虐げられ公爵令嬢は、このたび悪霊になりましたので、婚約破棄の復讐をいたします
さっくり読める短編です!
夏も盛りの夜会。
私――その時のシンシア・ディレイは、婚約者であったアルノ第三王子に婚約破棄を通達された。
貴族らが集まる公的な会でのことである。
突然のことにシンシアは、状況を理解できずになにも言えず、動けなくなってしまう。
そのうちに、アルノ王子は一方的な糾弾を始めた。
「この地味な女はとんでもないクズだ!」
シンシアが執事らと浮気をしていた、アルノが贈ったドレスを着ずに捨てていた、政治に口を出そうと議会に出入りしていた、など。
あげつらわれたのは、全て事実とは異なることだった。
クズ。
今に思えばその言葉は、アルノにこそ当てはまる。
ここ数年、彼は私に対して、日常的に暴力をふるっていたからだ。
幼い頃から気性は荒く、たまに手を出されることはあった。
それがこの数年はより酷くなり、顔以外は、どこでも殴られたり蹴られたりした。
ある時は、庭で飼っていた猫ともども池に放り捨てられたことだってある。
その際、愛猫を失った強い悲しみは、こんな風になってなお、未だに痛切な感覚として残っているくらいだ。
そんな彼だが、人前ではじつに立派な姿を見せていた。
たとえるなら、まるで聖人かのように、完璧な振る舞いで民の声を笑顔で聞き、重臣らにも気さくに接する。
地味な第一王子ではなく、第三王子の彼を、次期国王に推す声も多く上がるほど。
私とも、仲のいい婚約者同士であるフリを、表向きでは見せていた。
その外面はほとんど完璧なのだ。
が、その表と裏の変わりっぷりは、恐ろしい。
彼は、内側にとんでもない残忍性を秘めていた。
それはなにも、暴力だけじゃない。
私は精神的にも支配されていた。
誰かに漏らしたら、また殴る。今度は刺すなどと、脅しをかけられていた。
彼は私を「地味」といったが、それも彼のせいだ。
アルノによって身体中につけられた傷跡を隠すため、私は常に長袖かつ厚手の服を着ざるをえず、夏に着ればどうしても陰気臭く見えてしまうのだ。
あとに思えば、どう考えても、関係は破綻していた。
それでも、私は幼い頃から付き合いがあったこともあり、彼を信じていた。
洗脳されていたのに近い感覚だったのだと思う。
だから彼にどんな酷いことをされようが、両親にさえ相談しなかった。
だが、当事者でいる間はそれに気づかない。暗くカーテンの閉ざされた部屋に、日の光が届かないのと同じだ。
私は、彼に世界を乗っ取られていた。
その事実に気づいたのは、大変残念ながら、つい最近のことだ。
婚約破棄を通達された日から、三日後。
私はあまりの悲しみに憔悴していた。
そのわけは、これだけ尽くしてきたアルノに裏切られたという倒錯的な傷心だ。
それで私は、会場であった王城内の屋敷のベランダで泣いていたところ、後ろから突き落とされた。
落ちる。
そう思いながら上を振り返って見たのは、アルノの顔だ。
確実に死ぬだろうと思った。
だから、もう私には何も関係ない。
これで楽になれる。
そう思っていたのだが、それは叶わなかった。
その代わり、頭を強く撃って、記憶喪失になる。
いや、正確には記憶と魂が抜け落ちて、「私」と彼女に分かれてしまった。
そう「私」は、記憶喪失前のシンシア。
その記憶であり、それが結びついた思念体ーーいや『悪霊』とでもいうべきかもしれない。
どういう理由でこんなことが起きたかは分からない。
とにかく、「私」は、「シンシア」と分かれてしまった。
そう気づいたときには、アルノによる洗脳は、すでに溶けたあとだった。
どれだけそれしかないと思っていた世界でも、なにかの拍子に他の場所へ飛ばされれば、その世界を俯瞰してみることができる。
私にとってはそれが、飛び降りた際の記憶喪失だったと言うだけのことだ。
気づけて幸せだったのか、不幸だったのか、「私」には分からない。
だが、身体を失うという代償のかわりに、少なくとも思考がすっきりとしているのは確かだった。
「私」は、なにも知らない彼女、机に座り本を読むシンシアを眺めた。
彼女は、昔の私、でも今の「私」ではない。つまり、彼女もシンシア・ディレイであることは間違いなかった。
ううん、むしろ世間様から見れば、彼女こそがシンシアで、私はこの世ならざる悪霊だ。
そんなことを思っていたら、扉が数回ノックされた。
シンシアがそれに応じると、奥では長身の男が一人、頭を深々と下げている。
数年前に執事となったヨルだ。
なかなか整った顔をしており、その紺色の少し長い髪はシャンデリアの明かりによく映える。
美形かつ仕事もできる。
そのため、メイドたちの間では格好いいともっぱら噂だが、掴みきれない人間だ。
「お嬢様、お紅茶をお持ちしました。その後、お加減は?」
「全く問題ないですよ。大した怪我でもありませんから。記憶の方はまだ戻りませんが」
「…………そうでしたか」
当たり前だ。「私」はここにいるのだから。彼女に尋ねたって責めたって、ただ困らせてしまうだけだろう。
私の存在は、誰にも気づかれないらしかった。
それは、ついさっきわかったことだ。
