナは、唐辛子と唐柿のスープを口にした。
フィアナは知らないし知る必要もない事ではあるが、ここ一ヶ月、レオノーラの切り盛りする宿はとても繁盛していた。
それもこれも、見目麗しいご令嬢や愛らしい少女と少年の姿を毎日の様に確認できるから、という理由があるのだ。
なので、この三名を持て成すという事自体が宿にとっては大きな集客手段となっている……のだが、そういった事をあえてレオノーラは口にしない。
ジークルトやシャルロッテは気付いているものの、特に何か物申すこともないため黙している。
満身創痍で生死の狭間を彷徨っていたジークルトが目覚めてから、一ヶ月。
少女――ユノが街から動かないで、毎日のように丘へ出掛ける事以外には、穏やかな日々が続く。
魔女は街を出る理由を失い、男はそんな二人と取り止めもない会話をするだけに終始する。
こういった穏やかな日々が何時まで続くかは誰も解らない。
僅かな時間でも良いから、こういった日々が少しでも長く続けば……と思っていても。
ふとした事から、安穏は崩れ行くものであると、全員が等しく理解しているのだ。
緩やかな日常風景から――第二章、開幕と致しましょう。




