鬼"が"花嫁~国防結界術師の愛し愛され異種婚姻譚~
デッケェ女は好きですか。作者は大好きです。
橘家は、この国が誇る三大術師家の内の一つであり、国防にも関わる結界術を専門とする一族である。
その歴史は古く、この国の始まったその時から皇家に仕え続けており、同時にこの国を巨大な結界で包み、守護し続けているのだ。
さて、そんな橘家であるが、文明開化華やかなるこの現代においても他の二つの術師家と同様に、とある古い慣習を守り続けている。それは――
「不束者と称する気はない。役立つ自覚がある故、末永くよろしく頼むぞ、旦那様」
見上げた勝ち気な笑顔は六尺を少し超える高さにあり、更にその上に二本の角。紅い髪のその女は、我が国の友好的人外種の一つ、鬼族の姫であった。
「あぁ、よろしく頼む……」
そして目の前に壁のような背の高さでどーんと立つ鬼の姫君をちょっとしおしおしながら見上げているのは橘家の次期当主である。
三大術師家が守る古い慣習。それは、年代を重ねるごとに自然と弱まっていく術師としての力を保ち続けるため、五代ごと友好的人外種と婚姻を結ぶ、というものであった。
次代の橘家はちょうどその時期。そうして人外種から花嫁を迎えることとなったこの青年がこの橘佐名彦である。
――――――
妻となったひとは、身の丈六尺六寸にばきばきの筋肉という、大層立派な肉体を持つ鬼族の女性であった。
佐名彦の目からすると「筋骨隆々」と例えて差し支えない恵体であるが、鬼族の中では姫君らしく華奢な方であり、特に力が強い(この場合の意味は文字通り「力が強い」である)方でもないらしい。
鬼族怖い、と佐名彦は密かに震えた。
紅花の名に相応しく、燃えるような紅い髪をしており、瞳は鬼族の中でも力の強い(この場合の意味は「霊的能力が強い」である)者に稀に発現するという深く鮮やかな青色だ。
そして、額から天へ向けてスッと伸び上がる二本の角。人間とほとんど同じ姿をしている鬼族の人外的特徴の一つだ。
妻となったひとは、そこに指輪のような金の環飾りを幾つか嵌めており、なるほど鬼族にとってはそういう部位なのだなぁと思うなどした佐名彦である。
「此度の婚姻は双方の利益のための婚姻だ」
紅花は初夜の床で真剣な顔をしてそう言った。
その内容には同意だった上、ちょっとびっくりするくらい大きな乳が目の前にどーんとあって途方に暮れていた佐名彦は、ここぞとばかりにその話題に乗っかることにした。
慣習としての異種間婚姻は愛のないものになることが多い。そういう話かなぁ、と少し覚悟を決める。佐名彦としては、折角嫁いできてくれたので、希望があるなら極力叶えたい、という気持ちである。それがたとえ「貴方を愛するつもりはない」とかであっても。
身長が違いすぎて、双方座っているのに目の前にあるのは単の袷から溢れんばかりの乳である。人間相手じゃそうお目にかかれない大きさだ。それを見ていると途方に暮れてしまうので、ちゃんと顔を上げて紅花の顔を見上げる。
「そちらは血族の霊力維持のため。こちらは密猟からの守護を継続してもらうため。契約としての側面が強い婚姻と言えよう」
やはり「愛はない」系の話だなぁ、と頷いた彼であったが、続いた言葉に目を見開くことになった。
「だが私は君を愛するつもりだ、旦那様」
「へ」
「君が私を愛してくれなくとも構わない」
ド間抜けに声を裏返してしまった佐名彦の手をそっと掬い上げるようにして握り、紅花は真摯な瞳で含めるように「分かってくれるか」と重ねる。
「私の目を見て話を聞いてくれる君を、私はきっと好きになるだろう。だから、君にも好いてもらえるよう努力すると誓う」
