◆二十七話:お久しぶりです
伊地知桃花――イトと呼ばれる人物が『糸杉屋』の旧館にある自室で安楽椅子に揺られていた。ここ数日の疲労が溜まり、身体が全体的に重い。イト自身はまだまだ意気軒高のつもりではあるが、こうして肉体が追い付かない状態になると老いを自覚してしまう。
「疲れているようなら、改めた方がいいかな?」
――声が聞こえた。とてもはっきりと。
身の回りの世話を任せている付者は隣室で待機しており、この部屋にはイト以外誰もいない。扉や窓だってしっかりと施錠されているので侵入は難しい。それにも関わらず、そこに――部屋の中央に配置されているソファにその人物はいた。
「や。久しぶりね」
リズムを取るかのように上体をメトロノームのごとく傾け、しなやかな黒髪をさらさらと揺らす若い女。そんな女が、旧来の知己と偶然会ったかのような気軽さを滲ませた挨拶をイトに投げかける。
「――――」
イトは言葉を呑んだ。
先識の眼を持ち、それが通用しない相手との相対も十分に積み重ねたイトは滅多なことでは動揺しない。それでも、言葉に詰まった。そんなイトを見て女は眉尻を下げた。
「……あれ? もしかして覚えていない? まずったか?」
だが、そう言われればイトは言葉を詰まらせてなどいられなかった。
「――いえ、覚えていますよ」
忘れていたなどと思われたくない。だから真っ先に否定した。
「お久しぶりです。世那さん」
「うんうん。久しぶり久しぶり」
世那と呼ばれた女は覚えられていたことが嬉しいようで、言葉を弾ませる。
「世那さんはどうしてここに?」
「いやなに、懐かしい名前を見てね。思わず会いに来たのさ」
「それは――、嬉しいですね。もう、会えないと思っていましたから」
イトは世那が自分に会いに来たという事実を聞いて目を細めた。
「そんな寂しいことを思っていたの?」
「それはそうでしょう。私はもう六十年近く生きていますからね。この国の人間の平均寿命は知っているでしょう?」
「女の子は八十後半とかじゃなかったっけ? まだまだ余裕じゃない」
「そうですね。私が先立つにはまだ早いです」
「だとしたら、早計じゃないの」
「世那さん、私達が初めて会ったのはいつ頃だったか覚えていますか?」
「何年前だっけ?」
「五十年前ですよ。あなたに会ったのは私が七歳のときです。あなたは当時、三十代だと自称していましたね」
記憶のままの姿をしている女を眺めるイト。
――いや、違う。
イトは思考に訂正を入れる。
「私が六十近くなら、あなたは九十近くでしょう? 亡くなられていてもおかしくはないし、そうでなくとも、余命いくばくもないかもしれない。そう思っていました」
イトの記憶にある世那の姿は大人の女性だ。成長が終わり、成熟が始まる頃の人間。見た目に反して齢は三十を超えているのだと言っていた若々しい女性。
「でも、違いましたね。あなたはあのときのままどころか、今の方が若いようだ。――どうやら、数奇な人生を送っているようで」
「産まれた時に老人だった記憶はないけれどね」
通じたことにイトは苦笑する。
「今では私が老人ですからね」
「そっか。良い歳の重ね方をしたようね」
「ええ、おかげさまで」
□■■□
伊地知桃花は生後七ヶ月にて、他者の目を通して自らの終わりを見た。
今際の際、息絶えようとしている自分自身が赤子の自分を見つめていた。
――終わりと始まりを知って、ただそれをなぞるように生きた。
既知で満ちた――閉じた世界を歩き続けた。
世界が一変したのは七歳の秋。
白くて大きな建物に住むようになってから半月が経過してからのこと。
桃花はそこで、何も見えない女を見つけた。
そこにいるのに、どこにもいない女がいた。
それが当時の桃花にとってどこまで衝撃だったか。
「私はね、魔女なのよ」
女は妖しく微笑んで、誰にも言ってはいけないよ? と、少女に秘密を教えた。
それから、魔女と桃花は何度も会って話をした。
魔女を自称した女は蓮舎世那と名乗った。
「きっと、あなたのその目に意味はないよ」
桃花はどうして自分だけがこのような目を持って生まれたのかを魔女に訊ねたが、魔女はそれに意味などないと答えた。
「意味を持って生まれるモノなんてない。けれど、意味を見つけることはできる」
――でも、意味を無理に見つける必要もまた、ないんだよ。
魔女はそう言って、桃花の頭を優しく撫でた。
「トーカ。あなたは何を見たい?」
「なにも見たくない」
見飽きたから。
「でも、セナの笑顔は見たい。なんどでも、いつでも、いつまでも」
「呼び捨てなんて生意気な子だな。それに、私はたいてい笑っているよ」
「なんでセナはそんなに楽しそうなの?」
「んー? なんでだろうねぇ」
「はぐらかすな!」
言葉をあやふやにしてばかりの魔女に文句を言う桃花。
「本当にわかっていないんだよ。でも、そうだね。私は美しいモノ――綺麗なモノが好きなんだ。そういうのを見ていると、自然と笑ってしまうね」
「つまり、わたしが綺麗になればいい?」
「おや、賢い」
