001 東京のダンジョンは散歩コース
通帳の残高を見た瞬間、俺の視界が真っ暗になった。
数字が、足りない。
圧倒的に足りない。
長野の山奥から上京してきて三日目。
東京という街の物価は、俺の想定をはるかに超えていた。
家賃七万、光熱費、食費。
スーパーに並ぶ肉の値段を見たときは、何かの冗談かと思ったほどだ。
ここ暁区は物価が安いと聞いていたが、全くのデタラメである。
「あと数日で高校の入学式が始まるってのにどうするんだよ!?」
このままでは餓死する。
いや、その前に家賃滞納でアパートを追い出される。
長野の実家に強制送還される未来しか見えない。
「とにかく稼がないとな……」
俺こと朝比奈迅は、ボサボサの頭をかきながらアパートを出た。
着ているのは年季の入ったボロボロのジャージ。
足元は履き潰したスニーカー。
おしゃれなんて気にする余裕はない。
俺には今、現金が必要なのだ。
「大丈夫、当てならある。」
自分にそう言い聞かせて、俺は歩き出した。
◇
「ここだな」
やってきたのは、駅前にある巨大な建造物だ。
その中には、魔物がひしめくダンジョンへ行くためのゲートがある。
魔物を狩る者――冒険者。
それこそが、俺の金策手段である。
冒険者は若者に最も人気のある職業だ。
理由は稼げるからにほかならない。
魔物を倒すことで得られる「魔石」がお金になる。
高エネルギー資源として高値で取引されているのだ。
もちろん、魔物と戦うのだから危険もつきまとう。
それでもベーリング海でカニ漁をするのに比べたらはるかにマシだ。
そのうえ、うまくいけばあちらとは比較にならないほど稼げる。
一攫千金を夢見て、冒険者になるのは現代社会では当たり前になっていた。
当然、俺も例外ではない。
高校入学に合わせて、冒険者登録だけは済ませておいた。
生活費を稼ぐには、これしか手がない。
俺は黒い楕円形のダンジョンゲートを抜けた。
その瞬間、視界ががらりと変わる。
ダンジョンの第一層へ足を踏み入れたのだ。
そこは、洞窟のような薄暗い空間だった。
周囲には他の冒険者がいる。
金属製の鎧をまとっていたり、高そうな杖を持っていたり。
いかにもな連中が、緊張した面持ちで歩いている。
俺のようなジャージ姿の人間は一人もいない。
「さて、まずは手頃な獲物を……」
そう思った矢先、影から何かが飛び出してきた。
ゴブリンだ。
緑色の肌に、錆びたナイフを持った小鬼。
一般的には初心者が苦戦する相手らしい。
そいつが奇声を上げて飛びかかってくる。
「……ん?」
俺は思わず首を傾げた。
遅い。
あまりにも遅すぎる。
止まっているのかと思った。
それに、殺気がない。
(地元の山で猪に追いかけられたときのほうが、よほど命の危険を感じたぞ)
俺はゴブリンを迎え撃つことにした。
「危ないっ!」
後ろから誰かの悲鳴が聞こえたが、気にする必要もなかった。
俺はあくびを噛み殺しながら、目の前のゴブリンの額を人差し指で軽く弾いた。
デコピンだ。
パァンッ!
炸裂音が響き、ゴブリンの上半身が消し飛んだ。
あとに残ったのは、小さな紫色の石ころ――魔石――だけ。
「……え?」
後ろで誰かが絶句している気配がする。
俺は魔石を拾い上げ、しげしげと眺めた。
「脆いな……東京の魔物は骨粗しょう症なのか?」
手加減したつもりだったのに、粉々になってしまった。
これでは、素材としての皮や爪が回収できない。
だが、魔石だけでも数千円にはなるはずだ。
俺は魔石をポケットに放り込み、さらに奥へと進むことにした。
どうやらここは、俺が生まれ育った長野の秘境に比べれば、ただの散歩コースに過ぎないらしい。
◇
しばらく進むと、奥から派手な爆発音と悲鳴が聞こえてきた。
野次馬根性はないが、獲物がいるなら話は別だ。
音のする方へ向かうと、開けた広場に出た。
そこでは、一人の美少女が巨大な狼に追い詰められていた。
フリルのついた可愛らしい軽装鎧を身にまとい、なんとも可憐である。
ピンクゴールドのツインテールもよく似合っている。
小柄だが、鎧の上からでも分かるほど胸の発育が良いのも素晴らしい。
巨乳は正義だ。
彼女の周囲には、何台もの小型ドローンカメラが浮遊していた。
「きゃあああ! ちょっと、タンマ! 回復魔法のクールタイム中だし!」
少女が涙目で叫ぶ。
その目の前には、体長三メートルはある黒い狼。
名前負けのザコとして名高い「キラーウルフ」だ。
鋭い牙を剥き出しにし、少女に飛びかかろうとしている。
少女はへたり込み、恐怖で顔を引きつらせていた。
「初心者か。やれやれ、見ていられんな」
俺はため息をついた。
見殺しにするほど薄情ではない。
それに、あの狼の毛皮は高く売れそうだ。
東京では何でもお金になる――そう、故郷で聞いてきた常識だ。
俺はキラーウルフと少女の間に割って入った。
「グルルルルッ!」
キラーウルフが俺を新たな獲物と認識し、唸り声を上げる。
その殺気は、近所の駄犬が餌をねだるときと大差ない。
「よーしよし、おすわり」
俺は優しく諭した。
しかし、身の程を知らないばかな狼は飛びかかってきた。
「ダメだろ、人間を襲ったら」
俺は飛びかかってきたキラーウルフの鼻面を平手で叩いた。
キラーウルフの巨躯がコマのように回転しながら吹き飛ぶ。
そのまま岩壁に激突し、ドサリと崩れ落ちる。
ピクリとも動かない。
絶命していた。
「あ……」
またやってしまった。
しつけのつもりだったが、少し力が強すぎた。
(毛皮に傷をつけないように手加減したはずなのに……)
東京の魔物がこれほど脆いとは思わなかった。
まるで自分が超人にでもなったかのような気分だ。
(まあ、いいか。何事も最初からうまくいくものではないよな)
俺は狼の死体に近づき、魔石を回収した。
なかなかの大きさだ。
これなら今夜は豚肉くらいは買えるかもしれない。
「あ、あの……!」
背後から震える声がした。
振り返ると、金髪の少女が呆然とした表情で俺を見上げている。
浮遊するカメラが、俺の顔をアップで捉えようと寄ってきた。
「撮影中か? 邪魔して悪かったな」
俺はカメラを手で払いのけ、少女に背を向けた。
面倒事には巻き込まれたくない。
俺の目的はあくまで生活費を稼ぐことだ。
少女が何か言いたげに口を開いたり閉じたりしていたのを無視する。
俺はジャージのポケットに手を突っ込んでその場を立ち去った。
――このときの俺は、まだ知らなかった。
その様子が全世界にライブ配信されていることを。
そして、俺の顔が数万人の視聴者に晒されていたことを。
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