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09_【初恋回想①】初対面


 今でこそ、天才S級防御魔法士として名高いリナミリヤであるが、十四歳で侯爵家に引き取られるまでは、田舎で平民として暮らすただの少女であった。

 その時は、まだリナ・アンベルという名前で、ただ野山を駆けまわり、優しい母と暮らすだけで幸せだった。


 約三年前――十四歳の春、侯爵である父に引き取られたリナは、編入したばかりの学園の裏庭で、立派な巨木の枝に登って泣いていた。意地悪な異母兄への怒りと自分の無力さで、今朝はとうとう限界が来たのだ。あと三十分もすれば一時限目の授業が始まってしまう。だから早く泣き止んで教室に戻らなければならない。だが焦っても涙は引っ込んでくれない。溢れる涙を乱暴にぬぐっていると、二、三歳は上だろうか、見知らぬ黒髪の少年が近づいてきた。彼はリナがいる木をじっと見上げる。


「そこにいるのは誰だ? 何をしている?」


 そんなの見ればわかるだろうに、と性根の悪いことを考えながらリナは年上らしき少年を睨みつけた。


「……リナ・アンベルよ。木の上で泣いていたら悪いかしら」


 亡き母に小さい頃から「挨拶は大事よ。名前はしっかり名乗りましょう」と言われていたために、勝気な心のままについ口から出たのは幼少から慣れ親しんだ、大切な母がつけてくれた『侯爵家に来る前』の名前だった。この国の貴族からしたら高貴な人間の名前が二文字というのはありえないらしく、父に長い名前に変えられて、現在の正式な名前はリナミリヤ・カレスティアなのだが――知らない男子生徒相手ならまあいいだろう、と訂正する元気もなくて、投げやりな気持ちでその少年を見下ろした。


 リナの不躾な態度にも関わらず、彼は表情を変えなかった。


「そうか、リナ・アンベル。取り込み中にすまないが、その木は頑強そうに見えて治療中なんだ。できれば振動を与えずにそっと降りてきてほしい」


「え、治療中?」


 予想外の言葉に、きょとんとリナは目を瞬かせる。

 手や足に触れている立派な幹――樹齢何十年かわからないが、びくともしないような巨木だと思ったから登ったのに。見えない内部が病気だったりするのだろうか。


「ごめんなさい、私知らなくて……」


 すぐに詫びれば、彼も首を横に振る。


「いや、立て看板を置いておかなかった俺が悪い。一見しただけではわからないだろう」


 そもそも貴族が通う学園で木に登る人間がいるとは思わなかった、とは言わないあたり、彼は品が良い人なのだろう。

 治療中の木だから振動を与えずに、と彼は先ほど言った。ではどうやって静かに降りようかとリナが慌てていると、彼はそっと両手を差し伸べ――しかし、「ああ、すまない」とすぐに引っ込めた。


「俺が触るのは良くないな。脚立を持ってくる」

「いえ、多分なんとか…」


 振動を与えずに、となると反動をつけずに滑り降りればいい。しかし真下に降りることになると根本にどすんと落ちてしまうかもしれない。


「慌てなくていい。すぐに近くに温室があるから脚立も借りられるんだ。長いやつがある。待っていてくれ」


 そう言って彼が向かっていく先には確かに温室があるようだった。高い位置からだとよく見える。


 彼はすぐに戻ってくると、折り畳み式の長い脚立を置き、そしてリナを導くように片手を伸ばしかけ――また、一瞬の躊躇を見せて手を引っ込めた。彼は黒い革手袋をしている。怪我でもしているのだろうか。手を借りてもいいのか悪いのかよくわからない。結局、彼に脚立を支えてもらって、慎重にリナは地面へと降りた。


