下.古代ローマで奴隷と結婚する
婚姻は恋愛と異なり、家と家の結びつきを示す。
つまり基本的には互いの同意によって成立するものの、罰則を伴う様々な規則が適用される。
例えば奴隷が結婚するとき、それは自由民同士の結婚conubiumではなく、法的でない結婚Contubernium(※以降、事実婚と表記)として扱われる。
奴隷は、奴隷だけでなく自由民または解放奴隷と事実婚することもある。このとき子供は奴隷の所有者の奴隷になるが、ハドリアヌス帝以降は母親がローマ市民であれば子供は自由民になった。結婚していない自由民の男性が女奴隷と懇意であったとき、男性が死んだ後に女奴隷とその子供は自由民になった。男性が奴隷かどうかは関係ない。
ただしいずれにしても奴隷の所有者に反対された場合は事実婚できない。クラウディウス帝の治世以来、自由民あるいは解放奴隷の女性がこれを無視して奴隷と事実婚したとき女性は奴隷にされた。男奴隷と女性の合法的な結婚は、奴隷と農奴の境界が曖昧になる6世紀まで成立しない。
母親が奴隷であるとき、あるいは両親が奴隷であるとき、子供は生まれながらの奴隷nostri vernaeとなって大抵名前は通称になるが、稀にはローマ市民の様に男奴隷の通称を引き継ぐこともある。
奴隷は奴隷になったときに付けられた通称で呼ばれるが、解放されたときには通称を家族名とし、元の所有者の個人名と氏族名を付け加える。通称に代わって新しい家族名が与えられることもある。女奴隷の名前も通称だが、解放されたときに氏族名だけを加える。
奴隷が解放されることなしに自由民または解放奴隷と事実婚した場合は氏族名を共有しない。女性が男奴隷を解放した場合、女性は氏族名と家族名しか持たないので女性の所有者から解放された男奴隷には仮の名前が与えられる。
リキニウス法によれば、結婚を目的として解放された奴隷は所有者以外とは結婚できないし、所有者が望まない限り離縁できない。また結婚を目的とせずに解放された場合には奴隷に対して結婚を強いることはできない。元老院議員に限れば解放された奴隷との結婚も認められなかった。女所有者が男奴隷を解放して結婚するのは3世紀以降は非合法である時期もあった。
ローマの奴隷解放は、近代アメリカの奴隷解放と異なり低コストの労働者の獲得を目的としていない。奴隷にとっては法的立場の向上を意味する一方で、社会的にも経済的にも所有者に帰属したままだった。遺言による解放である場合にしても、解放後の一定期間の奉仕義務が課された。多額の金銭による場合は経済的な独立を意味した場合もあった。
奴隷が結婚するにしても、女奴隷はその財産peculiumから持参金を払った。正式な結婚conubiumではなく法的義務が無いにも拘らず、相手は持参金を受け取る。法的には譲渡になるようで、離婚するとき返済する義務はなかった。
ややこしい規則はここまでにして、次に奴隷が奴隷或いは解放奴隷、自由民と事実婚していたという史料を確認する。
例えば、アプレイウスの黄金の驢馬には、同じヴィラで働く奴隷夫婦と子供が描かれる(8.22.)。
また事実婚という言葉は、前部分で触れたウェスパシアヌスと解放奴隷カイニスとの関係を示すときにスエトニウスが使っている。スエトニウスはカエサルとニコメデス王の関係を示すときにも事実婚を使用しているが、こちらは直接的な言い回しを避けたものだろう。サテュリコンで用いられたものと同様だ。
さて、事実婚相手である伴侶contubernalisという言葉は主に追悼碑文で用いられる。兵士や妾を悼むときにも使われるが、多くの場合は奴隷あるいは解放奴隷を悼むときに使用する。
例えば「オリシッポ出身の亡きルキウス・ユリウス・レブリヌスは、41年間生きてここに葬られた。(事実上の)伴侶contubernalisフォルトゥナータが亡き彼に捧げた(CILA-01, 00038)」
「ティベリウス・クラウディウス・プラキドゥスの女奴隷サトゥルニアは30年間生き、ここに眠る。(事実上の)伴侶contubernalisテルティウスが墓碑を建てた。(AE 1997, 01738)」などがある。
