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安芸の柊、春近し【架空戦国記】  作者: 三郎
安芸の柊、春近し
9/22

春を待つ(二)

三、

「んぅ……」

 背中越しに松寿の息遣いが聞こえてくる。どうやら意識を取り戻したようだ。

「っとと」

 不意に平衡感覚を失って、軽く前につんのめる。彼女が起き上がった拍子に体勢が崩れてしまったのだ。

 経友は松寿がずり落ちないよう、軽く身体を揺すって再び彼女を背負い直した。

 その振動に目が覚めたのか、松寿の寝ぼけ声がしっかりとしたものへと変わっていく。

「お、気がついたか」

「千……ちゃん……?」

 松寿の声に、経友はちらりと後ろを振り向いた。

 何が何だか分からないといった顔をしている。 

 普段ならば経友などよりずっと判断力に長けている彼女であったが、今回ばかりはどうにも上手く状況が飲み込めないらしい。

 大きく見開かれた瞳は驚きでいっぱいに満たされており、理解などという単語はどこか遠くへ飛び去ってしまったようであった。

 そんな彼女の様子を見て、経友の頬はひとりでに緩んでいく。

 まるで幽霊にでも出くわしたような松寿の表情が、おかしくて仕方がない。

 自分は幽霊でもないし、幻でもない。現実にこうしてお前を助けに来たんだ――そう言った思いを込めて、経友は短く返事をした。

「あいよ」

 驚愕は、すぐに歓喜によって塗り替えられていった。

「あっ……ああっ……千ちゃん……千ちゃんっ……千ちゃんッ!」

 何度も経友の名が呼ばれ、彼女の細い両腕が背中にひっしと抱きついてくる。

「ちょっ……痛ぇって! こちとら怪我人なんだっ!」

「え、あっ……」

 全身を走る鈍い痛みに経友が思わず顔を歪めると、それに気づいた松寿の顔色が瞬く間に青ざめていった。

 彼女の痛ましげな視線が、傷だらけになった身体のあちらこちらに飛び火していく。

「ご、ごめんっ……すぐに降りるね」

 すぐに状況を察した彼女は、すぐに経友の背から降りようとした。

 辛そうに胸をぎゅっと押さえながら、心痛でどうにかなりそうなくらい顔をくしゃくしゃにしている。

 経友は、そうした彼女の優しさに今までの自分の頑張りが全て報われたような満足感を覚えた。

「……いや、良いよ。お前だってすぐには動けないだろうしな」

 慌てる松寿に動かないよう言い聞かせ、すぐに経友は前に向き直って話を切り上げた。

「でもっ……」

「良いから」

 尚ももぞもぞと抵抗する彼女に強い口調で返事をする。

 彼女は不満げな声を上げながら、不承不承といった具合ではあったが、それでも居心地悪そうに経友の背中におさまってくれた。

(案外すんなりと受け入れてもらえたな)

 経友はほっと息をついて安堵の表情を浮かべる。

 松寿は元々感情移入しやすい性分だ。

 満身創痍の経友を見て、静かに身を預けてくれるとはとても思えなかった。

(いつまでも駄々をこねられたらと心配していたんだけどな。もしかしたら、思ったよりも疲労が激しいのか?)

