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魔術師の少女、世界端末の少年  作者: 海山優
三章『その目に映るのは』

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◆二十五話:戸沼桃恵という女

「ふむ」


 俺は刀河へと送ったメールの一部を再度眺めていた。


 行き倒れのおっさんことク・ウォンが探している人物目録である。


 ・舘野(たての) 千聖(ちひろ)

 ・(ツァオ) 明美(ミンメイ)

 ・法霊崎(ほうりょうざき) 桑折(こをり)

 ・蓮舎(はすや) 世那(せな)

 ・Lene(レーネ)=Kelso(ケルソー)

 ・戸沼(とぬま) 桃恵(もえ)

 ・霧丹部(むにべ) 結友(ゆゆ)


「一度聞いたら忘れなさそうな名前ばかりだな」


 少なくとも、日本人名はどれも特徴的と言える。残り二つは中華系と欧米系だろうか? それらに関しては特徴的なのかどうかの判別はつかない。


「ちょいと。成世ちゃんよ」


 部屋に用意されていた茶櫃を引っ張り出して淹れた茶を啜っている成世に声を掛ける。


「んー?」


 脱力感を隠そうともしない後輩は半分ほど溶けていた。お前は猫か。


 パソコンの画面をそちらに向ける。


「このリストの名前に見覚えってあるか?」

「ないです」

「うーん、即答」


 まぁ、期待してはいなかったので予想通りの返答だ。成世は箱入り娘だったこともあって一般人である俺よりも知らないことが多い。一縷の望みに賭けてはみたが普通にハズレである。俺は成人してもギャンブルをしない方がいいかもしれない。などと考えていると、画面を見つめていた成世が呟いた。


「一つ、わかることがあります」

「ほう。なんだ?」

「これ、どれも女性名ですね」

「へぇ……」


 言われてみれば確かにどれも女性的な名前である。


「とはいえな、最近はそういうので性別を判断するのは問題になりつつあるわけだよ成世くん」


「アっホらしぃ風潮ですよねぇ。名前ってのは記号で、記号は判別のためにあるわけじゃないですか。その流れに乗らないという選択自体はどうぞご勝手にって感じですが、他者の認識にまでケチつけるってぇのは、もうただの傲慢ですよね」


「……そうだねぇ」


「猫にポチって名付けておいて、それで犬だと勘違いされた際にキレる奴がいたら普通にヤバいって思うでしょ? 猫にだってポチと名付けたっていいじゃない、みたいな考えは全然構いませんけれど、出来上がっている共通認識に食って掛かるのはただのイカれですよ」


「そ、そうだねぇ……」


 こ、言葉強くない? 大丈夫?


「最近はどっちとも取れる響きの名前が話題になっていたりしますけれど、アレだってなんなんでしょうね。らしさ、みたいな押しつけをしないためだなんて聞きますけれど、それを言ったら『どっちとも取れる響きが嫌だ』と思う可能性だってあるわけじゃないですか? 名前自体が意味を込められたモノである以上、そこには必ず押し付けが存在するわけですよ。押し付けた責任そのものから逃れようとしているようで、私はそっちの方が気持ち悪いですね」


 名前に願いを込められて、それに翻弄された子が言うだけあって重いな……。


 と、ここに至って思い出す。今さらだけれど、成世の勘違いを正しておこう。


「そういえば、お前は勘違いしているようだけれど、悠理くんは男の子だからな」


 この後輩は俺のことを『行く先々で異性を引っ掛ける野郎』だと非難していたが、今回の旅行で俺が遭遇し接近したのは全員男である。しかも、悠理くん以外は碌なのがいない。ヤバい神父と、ヤバいデブゴンと、ヤバい亡霊だ。まともなのがいない。助けてくれ。


 俺が内心で救難信号を打ち上げているのに対して、後輩は目を見開きあんぐりと口を開いていた。他人の口の中を見る機会というのはあんまりないよなぁとか、そんなことを考えてしまう。歯並び綺麗だなコイツ。


 少し前までは弟――奉の歯磨きは俺の役割だったので、そのことを思い出してしまう。今の奉も大変可愛いが、昔の奉も可愛かったなぁ……。今度アルバムを見返すか。


「う、嘘をつくなぁあああああ!」


 成世が叫んだ。


 叫ぶな。



 ◆◆◇◇◆◆



【四年前/深夜】


 空にあるは不格好な月。

 黒に点在するは星の光。


 深夜の親水公園には人の息遣いがなく、静寂が響くばかりだった。


 ――そんな夜暗に溶け込むように歩く女が一人いた。


 佐田(さだ)花織(かおり)