ぐっと近づいた距離に思わず「ひゃわ」と更に間抜けな声が漏れたが、紅花は小さく苦笑し「愛い人だ」と大きな手で佐名彦の頬を撫でた。白い肌は頬の紅潮を全くもって誤魔化せないので、彼は紅花の褐色が羨ましくなるなどした。
いやしかし、これでは男が廃る、と佐名彦は首を振り、生娘のような顔でぷるぷる震えたまま何とか口を開いた。
「ぼ、僕も、歩み寄ろうとしてくれる貴女のことをす、すきに、なるだろうから……貴女が心地好くこの屋敷で暮らせるよう、心から努めるつもりだ」
よもや「好き」すら上手く発声できないとは思わず、もう生娘でいいです、と彼は誰にともなく胸中で白旗を振るなどしたが、紅花はその言葉を喜んでくれた。
「ありがとう、旦那様。君の気遣いを嬉しく思う」
「うん……こちらこそ。それと、佐名彦と呼んでくれると、嬉しい」
そう頷いて、お互いにこにこしながら微笑み合ったところで、佐名彦はそう言えばここが初夜の床であったことを思い出す。目の前でばいーんと構えている乳が再び彼を途方に暮れさせた。
だがすぐに閃く。この「これからゆっくり歩み寄っていこうではないか」という雰囲気からして今宵どうこう、ということはないのではないか、と。
良かった、ひとまずはどうにかなる、と勝手に安堵した佐名彦の視界がぐるりと回った。
「へ??」
「怖がらずともいい。優しくする」
「へ????」
何一つとして「ひとまずはどうにかなる」ではなかったのだった。
――――――
夫となった人は、自分より頭一つ分は小さくて線も細い、全体的に華奢で繊細そうな印象を受ける人間の男だった。
紅花からすると「こんなに細っこくて大丈夫なんだろうか」という感じだが、人間の中では大きい方らしい。
人間って小さい、と紅花は素直に思った。
佐名彦という都の人間らしい雅やかな印象の名の彼は、日の光を浴びたことがないのかと思うほど白い肌に艶やかな黒檀の髪をしており、褐色の肌に鮮やかな髪や瞳の色を持つ鬼族の目には新鮮な色彩だった。
人間の多くは人外種を恐れる。身体能力も霊的能力も桁違いで、人間が敵う要素など数の多さだけだからだ。だから、きっと夫となった人も自分を恐れるだろう、と紅花は思っていた。
だが、彼は細い首を思い切り反らして、潤んだ黒曜石のような瞳で、紅花をじっと見上げるのである。
それで彼女は、あぁ、この人はそういうひとなのだなぁと、婚儀の席で一人、確かに胸を温かくしたのだった。
「紅花、不便はないか。何か、困っていることがあれば言ってくれ」
佐名彦はよく、紅花にそう問いかける。彼女が橘家の屋敷にやって来てから、ほぼ毎日のように彼は心配そうにそう訊ねるのだ。
紅花からすればその気遣いは有り難いが鬼族の女を舐めてもらっては困る。居を移した程度でへばるような柔な生き物ではない。だから毎回「心配ない」「十分だ」と答えている。そうすると佐名彦は柳の眉をへにょ、とハの字にして「そうか」と苦笑するのだ。
橘家は鬼族と長く婚姻による縁を結んでいるため、本家の屋敷は特別仕様であり、鬼族の者が苦労せず暮らせるよう天井がかなり高く作られている。鴨居を角で破壊するような悲劇は今のところ起きていない。
初夜の床でよくよく話し合った通り、二人はきちんと言葉を交わして歩み寄り、分かり合う努力をしている。文化的な違いはお互いを時に驚かせるが、佐名彦は決して鬼族の文化を野蛮と蔑んだりはしない。それだけで十分すぎるほどだ。
それに、紅花の前ではよく生娘のように白い肌をぼわわと赤くしている佐名彦だが、国防を担う橘家の次期当主としてしっかりしているところはしっかりしているのが分かっていた。