 不安を隠せずに、後ろをちらりと覗き見る。

 何せ、彼女は洞穴の中に数日間も縛られた状態で押し込められていたのだ。

 果たして年端もいかない少女が、そんな状態に陥って元気でいられるものだろうか。

 正直、まともに動ける状態であるとは思えなかった。

「……動けるようになったら、すぐにでも降りるからね」

 経友の視界の片隅で、松寿は口をきゅっと結んで不貞腐れていた。

 ……どうやら大事無いようだ。

 経友は内心、彼女の強情ぶりに少し呆れながらも、幼馴染の変わりない様子に改めてほっと胸を撫で下ろした。

 改めて前に向き直る。

 ようやく自分の手の届くところにまで取り戻すことのできた彼女は、概ね五体満足といっていいようであった。

 彼女の身体にはさしたる外傷も見受けられず、特に乱暴をされた形跡も見当たらない。

 一時はどうなることかと不安に押し潰されそうであっただけに、これには経友も(つか)えが外れたように気が楽になった。

 こうして再び彼女の顔を見られた幸運に、深く感謝せずにはいられない。

 ……とは言え、口からついて出てくる言葉は、経友の心情とは多少食い違ったものであった。

「全く鈍臭いから捕まるんだからな。余計な気を回す前に、お前もちょっとは気をつけろよっ」

 と、口を尖らせて不満げに毒づく。

「あぅ……」

 しゅんとした声を背に受ける。振り返らずとも松寿の焦りを容易に感じ取ることができた。

(うん、これだな。からかったり、たまに助けてやったり……それで、松寿がころころと表情を変えていく。俺たちの関係はやっぱりこうでなくちゃ……)

 と、思わずほくそ笑む。

 自分が命を賭けて取り戻そうとしたものは、十分にその価値があるのだと言いきれる瞬間であった。

「ぐすっ……」

 どんな返しを投げかけてくれるのかと期待していたのだが、その期待に反して、松寿からの返事はなかった。

 平常ならば、このまま馴染みのやりとりが交わされるはずであっただけに、経友は当てが外れてうろたえてしまう。

「あっ」

 急に経友の中にむくむくと罪悪感が芽生え始めた。

 今まで元の鞘に収まった居心地というものを堪能していたいという衝動の赴くままに言葉を投げかけていたが、よくよく考えれば今回は別に彼女の手落ちなど何処にもありはしない。