 本日、首吊り自殺を試み、そして失敗した女。


 花織は自尽にすら失敗する自身の不出来さを嘆いたが、そのおかげで改めて大切なことを思い出すことができたし、結果的に大切なソレを投げ出さずに済んだことは怪我の功名とも言えた。そうしたことを踏まえて決意を新たにしたものの、だからといって事態が好転するかと言えばそんなことはなく、目の前に存在する現実はただ無情であった。


「仕事、どうしよう」


 働き口を失ったばかりの花織は心底困っていた。生きるには先立つモノが必要である以上、それを獲得するために働く必要がある。子供一人分の食い扶持に加えて、自身の活動も最低限出来る程度には稼ぐ必要があった。節約自体はいくらでもやりようがあるのだが、それだって消費を減らす方法でしかなく、元手がなければどうしようもないというのが実状であった。


 子供――悠理は泣き疲れて眠っているとはいえ、子供の前で悩む内容ではないと思った花織は一先ず家を出ることにした。気分転換のための散歩も兼ねて夜の道をそれなりに歩き、目に付いた親水公園へとふらりと入った次第である。


 園内にある池の周囲を歩きながら、どうしようかと無い頭を捻るがそんなものがすぐに思い浮かぶのであれば花織は今の境遇に身を窶していない。そうして、考えれば考えるほどに負の思考へと陥る。


「……これはよくない。えっと、とりあえず……、店長に頭を下げて、復職させてもらえないかお願いしてみましょう」


 そうやって考え込んでいたからか、足元が不注意になっていた。


 ――足先が何かに当たった。


 その何かは軽く、傍から見れば花織がそれを蹴った形となる。


 花織は驚き背筋を伸ばしてしまうが、その感触には心当たりがあった。空き缶だ。


 蹴り心地は軽く、地面を跳ねる音は金属のそれであり、響く軽さが中身の詰まっていない物体であることを実感させる。空き缶を蹴ったという事実には何一つ思うことはないが、意識が引き戻されたことによって世界の解像度が上がる。真っ先に意識へと触れたのは臭いだ。


「お酒くさい……」


 鼻腔を刺激するのは揮発したアルコール。


 足元を見やれば、街灯の光に照らされたビールの缶がいくつも転がっている。どれもプルタブが引かれており、中身が空であることを証明している。缶に印刷されている福徳の神――鯛を抱えている有名なおじいさん――の笑顔が、現在のシチュエーションも相俟って若干の恐怖心を煽る。


「んっ……」


 ――聞こえたのは人の吐息。


 びくりと、花織は本日二度目の背筋伸ばしを行った。恐る恐るそちらへ目を向けると、そこには中身の入っていない一升瓶を後生大事に抱えている女がいた。


 ――長い黒髪が掛かっていて顔はよく見えないが、性別ぐらいは判別出来た。


 周囲に散乱した空き缶と漂う酒気なども踏まえれば、明らかにこの惨状の主であることがわかる。


 ――普通であれば、ソレに関わろうなどとは思わない。


 致命的なまでに欠落した危機感と、直らない生来のお人好しが、花織を一歩踏み込ませた。


「あの、大丈夫ですか?」


 花織本人ですら、心のどこかでは理解している。あまり関わってはいけない類の人なのであろうことなど承知の上だった。それでも、ここで声を掛けなかったことで、後になってふとしたときに思い出してしまうことが辛いから、花織はこういう場面で声を掛けずにはいられなかった。



 □■■□



 最初にやったことは着衣に乱れが無いかの確認。


 幸いなことに、乱暴にされたような形跡はなかった。――つまり、この女性は自発的に酒浸りになった可能性が高いということであり、事件性は減ったけれど女性自身の危険性は高まったわけでもあるのだが、花織は後者にまで考えが及ばなかったため女性の無事を確認して安堵するばかりだった。