シンシアがベッドで足を打ち付けたとき、「私」は直前で声を上げたのだが、彼女の耳には届かなかった。
そのため、シンシアの小指は今少し腫れているのだが、彼女はそれを「私」が観察しているなどつゆも思っていない。
もちろん姿も同じだ。
試しにヨルに向けて手を振ると、ぴくりと眉が動いたが、たまたまだった。
そのあと、すぐ目の前に立ってみたりしたが、気づくそぶりもなかった。
「ねぇ、ヨルさん。私はどうして記憶喪失になったのでしょう?」
「……ただの不幸ですよ。それ以下でも以上でもありません」
「そうですか……。では、どうして私は外に出ることを許されないのでしょう」
「記憶をなくされた今、外は少しばかり危険だからでございます」
「では、この身体のアザは……」
「それはじきに引いていきますよ。ですから、静かにお過ごしください」
二人の会話を聞いていて、いたたまれない気分になってくるが、外出禁止は彼女にとって悪いことではない。
私しか知らないことだが、アルノは、シンシアを殺そうと突き飛ばしてきたのだ。
たとえばシンシアが記憶を失っていたとして、それだけで満足するような男ではない。
自分の悪行が確実に漏れなくなるよう、なにかしらの方法で、彼女を狙うはずだ。
今のシンシアは、何も知らない無垢な少女である。
そんな彼女を狙う行為は、どうしても許すわけにはいかなかった。
とくに、元シンシアである「私」としては。
どうせこんな悪霊みたいな姿になってしまったのだ。もはや、命などない。そして、ない命など惜しくはない。
だったら、せめて今のシンシアの命を救ってやりたい。
そのための方法は一つしか思いつかなかった。
アルノの悪行を日の元に引き摺り出してやることだ。
彼を失墜させてしまえば、シンシアが狙われることもない。
憎悪に満ちた邪な思考というよりは、どちらかと言えばクリアな頭で、私は本当に人知れずそんな決意をして、行動へと出た。
――それからというもの、私はさまざまなことを試して、「この状態でなにができるのか」を理解した。
このままでは喋ることはできないし、物体に影響を与えられない。
だが逆に、できるようになったこともあった。
まず一つ、誰にも気づかれずに移動ができた。壁をすり抜けることさえ容易で、道なき道も簡単に通れる。
そして次に、波長のようなものを感じられるようになっていた。
いわば感情の波のようなものだ。
そして、これを完全に合わせることができれば、なんと一定時間その相手の身体を借りることもできる。
今のシンシアやヨルのように波長がまったく合わず、どうしても借りられない者もいた。
が、それは例外的だ。
相手が眠っている時間ならば、割と簡単に、身体を乗っ取ることができた。
だから私は手始めに、アルノの身体を乗っ取った。
泥酔して屋敷に帰ってくるところを狙えば、実に容易なことだった。
そして私はそれにより、一つの真実に辿り着く。
「アルノ様ぁ……」
アルノが、私の腹違いの妹であるリリスと恋仲になっていたことだ。
お忍びで尋ねてきた彼女が、ベッドの上で、甘い声を出してすり寄ってくる。
かなりの拒絶反応だった。
そもそもリリスとは仲が良かったわけではない。
彼女は昔から、人の男が好きなのだ。
猫撫で声で甘えて、籠絡して、誰かから恋人を奪う。
そんなことを繰り返す彼女のことは、むしろ苦手に思っていた。
でも私はそれをしっかりと堪え、
「僕たちのなれそめを覚えているかい?」
アルノの酒で回らない呂律でこう尋ねて、その経緯を引き出した。
今から約二年ほど前。
どうやらリリスが落としたハンカチをアルノが拾い、それを届けたことから、仲が発展していたらしい。
これは、知っている。
リリスのよくやる作戦の一つだ。
あえて失敗をして気を引き、相手を思いのままに操る。
そんなものは、かつての私でも見ていて分かるくらい、単純な罠だ。
が、アルノは愚かにもそれに引っかかり、そして浮気の道へと走ったらしい。
いわば、背徳感と嫉妬が、恋という皮をかぶった恋愛未満の関係だ。
それは、アルノにもリリスにも、とても特別なものに見えていたようだ。
「私を選んでくれてありがとうございます。あの夜会でのお姉さまの顔、傑作でしたわ。それになにより、嬉しかったです。今度のお披露目、楽しみにしていますね」
あのタイミングでの婚約破棄は、今後リリスとの関係を正当化するために、突き付けてきたのだろう。
すべてを知ったことで、私は思わずため息をついてしまう。
こんなことのために追い詰められていたのだから、あまりにもしょうもない。
「あら? アルノ様、もしかして元気がありませんか?」
それに甘え声で、リリスが下から見つめてくる。
変に勘ぐられるとまずいと、私が少し焦っていると……
「お姉さまのことなんか忘れていいんですよ」
彼女はこうキスを求めてくる。
「どうせ向こうも忘れているんです。もう邪魔者はいませんわ」
私をここに追いやって、自分たちだけ幸せになるうえ、今のなにも知らないシンシアをも廃そうとしている。
そんな彼らをのうのうと生かしていたくはない。
相応の罰を与えて、同じだけ苦しませてやりたい。
一気に憎悪が湧き起こってくるが、私は冷静になって、そこでアルノの身体を抜けた。