何せ、紅花に「汚らわしい人外種が」と吐きかけて着物を汚した女中が次の日には姿を消していたので、紅花が何か言わずとも屋敷のことに目を光らせているのは明白である。守られるのは性に合わないが、そういうところは好ましいな、と思うのだった。
「紅花」
「どうした、佐名彦殿」
「その、こういうものを作らせたのだが……貴女は好きだろうか……」
「む?」
ある日、そんなことを言いながらもじもじと彼女の部屋へやって来た佐名彦が、小さな箱をおずおずと差し出した。開けてみれば青玉の嵌まった金環が鎮座している。
「その、貴女は毎日角の飾りを替えているようだから、その一つに加えてもらえたら嬉しいなと、そんなことを考えて……」
俯きがちにそう続けた佐名彦を、紅花は深青の目を丸くしてまじまじと見つめた。
男と言うのはそういうものに疎いと聞いていたののだ。だが、まさか彼が日々のこんな小さな変化に気づいていたとは。そして、自惚れでなければ、この角環に嵌め込まれた青玉の色はは自分の瞳のそれに良く似ている。
紅花は、佐名彦が数ある青玉の中からこの一粒を選ぶ様を想像した。
「…………っ、愛い」
何だか色々込み上げて地鳴りのように低い声でそう呟いてしまった。
佐名彦が「へ」と声を漏らし、目を丸くして顔を上げる。いかんいかん、と紅花は軽く首を振って笑顔を浮かべた。
「ありがとう、佐名彦殿。君の心遣いがとても嬉しい。早速着けてみてもいいか?」
不安げだった黒曜石がほわわっと柔らかな喜色に染まる。本当に愛い生き物である、何だこれ可愛い、と紅花は噛み締めた。
金環を手に取り右の角に通す。太さを測られた記憶はないが、程好い辺りまで通って丁度良く留まる。金と深い青が自分の紅髪に似合っているのではないだろうか、と後で鏡台を覗くことに決めた。
「どうだ、佐名彦殿。似合うだろうか」
ほわほわ微笑んで紅花を見上げている佐名彦に視線を戻しながら問うと、彼はきゅっと笑みを深めて何度か頷く。鬼族の目からすると最早「幼い」と形容したいまである愛おしさである。
「とても、とても良く似合っているよ。ありがとう、着けてくれて嬉しい」
この人は笑うといっとう幼く見えるのだ。愛らしい、好ましい、そんな柔らかな気持ちが湧いてくる。こうして一つずつ、お互いの好きなところを見つけていけたら良いと、紅花はそう思うのだった。
――――――
紅花と結婚して、初めての冬が来た。
人々が病を得やすいこの季節は結界術師の繁忙期である。邪気が病に変じ、あちこちに入り込むので、あらゆる種類の結界に綻びが生じるのだ。
その中でも公的機関の結界や神域、聖域近くの結界を結び直すにあたって橘家の術師は重宝される。市井の術師はどうしても信用ならない時があるからだ。
さて、そんな結界の中でも特に難易度の高いものに関しては本家の術師が足を運ぶ。
此度の依頼は禁足地の結界の修復だ。一歩間違えば即死の危険な仕事である。本家の術師でも限られた人間にしか対処できない。正直叶うのであれば当主に来てほしい、というのが依頼者側の希望である。
が、そう簡単に橘家当主が他所へ出向くわけにもいかない。と言うことで、当主より自由が利き、当主と同程度の能力を持つ術師として、佐名彦に白羽の矢が立った。
「行ってくるよ。そうかからないはずだから、待っていてくれると嬉しい」
こじんまりとした道具箱を風呂敷に包んで抱え、屋敷の玄関で振り返った佐名彦がそう言いながら柔らかく微笑む。