 弱り目にたたり目な仕打ちを受けて、いつも通りに返せという方が無茶であったのだ。

「……まあ、もう済んだことだからいいんだけどなっ」

 慌てて経友は言葉を補おうとする。

 素直にごめんと言いたいが、その一言が上手く表に出てきてくれない。

 気まずい空気が、二人の間を流れた。

 自然と口が重くなり、梟の鳴き声と、草を踏みしめる音だけが延々と辺りをこだまする。

 何度も謝罪の言葉を口に出そうとするも、喉の奥につかえては押し戻されてしまう。

 そうして、ようやく口からついて出た謝罪の言葉は、ひどく不恰好なものであった。

「ご……ごめん」

 経友の言葉に、松寿は小さく呟いた。

「ううん」

 再び沈黙が訪れる。

 経友は妙に落ち着かない様子で、松寿から話題が持ちかけられるのを待ち続けた。



「でも……やっぱり来てくれたんだね」

「ん、驚いたか?」

 沈黙が訪れてから、半刻ほど経っただろうか。

 ようやく差し伸べられた救いの手に、経友は嬉々として後ろを振り返った。

「ううん」

 松寿はにっこりと微笑むと、意外なことに嬉しそうな表情でかぶりを振った。

 彼女のまっすぐな瞳が経友に向けられる。

 それは、まるで経友の心を射抜く矢文のように雄弁に感じられた。

「全然驚かないよ。だって、絶対来てくれるって思ってた」

 松寿はそう答えると、そのまま経友の背中にこつんと額をくっつけてきた。

 幼い頃から続いている、いつもどおりの彼女の仕草だ。

 彼女の気持ちが額を通じて伝わってくるような錯覚を覚え、経友は決まり悪そうに唇を噛んだ。

 ぷいと顔を前に向けて不機嫌をあらわにして俯く。

 彼女からひしひしと伝わってくる感情は、とてもひたむきな親愛の情で占められていた。

 無心の信頼は武門の誉れ。いつもならば、鼻を高くして誇っているところであったが、今回ばかりは正直、彼女の信頼を素直に受け取ることはできない。

「お前を助けることができたのは、たまたま運がよかっただけだよ」

 豊国たちが小倉山へ向かって傷ついた経友を運んでくれなければ、今頃経友は命を散らしていたことだろう。

 山中に落ちていた椿の髪留めを見つけることができなければ、こうして松寿との再会は望めなかったに違いない。

 これらは万に一つの幸運を拾っただけに過ぎない。

 いわば、いくつもの奇跡が重なった上での成功だと言えよう。

 これを自身の功績であると胸を張れるほど、経友は傲慢ではなかった。

「違うよ。千ちゃんじゃなきゃ……千ちゃんだからこそ、私の落とした目印に気づいてくれると思ってた。私、自信あったんだ」

「目印?」

 経友が怪訝そうな表情を浮かべると、松寿はまるで悪戯が成功した子供のように口元をほころばせた。

「うん、千ちゃんがくれたあの髪留めだよ」

「へ……あれ松寿がやったのかッ?」

 彼女の言葉に経友は思わず言葉を失った。

 松寿の言葉を額面どおりに受け取るならば、救援を呼ぶための狼煙として、白い椿の髪留めを山頂の草むらに敢えて潜ませたことになる。

 普通に考えれば、森の中で花を目印にするなどあまりに無謀な試みだ。見つけられるわけがない。

 だから、経友は反射的に彼女の言葉を否定しようとしたが、

「あんな目印、見つけられるわけが……」

 反論の呟きはかすれるように小さくなっていき、最後まで続けられることは無かった。

 よくよく考えてみれば、現実問題として経友は髪留めを見つけることができたのだ。

 頭の大部分ではありえないと考えつつも、経友には彼女の言葉をただの偶然と切り捨てることはできなかった。

「何年も一緒に遊んできたんだもの。千ちゃんが探しものをする時に、何処を見るか……どんな風に探すか……そんなことも分からないようじゃ、幼馴染とは言えないよ」

「松寿……」

「このままだと二度と会えなくなっちゃうかも知れないもの。一生懸命考えたんだよ? 四郎君たちに見つからないように、それでいて千ちゃんに私のことを見つけてもらうためには、何処にどういった目印を置けば良いのかって……」