だが、そこで桃花は疑問する。
「綺麗って、なんだろう? セナの綺麗をおしえてよ」
「それは自分で見つけるモノだよ」
「でも、わたしには綺麗がわからないよ。おしえてよ」
「んー。そうだね。――私にとっての綺麗ってのはさ、“見続けていたいモノ”のことかな。それを見ていることができれば、それでいいと思えるモノ」
「見続けていたい……」
桃花が言葉を反芻していると魔女がその小さな手を取り両手で包む。
「トーカ。先識の眼を贈られたあなたが何かを成す必要はないけれど、あなたが何かを成したいと思ったときにその眼はきっとあなたを助けるわ」
「そうなの?」
「そうなの。――そうね、もし綺麗でありたいのなら、あなたが綺麗だと思えるモノをたくさん見なさい。ヒトは実感し得たモノを糧にする生き物だから、それが一番確実よ」
――そう言って、魔女は穏やかに笑んだ。
それが伊地知桃花――イトの原風景だった。
困ったときに話を聞いてくれる人がいること。
迷ったときに道を教えてくれる人がいること。
悲しいときに笑いかけてくれる人がいること。
――そういう在り方をイトは綺麗だと思えた。
□■■□
「――それじゃ、私はそろそろお暇させてもらうよ」
二時間ほど雑談に花を咲かせたのち、世那は立ち上がった。
「もっと居てくださってもいいのに……。世那さんならここにいつまでも滞在していいんですよ?」
「うーん……。いや、遠慮するよ。確かにここ最近は色々と忙しかったからゆっくりしたい気持ちもあるけれど、今はさっさと所用を済ませて家に帰りたい気分なの」
「家……? 世那さんって家があるんですか?」
「あるよ? 私のことなんだと思っているの?」
「住所不定かつ職業不定の自由人」
世那の口端がひくつく。
「言うようになったじゃないか……」
「あなたが言われるような人のままだっただけですよ。……本当に、お変わりないようで」
「いやいや、変わらないなんてことはないよ。現に今の私は華の女子高校生だ。だから住所も職業も定まっている!」
胸を張る世那を見て、イトは呆れたように言う。
「あなた、今は学生なんですか」
見た目年齢がやたらと若い理由が分かり、イトは苦笑いする。
「うむ、青春の絶頂期であり女の最盛期とも言われる女子高校生さ!」
「それについてはかなり諸説あると思いますよ……」
「私にかかれば青春を人生の最後に持って来ることだって可能だ」
「詩人みたいなことを言いますね」
「あっはっは」
最後の最後まで、二人の会話に大した意味はなかった。イトはこの数十年で色々なことを経験し、その度に世那に話したいことが増えていたというのに、不思議とそのことを話題にはせず、四方山話を繰り広げるばかりだった。
――そのことに不満はない。
「それでは世那さん。また今度」
魔女の生きる時間が自分とは違うことを知った以上、絶望的とも思えた再会がさして難しいモノではないと理解した。であればこそ、イトにとって再会を願う別れの言葉はごく当たり前に出たモノであり、希望そのものであった。
そんなイトに対し、魔女を名乗った少女は去り際に今の名前を告げていく。
「今の私の名前は刀河火灼。日本の高等学校に通うただの女子高校生だよ。――それじゃ、また会おうねトーカ。今度は友達を連れてくるよ。是非ともあなたに視てもらいたい子がいるの」
□■■□
ほんの少し、時は戻って。
蓮舎世那――刀河火灼が帰り支度を始めているときのことだった。
ソファから立ち上がり身嗜みを確認している火灼にイトは気になっていたことを質問した。
「――ところで、どうしてそのような服装を?」
「ん?」
服装について質問をされるとは思ってもみなかったのか、どうしてそのようなことを聞くの? という表情をする刀河。
「修道服だなんて、コスプレですか?」
火灼は修道女の装いをしていた。
「……失礼ね。昔取った杵柄でそれっぽいこともしていたのよ? 孤児院の経営とかにも噛んでいたりしたし」
「そんなこともしていたんですね」
「資金繰りに失敗して首が回らなくなったけれどね」
「言ってくれれば、融資ぐらいしましたよ」
「そんときゃあんたはまだ未成年だったよ」
「…………」
微妙な表情を浮かべるイトに笑い掛けながら、火灼は服の裾をつまみ上げる。
「この服は今から会いに行く奴に合わせているのよ。どうも特徴を聞くに顔見知りっぽくてね。教会の連中御用達の病院は把握しているけれど、あそこの連中は無茶するのが多いからねー。早めに行かないとすれ違いになりそうだし、ちょいとばかり急ぐ必要があるのよ」
「……顔が広いんですね」
「長く生きているとどうしてもねー。私はそれだけが取り柄みたいなところもあるし」
そう言って、火灼はくるりと回る。
動きに合わせて裾部分がふわりと広がり、貞淑な格好に反して活発な印象になる。
「似合うでしょ?」
そう問うた少女の顔は少女らしからぬニヒルな笑みであった。
オチてない気もしてきましたが、これが今回のオチです(?)
次話は後日談となります。