見送りの使用人たちが控える前に進み出た紅花は「武運を祈る」と言いながら己の右の角に触れ、その指先をそのまま佐名彦の額にそっと当てた。
額に触れている彼女の手の下で、はたはたと不思議そうに目を瞬く彼へ、紅花は「鬼族のまじないだ」と笑って見せる。
「ふふ、そうか。ありがとう、紅花。何だか何でもできるような心地がする」
「無茶はいけないぞ、佐名彦殿。この私が待っているのだから、な」
「うん。分かっている」
そうして、数歩下がった彼女は、慣習に則って「行ってらっしゃいませ」と頭を下げて彼を見送った。
――――――
結界の修復は素早く終わった。
そも、はじめにこの禁足地を結界で覆ったのが橘本家の結界術師であり、その流れで昔から結界の緩む度に橘家の者が修復に呼ばれている場所だ。術の形式も修復方法も、全て手引書にまとめられている。能力さえ足りていれば何の問題もない仕事だ。
「さて、帰ろうか」
と道具をまとめて送迎の車へ軽い足取りで戻ってきた佐名彦であったが、どうも車の様子がおかしいと足を止めた。
いつもなら運転手が「坊ちゃんは無事に戻られるだろうか」と(もう「坊ちゃん」はやめてほしいのだが)車の横で待機しているはずなのに、その姿が見えない。
昔から橘家に仕えている彼は何も言わず職務を離れる人間ではないから、確実に何かが起きた、或いは――起きている。
「……困ったな。彼女に要らぬ心配をかけたくないのだが」
近づいてきた荒っぽい気配に、腕っぷしの方は無力も無力な自覚のある佐名彦は風呂敷包みを傍らに置いてから両手を挙げ「乱暴はやめてほしいなぁ」と念じてみるなどした。
悲しいことにその念は無慈悲な襲撃者には通じず、彼はボカッとやられて意識を失ったのだった。
――――――
佐名彦がボカッとやられた同時刻、屋敷で庭を眺めていた紅花はハッと顔を上げて、突如右の角に降ってきた衝撃の正体を探った。
深く鮮やかな青の瞳が、ぼわ、と青い火のように仄かに光り、瞳孔が針のように細くなる。衝撃の理由はすぐに分かった――佐名彦の身に何かが起きた。
「誰かある!」
紅花は使用人を呼びながら身を翻す。深紅の羽織の裾と華やぐ紅の長髪がその動作を追いかけて靡き、色鮮やかさに欠ける冬の庭に大輪の花が咲いたかのようだった。
彼女の声は良く通るので、すぐに女中頭が飛んできて「どうされましたか若奥様」と些か焦ったように言う。嫁いできてから彼女がこうして使用人を呼びつけたのが初めてなので、すわ問題発生か、と隠しきれない緊張感を漂わせていた。
「佐名彦殿の身に良からぬことが起きた。私が行くのが最も早い故、出かける。良いな」
「は……わ、若旦那様に一体何が……?!」
「詳細までは分からない。ただ、危険があることだけは確かだ」
「あっ、お待ちください、若奥様……!!」
事態を把握しきれないでいる女中頭を置き去りに、足早に自室へと戻った紅花は動きにくい着物を脱ぎ捨てて、行李に仕舞い込んであった装束を引っ張り出した。逞しい筋肉のついた手足の動きを妨げず、派手に暴れても破れも解れもしない鬼族伝統の戦装束である。
「よもや嫁いで早々にこれの出番が来るとはな」
深い紅の着物に映える灰の毛皮の襟飾り。注連縄のような真白の帯をきつく結び、高下駄を履いていざ外へ。門前でようやく追いついた家老が「若奥様!」と紅花を呼ぶ。
「何か。女中頭にも言ったが――」
「はい、承知しております。ですがわたくし共には若奥様をお守りする役目もあるのです。どうか、誰か一人でも構いませんのでお供を」
「気遣いは有り難いが不要だ。だが、そうだな……」
ふむ、と思案するそぶりを見せ、彼女はすぐに「決めた」と頷いた。
