結局全てをぶち壊すのは
ぴたりと、フィアナの動きが止まる。
彼女の身体からふっと力が抜けるのが伝わってきた。
アレッサの身体が邪魔で、顔は窺い知ることができない。
しかし。
辺りにとてもとても濃い濃靄が広がる。
噎せ返るほどに濃く深い。
下手するとフィアナの姿すら、黙視できなくなる。
(何なんだよ、この靄は!)
ジークルトは胸中で吐き捨てた。
最近急にはっきりと見えるようになった、靄。
正直邪魔だし、戦況の確認がしにくくて迷惑だ。
辺りに立ち込めて視界を奪う。
香りも質感もないが、ただただ目障りだ。
と、辺りにくぐもった笑い声が響く。
ぎょっとして、何事かと声の元を確認すると――
口元を捕まれ、術式にて自由を奪われ、その大きな漆黒の瞳から大粒の涙を溢したフィアナが……くぐもった笑い声を上げていた。
そのフィアナの様子を確認して、アレッサは手を離す。
口を塞ぐものがなくなったからであろうか、更にフィアナは高らかな笑い声を上げて、笑いだした。
しかもそれは、楽しそうでもなく自棄っぱちでもなく、狂喜の声。
フィアナの様子を確認すると。
漆黒の瞳に光はなく大きな目を精一杯見開いてアレッサを、アレッサだけを見ている。
しかしその表情は恍惚に彩られ、身体は頻りに痙攣していた。
ふるふると震える腕は黒の拘束から解き放たれ、その豊満な肉体を両の腕で抱き止める。
甘い痺れが彼女を満たし……そして、言葉を紡いだ。
「……そう、そうね。
油断も遠慮も気遣いも愛しさも優しさも全て、不要なのだわ」
辺りの靄が、更に濃くなる。
「全て全て燃やて燃やし尽くして何もかも全部灰にして焼き尽くしてしまえばそれで終わるのよね」
高らかに笑い出す。
明らかに様子がおかしいが、そんな彼女をアレッサはにやにやと見ていた。
ジークルトは焦燥感に駆られて、そんな男の傍まで走り寄る。
愉快な表情をも隠そうとせずに、アレッサは此方に視線を向けた。
そんな彼の胸ぐらをつかんで、地面に叩き付ける。
全く動じずに男は起き上がり服に付いた埃を払う。
先程まで男が見せていた危険な動きが一切なく、まるで別人のようだ。
アレッサはジャケットから眼鏡を取りだし、平然と着用した。
「どうしましたか、そんなに慌てて?」
「どうしたもこうしたもあるか!
お前あいつに何をした」
「おやぁ? ご覧になられていたでしょう?
お嬢さんは俺に負けました、それだけですよ?」
「今のあいつが、勝負に負けただけのただそれだけの様子だとでも言うつもりか?」
「当然です」
言い切られた。
「お嬢さんは俺に負けました。
原因は貴方のような足手まといを庇おうとしたからです。
その結果が、今のあの状態」
何がおかしいのか、笑みすら隠さずにいい募る。
「暴走状態です。
ざまぁないですね、結局全てをぶち壊すのは……昔も今も、あの人だけですよ!」
思わずジークルトは拳を握りしめ、身体よりも強く引く。
そのまま体重を乗せて振り抜けようとしたが、アレッサの片掌がそれを難なく抑えてしまった。
思わず舌打ちして、拳を引っ込める。
「俺がお嬢さんをやり込められたのは、あの人が冷静だったからです。
確かにウィセド語は使い勝手は良いですが、古ソルシエ語の術式の方が圧倒的に威力は高い。
何事も略せば良いと言うものではないのです、正式な術韻は何より強い」
アレッサは続けた。
「俺が受けた依頼は、この街自体を潰すことでした。
建物も壁も全て、無かったことに。
……でもね、俺のウィセド語の術式じゃーこの街をさくっと潰すことなんて出来ないんですよね。
でもほら」
すっと、彼は指差した。
未だ身体を抱き締めたまま、地面に倒れ込むように、それでも笑うのをやめないフィアナを。
身体は痙攣しふるふると震えて、それでも笑い声は漏れ聞こえる。
そして、彼女を包み込む靄は更に濃度を増した。
このままだと、彼女の姿すら見えなくなってしまうのではないか……とも思えるほどに。
「では、俺はこれで」
さっと片手を上げて、アレッサは歩き出した。
その仕草が余りに自然すぎて、うっかり見送ってしまいそうになる。
「な、何がこれで、だ」
「俺の役目は終わりました」
服を掴もうと腕を伸ばすが難なくかわされてしまう。
再度伸ばすが同じこと、既に距離が空いてしまった。
「これは親切で言うのですが……」
ぽつりとアレッサが言葉を漏らす。
「死にたくなければとっととこの街を出て、隣の更に隣の街まで逃げた方が良いですよぉ?」
肩を竦めておどけて見せてから、続ける。
「最強の術式師ユンゲニール・レーラズ・ドラシィル、そして初代にして唯一の魔女の血を引く正式血統者であるフィノリアーナ嬢の全力は、現役術式師の誰であっても防ぐことは出来ませんから。
と言うことで、失礼しますね」
止める間すらなかった。
「ヴェン・フルーク」
アレッサは術詞を唱えた。
彼の身体全体にうっすらと靄が集まり、そして飛翔する。
「後は頑張って下さいねぇ」
最後の言葉を残して、彼の姿は空を駆けた。