 次にやったのは女性の腕を肩にかけ、近くにあったベンチまでの移動。


 移動させたあとは周囲を確認し、女性の私物と思われるモノを回収する。


 ポーチが三つほど投げ出されており、それぞれ回収して女性を寝かせているベンチの隅に置く。


 女性のモノであろう携帯端末(画面にはめちゃくちゃヒビが走っている)もあったので、それも同様にする。ポーチがあるということはそれらを入れる鞄もあるだろうとさらに周囲を確認し、そして――


「…………え」


 鞄はあった。大きめの黒いトートバッグだ。見た目自体はなんの変哲もない。


 ――花織が驚いたのはその中身だった。


 中身を覗いたわけではない、他人さまの所有物を勝手に見るようなことを花織はしない。どうして中身が見えたのかと言えば、その鞄には中身がこれでもかと詰まっており、そのため口の部分が思いきり開いていたのだ。


 その口の部分から、内容物がはみ出ていた。


 ――日本銀行券。いわゆるお金であり、一万円紙幣の束が、これでもかと顔を覗かせていた。


 花織は人生で初めて大金と呼べる量の金額を見た。


 帯付きである。つまりは百枚の束だ。百万円である。そんな束が大きめのトートバッグに満ちていた。溢れて顔を覗かせるほどに満ちていた。


 ――思ってしまう。


 これだけあれば、借金も返せて、子供にも満足のいく生活をさせてやれるのではないかと。


 ――考えてしまう。


 これの持ち主であろう女性は酔い潰れており、動かしても目を覚ますことはなかった。


 ――脳裏を過ぎるのはこれからのことだ。


 どれだけ決意を新たにしようとも、現実はそう簡単には変わらない。お先は真っ暗で、それでも藻掻いて進むしかなくて、それでもどこまで進めるかわからなくて、想像できるのは先細りして潰えるだけの自身と子供の姿ばかり。


「………………」


 ――花織はそれに手を伸ばした。



 □■■□



 ――女が目を覚ました。


「……あぁ?」


 寝起きの第一声は怪訝に満ちたモノであり、その威圧感に肩を竦ませながらも花織は用意していた水――公園内にあった水飲み場から汲んできたモノ――をその女に差し出した。


「おはようございます。これ、お水です」


 水を入れるのに利用したのはその女が抱えていた一升瓶である。何度かすすいでから水を入れたので、酒気自体は残っていない。


「んー? ん、どうも」


 花織に膝枕をされていた格好になっていた女は上体を起こし、それが本当に水であるかどうか匂いを嗅ぐなどして確かめた後、一気に呷った。何度も豪快に喉を鳴らし、半分ほど入っていた水を飲み切る。そうして、やたらと美味しそうに「ぷはぁー!」と息を吐いた。


「酒の醍醐味ってのはさぁ、こうして酔い覚ましで水を飲んだときにもあると、私は思うわけよ。そこんとこ、お嬢ちゃんはどう思う?」


 機嫌の良さそうな女に対して、ほとんど飲酒をしない花織は曖昧に答えることしかできない。


「お酒は飲まないので、ちょっとわからないです」

「あらそう? こんなにイイモノなのに、勿体ないわね」


 女はそう言って、もう一度水を飲もうと瓶を呷るが中身は空なので水滴がいくつか唇を濡らしただけだった。ついさっき自分が飲み干したことを思い出した女は若干気まずそうに瓶を横に置き、しばしの瞑目を挟み、自身の状況に対して理解が追い付いたのか呟いた。


「ここ、どこ……?」


 ――花織は簡単な説明を行った。


 ここは親水公園であり、園内で女が酔い潰れていたこと。女の所有物と思われる携帯端末や鞄などは集めてあること。女が出したと思われるゴミも集めたこと。流石に放置は出来ないのでこうしてベンチに移動させて起きるまで待つか起こすかを考えていたこと。それらをどうにか説明した。


「はえー。久々の日本で飲み屋街を梯子しまくった記憶はあるけれど、そのあとの記憶がない。なんでこんなとこにいるんだ私……?」


 そんなことを聞かれても困ると思ったが、女は花織に対して聞いたわけではなかったようで、携帯端末を弄り始めた。何度かその画面に指を這わせたり叩いたりして、女はなにかの確認が出来たのか、花織の方を見て笑う。どうやら、携帯端末で自身の移動や金銭使用の履歴を確認したようだった。


「酔った勢いで適当な路線の終電に飛び乗って、終点で降りて、降りた先にあった居酒屋でまた飲んで、退店後にコンビニで酒買って飲み歩いて、ここに辿り着いたみたい! あっはー!」