「佐名彦殿が怪我をしているのは確実だ。必ず取り戻して戻る故、医師や薬師の手配を頼む」
「それは勿論ですが……!」
「すまんな。私についてこられる人間がいるとは思えぬ故」
にっ、と悪戯っぽく笑って、紅花は両足に力を込めると勢い良く跳躍した――もはや飛翔と言えそうな高さまで。瞬きより短い一瞬に彼女の姿を見失った家老が頭を抱えているのを遥か下方に見遣って呵々と笑う。
「――さぁ、覚悟しておけよ、不届き者め」
青の燐光を宿す鬼の目には、夫の居場所がはっきりと見えていた。
「よもや気休めのまじないがその日に役立つとは思わなかったな……全く、人の世も鬼の世も変わらんな」
森の木々を、山や川の岩を足掛かりに、凄まじい速度で駆ける。その姿は紅の風が吹き抜けるかのようで、彼女の速度に置いてけぼりにされた突風が後から森や山を揺らした。
――――――
――ふっ、と意識が戻る。同時に酷い頭痛に気づいて「乱暴はやめてほしかったのに」と佐名彦は己が意識を失う前のことを正確に思い出した。
辺りは暗く、寒い。だが物置などではなく畳敷きの一室であることが分かった。調度品は無し。場所を特定できるものは見当たらない。
「……はぁ」
吐いた息が暗がりで白く染まる。帰りが遅くなってしまって、紅花は心配しているだろうかと申し訳ない気持ちになった。
何とも情けない――が、敢えて捕まったからには犯人をきちんと特定して帰らねば。
そう、敢えて。佐名彦がここにいるのは自分の意志でもあるのだ。
腕っぷしが無力の極みであろうとも、彼はこの国で三本の指に入る結界術師。暴漢程度、結界に籠城してしまえば後は相手が音を上げるまで待つだけだ。とても暇だけれど。
時期的に、紅花関連の何かかもしれないと考えて捕まることにしたのである。彼女に塁が及ぶ前に、嫌な芽は潰しておきたい。
それと、橘家の次期当主という身には、生きている方が圧倒的に価値があるという自覚があるので、まあそうそう殺されはしないだろうという考えもあった。
もこ、と身を起こす。後ろ手に縛られており不自由なので一度しくじって亀の子のように転がるなどした。恥ずかしい話である。
身を捩ってきちんと座ることができたその直後、薄暗い中で襖がすらりと開いた。亀の子状態を見られることろだった危なかった、と変な安堵をする佐名彦である。
「ご機嫌いかが、佐名彦様」
現れたのは今回の荒事には似合わぬ深窓の令嬢といった雰囲気の乙女だった。手燭の仄かな灯りに、ぼぅと浮かび上がる白皙の美貌は人形じみていてやや不気味だ。
佐名彦は内心首を傾げる。名を呼ばれた。相手は自分を知っているらしい。だが……
「……貴女は誰かな」
暗さも相まって相手が誰なのか佐名彦には全く、そう、まッッッたく分からなかった。
紅花であれば「素直で良い!」と笑ってくれただろうが、生憎相手はそういう系統の女ではなかったらしく、スッと雰囲気を鋭くして「……そうですか」と呟いた。
「わたくしのことを覚えてすらいらっしゃらないのね……まぁ、構いませんわ。これから知っていただければ、それでいいもの」
そう言って相手は楚々とした所作で佐名彦の前まで歩いてきた。明らかに良家の令嬢といった品の良さなので、どこか、会合や何かで会ったことがあるのだろう……佐名彦の記憶に何にも残っていないだけで。
「わたくし、ずっとずっと、佐名彦様のことをお慕いしておりましたの。だと言うのに、運命は佐名彦様に人外種との婚姻を強いて……わたくしとあなた様を引き裂いた……悲劇ですわ」