「……ご迷惑をおかけしました」

「いや、こちらこそ、邪魔をしてすまないな」


 泣いていたのを中断されたことに関しては、むしろ気恥ずかしいので掘り返さないでほしかった。リナは食い気味に、「この木は何の病気なの?」と訊いた。

 彼は病名や症状を詳しく教えてくれたが、リナにわかったのは「内部が脆くなっている。魔法薬で治療をしているから、あと三ヶ月は安静にしておきたい」ということだけだった。


「あと三ヶ月は安静、かぁ」


 リナの防御魔法は木にも掛けられるのだろうか、とふいに思いついた。

 魔法の才能を見出されて侯爵家に迎えられたリナではあるが、今はまだ身に纏うくらいしかできていない。しかもC級なのでわりと弱い。

 試しに魔法をかけてみれば、木は白い光を受け入れ、ふわりとリナにだけ見えるベールを纏う。


「これで、少しは振動を受けなくなるわ。さっき降りる前に思いついていれば、あなたに迷惑をかけなくて済んだかも。……あ、でも私が近くにいないと維持できないのよね」


 リナがここから去れば魔法は解ける。そばにいる時しか守れない。そうなると普段はあまり意味がない。


「気持ちだけで十分だ。……立て看板を置くとしよう。支えのためにも今日あたり板を添えようと思っていた。見た目でわからなくて悪かったな」


 見張っていなくても誰かが振動を与えないよう、注意書きを残すつもりらしい。骨折した人のように板を添えていなかろうが、「登るな」と書いてなかろうが、普通の令息令嬢は登らないので、リナのような野生児向けだ。なんとなく申し訳ない。


「ごめんなさい、本当に立派な木だったから、登ってもいいかなって……」

「創立以来の一番古い木だそうだ。お目が高いな」


 彼は笑ってみせた。

 きっと植物が好きな人なのだろうな、と思った。


「じゃあ、私はこれで……」


 去ろうとすれば、「どうして朝から泣いていたんだ?」と彼が訊く。


「ぐっ……」


 突っ込まれたくないことを訊かれてしまった。しかし彼が悪い人間ではないのはもうわかっているので、言わずに去るのも少し心苦しい。


「まあ、言いたくないなら言わなくていいが……誰かに意地悪をされているなら、ここに連れてこい。俺と知り合いだと思われるとクラスで浮くだろうが、泣かされ続けるよりはましだろう」


 彼は真剣な顔でリナを見つめていた。

 そのまっすぐさに、リナも思わず本音をこぼす。


「……いじめられているわけじゃないわ。クソな父親と兄に苦しめられているのよ」

「父と兄?」

「そうよ、『俺が好きなのは君だけだ』とかうちの母に言っておきながら、飽きたらポイ捨てするような奴は、舌をもがれて苦しめばいいのよ」

「なるほど、お母上のために泣いて怒っていたのか……お母上は今は?」


 リナの様子からして、あまり良い状況ではないと察したのだろう。


「三日前に亡くなったわ」

「…………そうか。それはつらいな」


 それから彼は、死者を悼む祈りの言葉を言ってくれた。綺麗な動作で、清廉な声だった。リナの涙がまた溢れそうになる。


 ――母の葬儀に行けなかった。


 母は父の愛人で、子どもができて捨てられてからは母の故郷で祖父母も含めて静かに暮らしていた。そして父の正妻が数ヶ月前に亡くなると、愛人だった母のことを思い出したらしい父は連絡を取ってきた。

 リナだけは魔法の素養があるといって先月から侯爵家に迎えられたが、病気に侵されて痩せ細った母は、もう父の目には魅力的には映らなかったのだろう。治療に必要な金だけは送ると父は約束したが――母はリナが思うよりも重症だったらしい。リナを侯爵家に託せたことで緊張の糸が切れたのか、あっという間に亡くなってしまった。


 まだ猶予があると思っていた。これから侯爵家で稼いで、母を王都に迎えて、楽をさせてあげたいと思っていた矢先だった。最期の瞬間にそばにいられなかったことも、そして葬儀にすら行かせてもらえない不自由な身も、葬儀に行きもしない父にも、すべてに腹が立っている。