 破天荒という言葉はこの女のためにあるのではないのかと、花織は真剣に考えた。女はまだアルコールが抜けきっていないのか、調子良く話し続ける。


「朝から飲み屋街を虱潰しに渡り歩いてさぁ。いやー、やっぱ日本の居酒屋文化って独特だよねぇ。似たような店がずらーって並んでいるのとか普通に異様な光景だと思うもの! あとはまぁ、なんつぅか下品ではあるけれど物騒さは低かったりとかさぁ。治安がね、歪だよね。まぁ歌舞伎町のあたりとかは下品ってか普通に汚いんだけれど。それでもやっぱり海外のスラムとかに比べると方向性が違うと言いますかね? いや、そもそも都市の中心部も中心部な歓楽街を比較に出しちゃダメか。この国だとそれこそドヤ街とかがそれらとの比較対象だよねぇ。つってもまぁ、それでもやっぱり海外のスラム街とじゃ違うわけよ。世紀が変わってからだと特にそこら辺の整備が急速に行われているし、生活保護の受給で日雇い労働すらせずに暮らす人間が出てくるわけで、もはやドヤ街って言葉も形骸化しちゃっている感じだ。世紀を跨いでも場所によっては暴動が起きて話題になるって話だけれど、話題になる程度には頻発していないってことでもあるわけで、やっぱりそこら辺は安全なほうなんだろうねぇ~」


「えっと、あの……」


 立て板に水と言える勢いで放たれる女の話に花織はついていけない。


 どう返事をしたものかと言葉に詰まる花織などお構いなしに、女は言葉を続ける。


「それこそ、私みてぇな見目麗しの女一人が酔い潰れていても襲われずに済んでいるあたり、マトモな方なんだろうね。とはいえ、とはいえね、だからと言って私はあなたの介抱を余計なお世話だったと言うつもりはないよ。倒れている人間を見て、私利私欲に動かされずに献身に徹することが出来るような人を私は悪く言うつもりなんて毛頭ない。――だから、そう、まず最初にこう言うべきだったね。ありがとう」


 ただただ圧倒されて言葉が出ない花織を見ながら、女は言う。


「私の名前は戸沼(とぬま)桃恵(もえ)。お嬢ちゃんのお名前は?」


「お、お嬢ちゃん……?」


 二十代後半である花織はその呼び方に当惑した。


 何故なら、桃恵の見た目は二十歳前後であったからだ。



 □■■□



 花織の名前を聞き出した戸沼桃恵はお礼がしたいと言い出した。


 花織はそれを丁重に断ろうとしたが、桃恵はそれに食い下がった。


「いやほら、そこをなんとか、ね? ここで恩人をみすみす逃したら私の女が廃っちまうわけでね。目には目を、歯には歯を、恩には恩をってねぇ。そういうわけで、花織ちゃんにお礼をさせておくれよ」


 初対面の人間に対して「ちゃん付け」である。花織の方が明らかに年上だし、花織は年齢のわりにやつれていることもあって見た目年齢はさらに加算して見える。そのことを踏まえても、花織をまるで若者のように扱う桃恵に戸惑うばかりだった。


「そう言われても……」


 花織としては人として最低限すべきことを行っただけであり、そこにそういった意図は存在しなかった。なので、恩返しと言われても困るばかりである。


「返報性の強い私はここで何もせずに花織ちゃんを見送るとこれから一生そのことを引きずっていくことになってしまうんだ。頼むよー!」


「う、うぅん……」


 ――そう言われると弱い。


 そもそも花織自身が後悔の念に駆られたくないからこそ桃恵を介抱したのである。自分の都合を押し付けたのであれば、相手の都合を押し付けられても仕方ないと考えてしまう。


 とはいえ、それでも、花織がしたことは些細なことであり大したことではない。だから、どうにかそれと釣り合う程度の――些細なお願いを考え、思いつく。


「――それなら、お話を聞いてくださいませんか?」


 今しがた自分が抱え込んでいる事情。


 解決してくれなどとは言わない。ただ、聞いて欲しい。


 相談できる人なんていなくて、子供には絶対に言えなくて、それでも誰かに吐露したいほどに自らの裡で膨れ上がった不安を、誰かに聞いて欲しかった。そう考えると、目の前の女はうってつけだった。偶然遭遇しただけの見知らぬ人で、やや落ち着いているとはいえ酔っ払いであり明日には今夜のことを覚えているかも微妙な人だ。