本当に誰なのだろう、と佐名彦は必死に頭を働かせていた。どうやら長く片想いをされていたようであるが、佐名彦の方はまず相手との出会いが思い出せないのである。
「それでね、わたくしは考えましたの。人外種と婚姻を結ばなければならないのは佐名彦様が橘家の次期当主でいらっしゃるからです。ならば、あなた様が次の当主になれない身になられればあの鬼族の方との婚姻関係は別の方に移るのではないかしらって」
ひとまず相手が誰なのか思い出そうと無駄な努力をするのはやめた。相手がおかしなことを言い始めている。佐名彦はすっと息を吸って霊力を巡らせ始めた。
「それでね、苦心して手に入れましたの。こちらご覧になって?」
相手は壁際の棚の上に置かれていた小箱を嬉しそうな仕草で開く。中から出てきたのは何とも怪しげな薬液を閉じ込めた器具である。あれは注射器という物では、と思い当たって背筋が冷えた。何をするつもりだろうか、この女は。
「術師の肉体には霊脈がありますでしょう? それをね、修復不可能なまでに壊してくれるお薬だそうですの」
それは良くない、大変まずい。
「困ったな。貴女は、橘家次期当主だから僕を好ましく思っているのではないのか?」
「まさか! ふふふっ、変なことをおっしゃるのね、佐名彦様ったら」
「そうか……」
「あら、ふふ、結界を張ろうとしても無駄ですわよ。その縄は触れている範囲以上に術が展開できなくなる代物なのです。結界術師の拘束にはうってつけですわ」
「……ふぅん?」
女はにこにこ笑いながら注射器を構えて佐名彦の前に腰を下ろした。
「さぁ、わたくしに身を委ねて……」
白い手が彼の胸に伸びて――バチンッと痛烈に蒼白い火花が散った。
「きゃっ?! な、なんですの……?!」
相当な痛みが走ったのだろう、女は動揺した様子で目を白黒させている。
「僕を捕まえるのなら、結界術師についてもう少し勉強しておくべきだったな。これでも僕はそれなりに結界術を修めている。体にぴったり沿わせた結界を張るくらい苦でもないんだ」
尚、こんなふうに言っているがかなり高難易度の応用術である。
「なっ、そ、そんな……わたくしを拒むとおっしゃられるの?! こんなに、こんなにお慕いしているのに……!!」
「すまないが僕はすでに妻帯者だ。どれだけ好いてくれようとも、僕は貴女の気持ちに頷くことはない」
女が愕然として、それから「酷い」と叫ぼうとしたその直後。
突如巻き起こった青い炎と暴嵐が、周囲の景色を一瞬で塗り替えた。
――――――
見渡す限り瓦礫である。佐名彦は、自分が座っている辺りだけ丁度丸く無事で「わぁ」と呑気な感想を漏らしたが、直後周囲の支えを失った足元がぐしゃ、と真っ直ぐ一段下がって「わぁ」とまた呑気に呟く。縁の下の力持ちは彼の下にはいなかったらしい。
すぐそばにいた女が瓦礫の上で呻いているのを見つける。死んではいない。
他にも、それなりの屋敷であったらしいこの場所には幾人かの人間が控えていたようだ。皆瓦礫の中で藻掻いていたり、大人しく気を失っている。彼らのほとんどがこの規模の屋敷に似合わない荒くれ者といった風情だ。
この誘拐事件のために雇われた人間だろうなとあたりをつける。
そこで背後から瓦礫を踏み砕く足音が近づいてきた。青炎と暴嵐を起こした人物だろう。佐名彦には、それが誰なのか見当がついていた。
「来てくれたんだね、紅花」
振り返れば、紅の髪を夕風に靡かせた長身の妻が笑っていた。
「無事か、佐名彦殿」
「まぁ、無事だ。ありがとう、来てくれて」
「私は君の妻だからな」
そう言いながら紅花は屈み込んで佐名彦の縄を解いてくれ(ぶちっという音からして千切ったのだろうけれど)、彼を立ち上がらせてくれた。
