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ティアートロリアの謎  作者: えりせすと
第一間章
72/139

欲しいものは手に入ったのかい?

 辺り一面に降り注ぐ緑の光。

 肌に絡みつくような、それでいて不快ではない空気。

 静けさの中で僅かに耳に届く程度の小さな小さな摩擦音。

 泉が奏でる水音、其処から流れ行くせせらぎ。

 水面には葉の合間をぬって届いた陽光がきらきらと反射していました。


 その泉の畔で腰を下ろした彼は、少しの気だるさと共に足先を水面で遊ばせています。

 この場所では時間の感覚がとても曖昧で気をつけていないと今が何時なのか解らなくなります。

 とても冷たいその泉で、己の顔を見ながらも何を思うでもなく考えるでもなく時間を過ごしているようでした。


 足先から描かれる波紋を見つめながら、彼は言葉を紡ぎます。

 小さな口から発せられるその言葉は泉に吸い込まれて消えてしまいました。

 予想通りであるその結果には何の感慨も沸かず、唇の端を僅かにあげてからまた彼は言葉を紡ぎます。

 またしても泉に吸い込まれて消えてしまった事に、ニヒルに笑う彼がいます。


 そんな彼の後ろからそっと、少女が彼の傍に寄り添うように近付きました。

 空気の流れが変わって誰かが後ろにいることに、きちんと彼は気づいたようでした。

 最初は拒絶の空気を漂わせていた彼も、暫くすると少女を受け入れて、口を開きます。


『――あの時言っていた、欲しいものは手に入ったのかい?』


 少女は答えずに、次の言葉を待っています。

 様子を伺いつつも何の反応も返さない事に対して、彼は小さく息を吐き出しました。

 問い掛けに返答がない場合に考えられる結果を脳裏に思い描きながら、言ってやりました。


『生憎と。

 俺っちは何もしてやれないよ』


 反応を待っているだけではつまらないので僅かに間を空けてから続けました。

 彼は表情を変えることなく言葉を発して、少女はそんな彼から目を離しません。

 何か物申したいことでもあるのか、それとも何も言うことはないのか、それすらも解らなかったのですが。

 たっぷりと時間をおいてから、少女は自らの両手を重ねて祈りを捧げるような体勢を取りました。

 それから僅かに逡巡するように双眸を伏せて、改めて彼の顔を見つめました。

 その様子を見て、少女が此方に何かを求めている訳ではないと理解しました。


『そうか』


 だからこそ、優しげに瞳を細めて彼は愛しさと困惑を交えて微笑みました。

 彼のその様子に対して少女は慌てるように手を振りました。

 そして暫くしてから、今度は首を横へ振ります。

 拒絶なのか否定なのか、そのような仕草を見せた時。

 彼の頭に閃く事がありました。


 じっと少女を見つめて、様子を確認します。

 彼の視線を一身に受けて少しだけ恥ずかしそうに俯く少女。

 それでも短くも長くも思える時間をたっぷりと少女の観察に費やした後、ふと思うことがありました。


 直ぐ傍にある泉へと目線を落とすと。

 線の細い華奢な女が映っていました。

 その女を見つめながら、彼は小さく頷きます。


『ひょっとして、辛いのかい?』

「いいえ」


 水面に映る女が口を開きました。

 艶やかな唇から紡がれる言葉は、水面に落ちて散らばってさっとその姿を隠してしまいます。

 決して人の目には触れまいと頑張る小さな妖精のようなその様子に、思わず苦笑してしまいました。


「とても幸福に満ちています」


 その言葉自体に嘘偽りはないのでしょう。

 だからこそ美しい言葉であり、だからこそ虚無な言葉でもありました。

 目の前にいる少女でなくて水面に映る彼女に向かって彼は言葉を紡ぎました。


『幸福、か』

「全ての存在(もの)には多謝のみを感じます」

『多謝、ね』

「そして愛情を得ています」


 淡々と女の発言を繰り返していた彼でしたが、最後の言葉には何も反応を示しませんでした。

 だから女は水面の中から此方を覗き込むように身体を寄せて、それから。


『止め給え。

 俺っち含めて現存している誰も彼もが、そんな状況(イベント)何も望んじゃいないんだ』


 ふと、女は動きを止めました。

 代わりに少女が動きます。

 水面の女と彼との会話を聞いていただけの少女は、少し淋しそうな表情で近寄ってきました。


 儚げで繊細である少女が、実際に何も物申せないのは知っていました。

 それでも表情を見ているだけで何を求めているのかは解ります。

 解るだけでなく、彼には応えてあげることもできました。


 かといって、全ての要求を理解できる訳ではないのです。

 また理解出来たからといって、叶えてあげる義理も役割も彼にはありません。


 少女は淋しそうな表情を変えずにそっと彼へ触れました。

 彼はそんな少女に触れ返すことで、胸中を吐露します。

 暫くの、ほんのわずかな時間の後に、少女は身を引きました。


 水面に映る女はそんな二人を黙したまま見ていましたが、やれやれと残念な表情を形作ります。

 その様子を片目でちらりと確認した彼は、女にだけ凶悪な笑みを見せました。


『君自身の望みを叶えておいて、更にまだ俺っちに何かを要求するつもりかい?』


 慌てたように首を横に振る女。

 次の瞬間、泉が震えて水面に漣が立ちました。


 水面が落ち着いた時には、既に女の姿はありません。

 彼だけを映すその泉に向き合うと、大きく溜息を吐き出しました。

 口から漏れ出た呼気が水面を大きく波打たせますが、それ以上の動きはありませんでした。


『とんだ邪魔が入っちまったぜぇ』


 おどけたように肩を竦めて、語りかけます。

 隣に立ったままの少女が僅かに微笑みました。

 そんな少女の頬を何時の間にか伝っていた透明な液体をそっと舐め取ってやると、更に少女の笑みが深くなりました。

 嬉しそうなその笑顔を見て、彼の心に何か暖かいものが伝うのを感じます。


『何はともあれ、だ。

 そろそろ戻った方が良いんじゃないかい?

 何時までも此処で時間を過ごしたとしても、今の君には不要な長物だろう』


 その言葉に、少女は再び泣きそうに笑顔を歪めました。


『今の君が誰とも言葉を交わせないのは、とても辛いのだろうね。

 けれどもそれは君が選んだ道だろう。

 己の選択には誇りを持って挑むべきだ、違うかい?』


 ふるふると首を横に振るう少女がいます。

 本当は解っているのです、それでも何かを頼って少女は此処へ来ました。


『良い子だ。

 必要ならば俺っちの従者にでも先導させようか?』


 再び少女はふるふると、首を横に振るいます。

 そんな少女に彼はたっぷりと膨らんだ自慢の尻尾を触れさせました。


『君に悲しい顔は似合わない。

 笑っておくれよ、フィヨノルニア』


 そう彼が言った時、辺りに緑の光が満ちました。

 碧い毛並みを持つ彼と、白金の美しい髪を持つ少女を緑の光が包み込みます。


 その緑の光が薄れた時、そこには大きな大きな大樹と、その足元を彩る大きな大きな泉しか、ありませんでした。

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