以降も私は、証拠を集め続けた。
人の身体を思うように動かせるのだ。
情報を手に入れるのは簡単だった。
しかし、それをどのように日の元に晒すかは、難しいものがあった。
それでも、この事実を誰かに伝えなければ、シンシアは幸せになれない。
だから私はシンシア邸の使用人たちの身体を操り、
『アルノ王子には裏がある』『アルノとリリスが浮気をしていた』『シンシアを突き落としたのは、アルノ』
などのメモを残す。
ついでに、うっかり知ってしまった『アルノは噛まれたい趣味がある』なんて情報も付記しておいた。
だがそれだけでは、証拠がない。
私は手に入れた証拠品であるリリスの日記などを、何人かの身体を行き来しながら、どうにかシンシア邸まで持ち帰る。
そのうえで、目立つところに置くなどして、アピールした。
どれも、まったく気づいてもらえない可能性は十分にあった。
気味が悪いと思われて、処分されてもなにらおかしくない。
が、しかし。幸いなことに、優秀な執事であるヨルは、それに気づいてくれた。
あとは、彼の行動に任せるほかない。
そう思っていたところ、ヨルは完璧な行動を取ってくれた。
「あなた方がやったものでしょう?」
彼は、リリスとアルノが婚約を発表しようとしていた夜会へと乗り込み、その不誠実な関係、シンシアへの酷い扱いについて、大勢の前で暴露したのだ。
そこには、今のシンシアも連れて来られていた。
そして、その身体から未だ消えない無数の痣を聴衆に見せる。
もう、どうあがいてもアルノに、言い逃れはできない状況だった。
追い込まれたアルノは、騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう国王に、事実確認をされるのに、力なく頷き、
「なんでこんなことに……」
弱々しく、こんな言葉を漏らす。
「お、お姉さまの呪いよ! 私は悪くない! あの日記だって、気づいたらどこかにいってたの。取られたのよ!!」
一方のリリスはといえば、錯乱状態で、高い声で叫びあげる。
それは、冷ややかな目で受け止められていた。
私がこうして霊体になってやったことである以上、彼女の一見すると突飛な主張は、実のところ大きく間違ってはいないのだが。
ともかく、これですべて終わりだ。
もう今のシンシアが襲われることもないし、ばっちり復讐も果たせた。
これからの私がどうなるかは分からないが、たとえ浄化されて消えてしまってもいい。
私は、誰にも見られない(物理的に)ところで一人ほっと胸を撫で下ろす。
それから、「ありがとう」と今回の成功の立役者である執事のヨルにこう投げかけたら、それがなんと、ちゃんと音になっていた。
「……え」
なんと、これまでまったくシンクロできなかったはずのシンシアの身体に、自分の意識が戻っていたのだ。
いや、それだけじゃない。
この感じは、「今のシンシア」の意識も残っていて、混ざり合うような不思議な感覚が、私の中にはある。
どういうことだろう。
いったいなんでこのタイミングで? そう困惑していたら、ヨルが私の元へとやってきて、その腰を折ってお辞儀をしてくる。
「戻られたのですね、お嬢様」
「……え。な、なに、どういうこと」
「そのままの意味ですよ。これからは、助けて欲しいときはそうだとちゃんと教えてくださいね。痛ぶられる趣味でもあるのかと思っておりました」
「えっと」
「さぁ、パーティーの続きを楽しんでください。お久しぶりでしょう? それに、あなたを縛る者ももういないのです」
すべてを知っているかのような口ぶりに、私は当惑せざるをえない。
私がシンシアの体から抜け落ちていたことも、そして、たった今私が戻ってきたことも、ヨルは気づいていていたのだろうか。
ありえない話ではない。
事実、彼は私の意図に見事に気づいて、逆転劇を作り出したである。
そう考えれば、彼とは一度、霊体の状態で目が合ったことがあった。
あのときはすぐに偶然だと断じたが、もしかすると彼には、あの時の私が見えていたのかもしれない。
だとしたら、いったいどうして。
そんなふうに思っていると、不意に、舞踏の音楽が流れ出した。
彼はそっと私の手を掬う。
流れ出した音楽に合わせて、ステップを踏みだした。
そうして、戸惑うだけの私をエスコートして見せる。
「足が止まっておりますよ」
その端々から感じられる気遣いと優しさは、アルノの強引なそれには、まったくなかったものだ。
とても心地がよく、私はその流れに身を任せる。
難しいことを考えるのは、あと回しでいいかもしれない。
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よろしくお願い申し上げます。
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『王城の浄化をほぼ一人でやっていた聖女ですが、婚約破棄をされたので、これからは自由に生きようと思います! 王城がどうなろうと知りません。』
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