前者の例について、確認する限り埋葬碑文における名前の数は安定せず、表記された名前の数だけで奴隷と判断することはできない。しかし、正規の伴侶ではなく(事実上の)伴侶contubernalisを使っているため、明言されていなかったとしても少なくとも片方が奴隷の立場で結婚した可能性があるし、また名前の由緒(※前述のように奴隷の通称は所有者がつけるので時々差別的になる)によってある程度推定することもできる。フォルトゥナータの通称は、絶対ではないにせよしばしば女奴隷につけられる。
碑文の傾向から奴隷同士の事実婚の場合、半数以上は同じ所有者に属する奴隷同士で行われている。事実婚には所有者の合意が必要だったことから、所有者が同じ奴隷たちの結婚は所有者の意図に起因する可能性を示している。コルメラはヴィラにおいてその管理者である奴隷には、その業務を補助する妻が割り当てられるべきだと書く。また4世紀の修道士シリアの聖マルコスは奴隷にされたとき、所有者によって女奴隷と結婚させられたという。
奴隷が解放されて、その所有者と事実婚したことを示す碑文もある。
「亡きアエリア・ヘルピディアへ捧げる。保護者patronusであり伴侶である皇帝直属の解放奴隷プブリウス・アエリウス・シンフォルスが葬った。彼女は16年と5か月生きた。(CIL 14, 00524 )」
「亡きイウリアへ捧げる。保護者patronusであり伴侶であるイウリス・エウティクスが碑文を建てた。(AE 2002, 01226 )」
結婚を目的とした解放のとき(※法律では女性は12歳以上で結婚できる)は早々と解放された。しかし早期の解放の場合はローマ市民権ではなく一旦ラテン市民権が与えられるので事実婚をする。ラテン市民には居住地制限や相続・被相続制限があるが、子供が生まれて1歳になるか、20歳になってから再び解放されることでローマ市民になる。5世紀には解放の年齢制限は無くなった。
剣闘士と結婚した女性による石碑もある。解放された後に結婚したのだろう。
「皇帝の解放奴隷トロフィムスは剣闘士大会で二度の木剣rudisを受けて解放され、自身と最愛の妻プリエナ・バッシリアのため、そして(※中略)、墓碑を建てた。(CIL 06, 10170)」
「妻エオルタと息子アスクレピアデスは第二位階のトラキア剣闘士ダナオスに捧げる。彼は九度の戦いの後、ハデスの元に旅立った。(w.j.Hamilton, Researches in Asia Minor,1840)」
自由民の女性と結婚する男奴隷は主に、国家の所有物として公務を行う皇帝直属の奴隷Servi Caesarisが該当した。この公務員たちは造幣、水道、浴場の維持管理から神職、財務、検察などのエリート職まで幅広く運用され、それなりのあるいは多額の給与を得ていた。解放される時期は私有の奴隷よりも遅い傾向があり、そのために奴隷の状態で事実婚した。ただし既存の推定によれば皇帝の奴隷または解放奴隷と自由民との結婚は大体2割程度で、碑文の多くは奴隷または解放奴隷との事実婚あるいは結婚したものである。
古代のローマでもその義務はないものの結婚式は行われた。結婚conubiumに倣って事実婚Contuberniumをし、碑文を残した市民に倣って碑文を残そうとした奴隷たちならば結婚式も市民のそれに倣っただろうし、また逆に法的でない結婚であるからこそ男性同士の結婚nubere(Martial.12.42,suetnius 29 nero)のように、結婚したことを表明する儀式が必要だったかもしれない。
オウィディウスは6月の半ばidus以降の挙式を推奨する。プルタルコスは祝日に結婚するのは未亡人だけだと書いた。3月と5月も良くないという。
その儀式もある程度明らかになっていて、饗宴や持参金、祝婚歌Epithalamium、神への捧げ物、初夜のベッドなどで構成されているが、英語版wikiに大体まとまっているので省略する。




