26話
いつだったか、人間のためにひとり狩りに出た化猫が遭遇した狼の魔物。黒狼族。
平原の覇者として君臨し、時には道行く人間を襲い、時には猪豚頭や一角兎を喰らいその縄張りを拡げていた。群れを成し、集団戦に特化した狼は平原に於いては向かうところ敵無しと自負していた。
時折、戦闘を得意とする人間に仲間がやられることはあったが、群れでひとつの意思を持つ黒狼族は仲間の死すら群れを活かす為の布石と死を恐れない。
この世界は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ喰われる。それが自然の摂理であり、喰うと言うことは喰われると言うことも理解していた──……はずだった。
如何に黒狼族が群れを成して支配者と名乗り強者に君臨しようとも、それは所詮平原での話。森の中には森の覇者、支配者が存在する。
魔物は互いに己の領分を越えて行くことはなく、下手に手を出せば侵略者として、魔物同士の争いになる。そうなれば最早それは殲滅戦となり、滅ぼすか滅ぼされるかの戦いとなる。
それが現れたのは半月前だったか。
森から現れた小さな蜘蛛の魔物。
縄張り争いに負け、森から追い出されたのだろうが、平原に現れた以上は黒狼族の敵となる。しかしその境界というのは実に曖昧だ。人間のように決め事があるわけでもなく、森と平原との境なぞはその時々の勢力差でしかない。
初め黒狼族はその境界に落とされた小さく脆い存在を気に留めることはなかった。だが、その蜘蛛は木の虚や別の巣穴を根城に虫を喰らい、黒狼の残した死肉を貪り、森の恵みをすすり、着実にその力を強めていく。
気がつけば、その境界はその蜘蛛の支配地域となった。
糸を張り巡らせ、確固たる境界が生まれた。
森から追い出され、狼に怯え、それでも生き残るために蜘蛛の魔物は喰えるものは全て喰らい尽くして虎視眈々とその機会を窺っていたのだ。
魔物にある核。魔石に含まれた魔素を大量に取り込んだ蜘蛛の魔物は魔物の悲願でもある進化を果たす。
小さく脆かった肉は鋼のように硬く、鋭く、より巨大に。
自身を追いやった森の魔物より大きく、眼光鋭い狼より速く、惨めな己を塗り潰す怒りに変えて。
森の魔物が平原へと飛び出し、黒狼族はそれらを侵略とみなし駆逐していった。
しかし狼たちは不審に思う。侵略の割には覇気がなく、まるで何かから逃げ出してきたかのようだ。
だが平原に出てきたからには黒狼たちの獲物だ。
屠り、喰らい、棄てていく。
黒狼たちは思う。“森の魔物とて我らが敵ではない”と。
黒狼族は勘違いをしていた。
呆気なく肉へと変わるそれら森の魔物は、何かから逃げ出してきたことを知らず、すでに戦意などなかったことに気付けなかった。
ここでその何かに気が付けばあんな悲劇は起きなかっただろうに。
黒狼族の群れは森へと打って出た。
久方ぶりの勢力争いだ。森を手中に治めることが出来れば、群れはさらに大きく、強くなれる。
森の奥へ進むにつれて、血の臭いが濃くなる。しかし、屍体は無く不気味な静けさに包まれていた。
その戦いは突如始まる。肉眼に捉えきれぬほど細い糸に絡め取られた群れの一匹が何処かへ引き摺られていく。
その巣は強靭でしなやかで、黒狼ですらかかれば逃れることが出来ないほどだ。咬み切ることも出来ず、むしろ余計に絡まり動きを阻害してしまう。
森の奥から仲間の断末魔が響き渡る。
気付いたときにはもう遅い。
そこはすでに巣の中。四方八方から飛び出す糸に絡め取られ、速さを武器に戦う黒狼族はいとも容易く無力化させられていった。
森の暗がりから顔を出したのは仲間を咀嚼したままの蜘蛛の魔物。矮小だと蔑み、捨て置いたあの魔物はたかだか数日と言う短期間で進化するほどの変貌を見せた。
逃げ出すことも敵わず、じわじわと嬲り殺される同胞たち。喰われるためではなく、ただ殺されていく。
その足で頭蓋を貫かれ、その口で腸を抉られ、魔石だけを喰い、肉をただの石ころのように蹴散らしていく。
程なくして飽きたのか、今度は糸にくるまれ絞めつけられ、足だけを喰い千切り吊るされ、ただ殺すのではなく遊び始めた。
黒狼族の長は慟哭する。
黒狼たちは必要以上の殺生はしない。
群れがその日生きる為だけの糧があればそれでいい。
だからこそ、境界に落とされた蜘蛛を放置したのだ。
それがどうだ。
仲間の悲痛な叫び、命乞い、それらを無視した一方的な虐殺を目の当たりにし、泣き叫ぶ。
もうやめてくれ!