 それに――


「……母の形見が、壊れてしまったの」


 今朝、父に葬儀に一緒に行こうと言った。母の故郷へ行こう、と。そしてこれを埋めたいのだと、母の形見となった手鏡を父に見せていた。通りがかった異母兄に「邪魔だ」と突き飛ばされて割れてしまった。


「どいつもこいつも、大嫌い……父も兄も、いつか泣かしてやるわ。もっと防御魔法を極めていたら私は転ばなくて、手鏡だって守れたのに……兄の方が魔力で上回っていたせいだわ。兄を地上の果てまで弾き飛ばしてやれればよかったのに」

「……そうか」


 彼は重苦しい表情で頷いたあと、「その手鏡は今持っているか?」と訊いた。


「ええ、持っているけど……」


 大切に巾着袋に入れて鞄にしまっていたそれを、リナはそっと取り出した。

 楕円の鏡面を包むように木枠の彫模様が美しい品だ。長く大切にしてきた柔らかさが木の表面にあり、どう触っても手に馴染む。母が好んでいたラベンダーのサシェとよく一緒に持ち歩いていたので、ほのかに花の香りもする。その全部が大好きで、母と離れてからの大切なお守りだった。それが今は大きく半分以上が割れてしまっている。


 彼はそれを見ると、懐からなにか宝石のようなものを出した。そして手鏡を欠片ごと守るように手で持ち、その宝石と合わせ、短く呪文を唱える。光が溢れ出して――修復魔法を使ったのだとわかった。それも、かなり高位の魔法だ。


「……え」


 手鏡は元の状態に戻っていた。母が愛おしんでいた傷はそのままに。昨日までの手鏡そのものだった。


「これって……」


 目を見開いているリナに、彼は「余計なことかもしれないが」と呟いた。


「いずれは君でも直せるようになっていたとは思う。修復魔法は上級ではあるが無属性の魔法だ。適性関係なく、努力と媒体次第でどうにかなる」

「媒体……」


 彼が取り出して使用した魔石らしきものは光を失っている。そして、脆く崩れて塵になった。


「! こ、壊れちゃった……!」

「魔石は用が済めば消える」

「ど、どうしましょう」

「これは消耗品だ。使いたいときのために持ち歩いているんだぞ」


 だが魔石というのは、かなり高価なはずだ。

 とてもじゃないが、リナが自力ですぐ用意できたようなものではない。


「な、何年か待ってもらえれば、自力で稼いでお支払いを……」

「急に改まるな」

 彼は苦笑して、うろたえているリナを見ている。


「でも、何か――初対面なのに、ここまでしてもらうなんて」

「初対面かどうかは関係ないぞ。……君だって、この木を今日初めて知ったのに、労わってくれただろう?」

「そんなこと、当然だもの……」

 リナの言葉に、彼は優しく目元をゆるめる。


「それならば、俺が今日知ったばかりの君を労わるのだって、何の問題もないだろう」

 そう言って、彼は静かに微笑んでいた。


 ――なんて、素敵な人なのだろう。


 リナの心は温かくなった。

 労る、慈しむ、優しさ――最近はそういったものとは無縁で、父や兄のことで心を乱されていた。

 ただ今ここにいる自分だけを見て、優しさを分けてもらえるのはなんと幸せなことなのだろう。

 そうやって、みんな優しいままに生きていけたらいいのに。

 また涙が止まらなくなりそうだった。

 ……そして、この日、リナは恋に落ちたのだと思う。


 そのあと、彼はリナに気遣わせまいとすぐに立ち去った。

 温室に用があるのだと言って向かっていき、姿が見えなくなる頃、管理人らしき老爺と出くわしたらしく、「ああ、今日も手伝ってくれるのかい、エド様」と言われているのが遠くで聞こえた。


「……エド様」


 名前を知った。

 お礼をしよう、明日も会えるだろうか、とリナは思った。




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