 彼女の語りに熱が篭り、徐々に声が大きくなっていく。

 気がつけば、彼女の身体は小刻みに震えていた。 

「だから絶対に……絶対に。絶対に見つけてくれるって思ってたッ……」

 と、自分に言い聞かせるように何度も繰り返す。

 松寿の眼からは、はらはらと涙がこぼれ出していた。

 一度決壊した衝動は一向に止まる気配を見せず、

「でも、でもっ……怖かった……怖かったの……本当に怖かったのッ……!」

 あふれ出る涙を拭いながら、松寿は嗚咽を漏らした。

「そっか」

 経友は合点がいったように一人頷く。

 目の前の闇を払うために、必死で考え、考え抜いて最善を尽くしても、拭いきれぬ不安はどうしようもない。

 今、彼女からあふれ出している感情は、まさしく経友自身も感じていたものであった。

「じゃあ、偶然じゃないな」

 自然と語り口が優しくなっていくのを自覚する。

 経友の一言に、松寿の震えがぴたりと止まった。

 そうなのだ。

 闇の中から抜け出そうと懸命に足掻いているのは一人だけではなかった。

 主のいない中、何とか時間を稼ごうとした式部たち。

 命を賭けて松寿を探し続けた経友。

 ……そして、松寿自身の努力。

 皆が、眼前に迫り来る悲しい運命に抗おうと必死に奮闘してきた。

 今回の結果は、そうしたいくつもの努力の上に成り立っている。

 ならば、これを偶然と呼べるはずはなかった。

「皆頑張ったんだ。当然の結果って奴だな」

「千ちゃん……」

「帰ったら、感状でもくれよ。助けてくれてありがとうって。基爺たちに見せびらかさなきゃな」

 と、軽口を叩いて小さく笑う。

 経友は背中に温もりを感じながら、彼女が落ち着くまで黙々と歩き続けた。



「……こうしていると、前の時を思い出すね」

「あの時かぁ」

 松寿の問いかけに、経友は記憶を思い起こすように夜空を見上げた。

 前の時、とは井上某に城を追い出された時のことを指しているのだろう。

 あの日、いつものように猿掛へ遊びに出向いた経友は、松寿が城を追い出されたと聞いて飛び上がるほどに驚いた。

 城代をしている井上に仔細を訊ねても、『無体をなさったため、折檻にござる』と取り合ってくれない。

 業を煮やした経友は、ひたすらに領内を駆けずり回って松寿を探したのであった。

「あの時はお杉小母(おば)さんには随分と世話になったなぁ」

「ふふ、小母さんなんて言ってるの聞かれたら、怒られちゃうよ」

 松寿が愉快そうに身体を揺する。

 お杉小母さんとは、松寿の父である毛利弘元の側室であった女性のことだ。

 気風(きっぷ)の良い健康的な美人である。

 若くして夫を亡くしたため、言い寄る男も多かったそうだが、彼女は夫に操を立ててか、決して再婚しようとしなかった。

 おかげで今でも未亡人を続けており、日進月歩で増えていく小じわと格闘する日々を送っている。

 幼い頃に両親を失った松寿にとって、何かと世話を焼きたがるお杉は、まさに母親代わりの存在であった。

 件の失踪騒ぎの時も、経友に的確な助言をして導いてくれたのは彼女だったのである。

「あの時も千ちゃんが見つけてくれたよね」

「おいおい、あれは全面的に小母さんの手柄だ。俺がどうこうしたわけじゃないぞ」

 経友が片眉を持ち上げて否定すると、松寿はこくりと一度だけ頷いた。

 そして、急に改まったかと思えば、透き通った声でぽつりぽつりと呟き始める。

「勿論、御養母様への感謝を忘れたわけじゃないよ? その時のことだけじゃなく、色んな御恩をあの人からは受けている。一生かかっても返せないくらいの……。でも、あの時……私は千ちゃんが来てくれたことがすっごく嬉しかったの。ああ、この人は私が困っている時はいつだって助けに来てくれるんだなって……そう思ったんだ」

 彼女の言葉にはひたむきな想いが一心に込められていた。

 幼い頃より向けられてきた『親愛の情』とは明確に違う何かを感じ、経友は若干の戸惑いを覚え、振り返る。

 二人の視線が交錯した。

 その瞬間、経友は彼女と自分の関係が以前と異なるものへと変化したことを悟る。

 それが何なのかは分からない。だが、無性に恥ずかしく思えた。

「いっ、いきなり真面目な表情すんなよっ」

 慌てて顔を背ける。

 感情が昂ぶり、耳まで真っ赤になっていくのを抑えられない。

 松寿が無言を保ったまま、何の反応も返してこないことも相まって、気まずいことこの上なかった。

 何時にも増して柊の香りが強く鼻をついてくる。

 近い。

 改めて自分と松寿が肌の触れ合う距離にいることを自覚させられた。

(勘弁してくれ……こういうのは苦手なんだ。何か他に話題は……)