「その装束は初めて見た。素敵だ、格好いい」
「そうだろう。鬼族の戦装束だ」
「っ、さ、佐名彦様……!!」
そこで女が瓦礫の上で身を起こして佐名彦に縋るように呼びかける。二人が見下ろすと、土埃を被った人形の美貌が、佐名彦だけを見つめて震えていた。
「お、お願いですわ、わたくしの、わたくしのものになってくださいまし、お慕いしているのです、ずっと、ずっと前から……!!」
紅花など見えていない、と言いたげな言葉である。それに拒絶の言葉を返そうと佐名彦が口を開いたその直後。
「悪いが、佐名彦殿は私のものだ」
その言葉と一緒に、身を屈めた紅花の姿で佐名彦の視界がいっぱいになって、それから唇が重ねられた。
「?!」
唇を離して、紅花はニッと悪戯っぽく笑って見せた。佐名彦は首から上が全部訳の分からないほど熱くなるのを感じながら「あわわ」と生娘みたいに唇を震わせる。
「なっ、なんて破廉恥なっ!! こんな野蛮で破廉恥な人外種なんて駄目ですわ!! 佐名彦様っ、お願い、わたくしを見て!!」
大変な場面を見せつけられた女が喚く。その内容は佐名彦にとって到底受け入れられないものだったので、真っ赤になっていて格好のつかない自覚はあったがキッと眦を吊り上げて女を睨み付けた。
「僕の妻を侮辱するな! 彼女は野蛮でも破廉恥でもない! それに僕はもう身も心も妻のものだから貴女のものにはならない!!」
佐名彦からそう言われて、女は信じられないことを聞いたような顔で目を見開き、それからわなわなと体を震わせ、手にしていた注射器を紅花へ向けて投げつけた。
何の脅威でもない速度で飛んでくるそれを紅花が軽く払い除けようとしたその直後。彼女の角に輝いていた金環の青玉が一際強く輝いた。バチッと蒼白い火花が散って注射器を跳ね返す――丁度、佐名彦の結界が女の手を弾いたときと同じように。
「む」
「あぁ、良かった。ちゃんと発動した」
「佐名彦殿?」
跳ね返された注射器が頭に当たって昏倒した女を前に、不思議そうにしている紅花を佐名彦は嬉しそうな顔で見上げた。
「お守り程度ではあるんだが、その角飾りには貴女を守るように結界術を封じ込めてある。黙っていて申し訳ない、嫌でなければ今後も使ってくれないか」
それを聞いて、紅花は丸くしていた青い目をゆるゆると細めた。
「私たちはお互い、似た者同士かもしれんな」
「……もしかして出かけるときのおまじないも?」
「あぁ、そうだ」
「……ふ、確かに似た者同士だ」
苦笑して、佐名彦は暴風で少し乱れた彼女の髪に手を伸ばす。指先で撫で付けて「これでよし」と笑いかけた。
「貴女は綺麗だな……夕日の中で見ると、燃え上がる炎そのものみたいだ」
何の気なしに感じたままをそう告げた佐名彦であったが、いつまで経っても紅花から返事がないので「はて」と目を瞬く。そして、彼女の顔をまじまじと見上げて気づいた。
「……ふ、貴女も赤くなるのか。可愛いところを見つけた。嬉しい」
肌の褐色でも差し込む夕日の茜でも、誤魔化せないほどに頬を赤くした紅花は、恥ずかしそうにぎゅ、と顔を顰めてそっぽを向いた。
「それは、反則だぞ……」
鬼族の中で相手の容姿を炎に喩えるのは「あなただけに焦がれ、あなただけを愛す」という熱烈な告白を意味するということを佐名彦が知るのは、またしばらく先のことなのだった。
最後まで読んでくださってありがとうございました!!
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