──友は頭を咬み砕かれ死んだ。
そいつの肚には子が宿っている!
──肚から子供を引き摺り出され、母親の目の前で喰われて死んだ。
その子はこの間ようやく狩りを覚えたんだ!
──その子は前足を千切られ、牙を折られて死んだ。
もう……やめてくれ……!
殺すのなら長の俺だけにしてくれ!!
狼に蜘蛛の表情など窺い知ることはない。
しかし、そいつは嗤った。歪に、醜く、確かに嗤った。
群れを全滅させられ、気まぐれなのかたった一匹遺された黒狼の長は糸から解放され生き残った。生き残ってしまった。
間違っていたのだろうか?
あの時、矮小と蔑まず仕留めていればこんなことにはならなかったのだろうか?
あの時、森に入らなければこんなことにはならなかったのだろうか?
今も脳裏に焼き付く同胞たちの叫び、苦しみ。
遺された黒狼に出来るのは、あの蜘蛛への報復。
この怒りを力に変えろ。
この悲しみを鋭い牙に変えて奴を穿て。
この憎しみを爪に乗せて奴を切り裂け。
同胞よ、今しばらく待っていてくれ。
必ず、この生命を賭して仇を……!
黒狼は友を喰らい、腸の子を喰らい、一族の無念を一身で引き受けるかのように喰っていく。
骨すら飲み下し、折れた破片が口内を内蔵を傷つけようと全てを喰らい尽くす。
黒狼は森を駆け回った。
巣を見つければ潰し、憎き怨敵の痕跡を追い、ただひたすらに走り続けた。肚の中では消化しきれなかった骨が中身を傷つけていても、止まること無く探し続けた。
もう意識があるかもわからない。
ただこの身を突き動かすのは、奴への復讐心のみ。
ようやく見つけた場所は、あの境界だった。
数体の同胞が貯蓄の餌として巣に括られている。
ウォーーーーーーーーーン!!
黒狼は咆哮を上げて蜘蛛へと挑む。
蜘蛛と黒狼の戦いは熾烈を極めた。糸を手繰り足場にし、狼以上の瞬発力をもって縦横無尽に黒狼を攻める。
黒狼とて負けてはいない。持ち前の速度を使い、翻弄し反撃を繰り返す。
蜘蛛は舐めていた。狼という存在を。
森という有利性を持って奇襲という形で狼たちを蹂躙した蜘蛛は、その牙を、爪を受けて狼狽した。強くなった肉体だが所詮虫。
咬み千切られ、引き裂かれ、それでも止まらぬ猛攻。
黒狼は失念していた。あの矮小な存在がどうして生き残っていたのかを。
絡み取られた糸を無理矢理引き千切れば肉が裂け、牙や足がかするだけでも猛毒が身体を蝕んでいく。
食んだ内側からも毒が蔓延していく。だが最早止まれない。今止まればもう二度と立てなくなる。
永遠に続くと思われた戦いは、黒狼の長の辛勝だった。
どちらも相手が動かなくなるまで、その足を爪を牙を互いにぶつけるのみ。
結果として、復讐を果たした黒狼は何も失くなった。
守るべき群れも、子も、仲間も全てを喪う。
巣に括られている仲間を下ろし、仲間を探して蜘蛛の腸を探す。嘆き、妬み、苦しみ、慟哭を上げて尚も探す。
蜘蛛の死骸が無くなっても黒狼は探した。
森を探すうちに毒が肉を焼き、骨にまで染み込み爛れさせていく。
平原を探す間に、毒は呪いにも似た侵食を始めた。
仲間を探す想いに、糸が絡みつくように蜘蛛の生への執着が混ざり変質していく。
仲間を探して、生きる糧を探して、何かを探し続け。
もう己の形すらも忘れ、暗い冥い闇の中を歩くうちに、強い光を見つけた。
力強くも優しい光。
渇望するこの昏い想いに救いを求めて。
毒に朽ちる身体を前へ、光にすがった。
光がすぐ目の前だというのに、邪魔が入る。阻まれても尚、そこに救いがあると信じて突き進む。
砕かれ、削がれ、引き裂かれても、この身がすでに形を成すことをやめようと、前へ、前へ──。
強い光は更なる光を放つ。
──あぁ……ようやく眠ることが出来る──
いつも読んでいただきありがとうございます。
φ(..)
のんびり更新していきますので
気長にお待ちください。
次回投稿4月24日10時