 全身で照れくささを表現しながら、経友はこの居たたまれない空気を何とかしようと頭を働かせる。

 ようやく思いついた打開策は、かねてから経友が疑問に思っていたものであった。

「あっ、そ、そうだ。何で柊なんだ?」

「え?」

 きょとんとする松寿。

 突然のことに、その意図するところが読めないようだ。

 経友は、自身の中にある疑問を上手く形にすることができず、焦れったそうに頭を掻いた。

「だから……それだよ。その香だよ。柊の。いつもそれじゃないか」

「良い匂いだと思うからなんだけれども……千ちゃんは嫌い?」

 と、松寿に不思議そうに問い返され、経友は語る言葉を失った。

 経友自身、柊の香りが嫌いなわけではない。むしろ、良い匂いだと思う。

 松寿にも良く似合っていると思う。

 いや、幼い頃から嗅ぎ続けてきたので、松寿以外からこの匂いがするなど考えられないというべきか。

「嫌いとかそういうんじゃないんだよな。良い匂いだとは思う。そうじゃなくて……何というか……」

 四苦八苦しながら、更に考える。

 良く似合っているのは確かだ。むしろ、良く似合っているからこそ、何かが引っかかった。

 幼い頃から彼女が好むこの甘い香りは、彼女に似合うからこそ、何か気に入らなかったのだ。

 ――そこまで考え、ようやく経友の中にあるあやふやな疑問が一つの形にまとまっていった。

「そうだ。それ、寂しくないか?」

「寂しい……?」

 首を傾げながら鸚鵡返しに呟く松寿に対して、経友はこくりと頷き、更に続ける。

「ああ。柊って冬の花だろ。それに棘々しくて迂闊に触れたものじゃない。それって、すごく寂しく感じないか?」

 柊の名は、傷が(ひいら)ぐこと――つまり傷が痛むことにちなんでつけられたものだ。

 『痛み』が名前の由来などという、とても悲しい花の香りを、彼女が好んでいること自体あまり好きになれなかった。

 幼い頃から肉親との離別を経験し、家中においても、あまり恵まれた立場にいるとはいえなかった松寿。

 そんな彼女が『痛み』の香りを身に纏うなど、あんまりな話ではないか。

「そっか」

 経友の問いかけをしばし反芻した後、松寿はにこっと微笑んだ。

「でも、私の名前である松寿も冬の名前だよ?」

「あっ、そういやそうだな……いやっ、うーん、そうじゃなくて」

 『冬』が蛇足であったのかもしれない。そうではなくて、『痛み』が思い起こされてしまうことが気に入らないのだ。

 経友が反論しようとすると、それを遮るように今度は逆に松寿から質問を受けた。

「千ちゃんは『歳寒の三友』って知ってる?」

「……? ああ、知ってるよ。松竹梅のことだろ?」

 唐国では松竹梅を『歳寒の三友』と呼んでいると、以前基爺に聞いたことがあった。

 だが、それと柊は何の関係もない。

 経友は彼女の意図が良く分からず、何だかはぐらかされたような気がして眉間のしわを深めた。

「松はね。寒さの中でも決して色あせたりせずに、じっと春を待つんだよ」

「春を?」

 静かに松寿が是と頷く。

「冬が過ぎれば春が来る。どんなに厳しい寒さでも、頑張って耐え忍べば……春は絶対にやって来るんだよ」

 耐えていれば、春が来る。

 彼女のその一言は、意外なほど経友の心を大きく揺さぶった。

 松寿は自分の境遇を憂えていない。むしろ素直に受け入れた上で、いつか自分にも春が訪れるまで必死に耐え忍んでいる――そう思えたのだ。

 もし自分が彼女の立場にあったとしても、同じような態度を取れるだろうか。

 恐らく無理だろう。自身の境遇を恨み、何処かで必ず歪んでしまうに違いない。

 このように考えられるのは、彼女自身の持つ強さの賜物なのだ。 

「強いんだな」

 無意識に思考が言葉になって出ていった。

 それは松寿に向けられた言葉であったのだが、

「うん、強いよね。だから、私は冬に生きる全ての物が大好きなんだ」

 彼女の発する答えは何処かずれていて、経友は拍子抜けする羽目になった。

(まあ、これが松寿だよな)

 と、経友は口をあんぐりとさせて呆れ返りながらも、驚きと納得を同居させたような表情で笑顔を浮かべる。

 つられて彼女も、朗らかに微笑んだ。

 口惜しい話ではあるが、彼女の笑顔は息を呑むほどに可愛らしかった。

 先ほどの言葉が誰に向けたものであるかなど、どうでもいいと思えるようになるほどに。

「春かあ」

 夜空を見上げて、ぽつりと呟く。

 木々の隙間から見え隠れする星たちは、己が存在を誇示せんとばかりに瞬いていた。

 戦乱の世の中には似つかわしくないほど綺麗な星空であった。

 戦国の世。親兄弟ですら信じられない、血で血を洗う下克上の時代。

 仮に四郎との争いや、尼子の介入を退けることができたとしても、彼女の苦境が終ることはないだろう。

 乱世の災禍は、これからも彼女の運命を理不尽に弄んでいくに違いあるまい。

 ならば、彼女にとっての春はいつ訪れるのか。

 彼女が何事にも怯えずに心安らかにいられる日は、果たしてやってくるのか。

 それを考えずにはいられなかった。

 心の奥底で、小さくも根強い怒りの灯火がぽうっと燃え上がる。

 自然と歩みが乱雑なものへと変わっていった。

 そうした経友の心中が伝わったのだろうか。

 彼女は一瞬訝しげな表情をした後、ぼそりと小さく呟いた。

「春は……もう傍にいてくれてるよ……?」

「へっ?」

 思わず聞き返してしまう。

 顔を真っ赤に紅潮させた彼女は、しどろもどろになりながら更に言葉を搾り出していく。

「だ、だから……せ、千ちゃんが……春なの……」

 彼女の声は消え入りそうなほど小さなものであったが、その一言一句を経友は生涯忘れることはないだろう。

『松寿にとっての春は自分である』

 今までの疲労も、怪我の痛みすら何処かへと消え失せてしまった心地がした。

 まるで自分の身体が、まったく別のものへと生まれ変わったような錯覚を覚える。

「せ、千ちゃん……?」

 気がつくと、経友は悲しいわけでもないのに涙を流していた。

 彼女を取り巻く乱世の闇は掬いきれぬほどに深く、払い切れぬほどに分厚い。

 それを斬り開き、辺りを光明で照らすなど、凡人にでき得る所業ではない。

 英雄たる基爺ならできたのかもしれない。

 太陽の香りのする祖父の笑顔を思い出し、自分と比較してみる。

 英雄ですらない自分に、果たして彼女の春となれる資格があるのだろうか。

(いや、違うな)

 できるできないの話ではない。

 彼女が春だと言ってくれた以上、自分はその役割を全うせねばならないのだ。

(第一……もうやってきている)

 内気な松寿が尼子の縁談を断る際に、自分に何と問いかけたか。

 何故松寿は、元綱との家督争いを激化させてまで、『元就』という名を得て当主として生きることを決めたのか。

 彼女の判断を支える根本の部分に、経友の存在はあったのだ。

 そうした事実から目をそむけるほど、自分は無責任な男ではない。

「俺は春なんだな」

 確認するように、何度も何度も繰り返す。

 言葉を発するたびに、経友の身体に活力が宿っていくようであった。

「ど、どうしたの……? 千ちゃん」

 松寿が恐る恐る話しかけてくる。

 自分の言葉で、経友がこれほどの反応を見せるとは思っても見なかったのだろう。

 何と声をかけてよいものか決めかねている風であった。

「何でもねぇよ」

 晴れやかな顔で経友は答える。

 何でもない。そう、別に何が変わるというわけでもないのだ。

 元から、経友は彼女が困った時にはいつだって全力で助けようとしてきた。

 それは『幼馴染』としての義務感で……それが『松寿の春』としての使命感へと変わるだけなのだ。

 ――だから、自分の中に生まれ出でた大きな『道』について、殊更に騒ぎ立てる気も起こらなかった。

「そうだな、強いて言うなら……ちょっと、お前みたいに名前でも変えてみようかなって気分になっただけだ」


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