「ただ、聞いてくれるだけでいいんです」


 花織は思わず、縋るように言ってしまった。


「うん、いいよ。聞いたげる」


 桃恵は諭すような、優しい声音で頷いた。


 ――そして、両者の手には缶ビールが握られていた。


「…………えと、これは?」


 いきなり渡されたそれに目を落としながらも桃恵にそう訊ねるが、返事は言葉ではなく、カシュという音だった。


「話をするときは飲みながらのほうがいいよねー! ほら、花織ちゃんも開けて開けて!」


「あ、あの、その、私は苦いのが、苦手で……」


 成人を迎えてからビールを飲む機会はあったが、最初の一口があまりにも苦かったためにそれ以来ビール含めた酒類全般を花織は忌避していた。お酒を必要とするような付き合いも金銭的な余裕もないので花織自身それで困ることはなかったが、まさかこうして飲む必要が出てくるなど思いもしなかったのである。


 苦手であると正直に申告した直後に花織は思い至る。これはいわゆる飲みにケーションと言われるモノであり、こういった時に出されたお酒を飲まないと「俺の酒が飲めんのかー!」と理不尽に怒鳴られるのが必定なのだ。お酒好きに対して取ってはいけない態度を取ってしまったと、花織は怯える。


「あれま。そうなの? それじゃあそっちは私が飲もう」


 だが、桃恵は特に不快感を出すことはなく花織の手から缶ビールを抜き取り、まるで手品のようにどこからか二本の缶を取り出した。


「苦いのが嫌なら、こっちとかは甘いし飲みやすいよー。そもそもアルコールが嫌ってんなら、こっちのオレンジジュースにする?」


 どうやら桃恵はその辺の線引きが出来ている人間だったようで、花織にアルハラを迫ることはなかった。


「あ、それなら、そっちを試してみたいです」


 安堵した花織は桃恵の提案に乗ることにした。度数の低い缶チューハイを受け取り、プルタブを起こして開ける。すると、桃恵が缶を花織の前に掲げる。不思議に思い、花織は一度首を傾げるが、それの意味に考え至り、おずおずと掲げると、


「かんぱーい!」


 桃恵は嬉しそうに言って、花織の持つ缶に自身が持つ缶を軽く当てる。


「か、かんぱーい」


 花織がそう復唱すると、満足気に頷き笑った桃恵は一気に缶ビールを呷った。


 喉を何度も鳴らして、数秒で中身を空にする。少しばかり零れた黄金色の雫が口元を伝って顎に溜まり、落ちて、桃恵の胸元を濡らした。そんなことなど、この美味さの前では気にはならないとばかりに桃恵は口から息を吐いた。


 あまりにも美味しそうに飲むから、花織は眼前にあるモノがそんなにもいいモノなのかと思う。思い、唾を一度飲み、ええいままよとばかりに口を付ける。


「っ! おいしい……」


 以前に飲んだビールとは違い、渡された缶チューハイは程よい酸味と甘みがあり、まろやかだった。


「おいしい? それならよかった!」


 二本目を開けながら桃恵は嬉しそうに笑った。


 ――そして、花織は酔った。


 体質的に弱かったこともあって、すぐに酔いは回り、色々と緩んでしまった。


 結果として、花織は自身の半生を桃恵相手に語り尽くし、今現在自身が置かれている現状をあますことなく伝え、泣き、スイッチが切れたかのように寝た。



 □■■□



 戸沼桃恵と名乗った女は取り出した煙草を咥え、それにオイルライターで火を点ける。一口目はオイルの匂いが強いので、舌に馴染ませずに早々に上を向いて吐き出す。


 視界の端――東側の空は暗闇が薄くなっており、地平線は朝焼けによって赤く染まっていた。


「明けない夜はないってか。――結局のところ、それは夜を超えられる人間の言葉だ。その前に命尽きれば、そいつに夜明けは来ない、永遠にね」


 吸って、吐く。


「けれど、たとえ私が夜を超えられなくとも、事実として夜明けは来る。《世界》に夜明けは来る」


 吸って、吐く。


「そのくせ、《世界》が夜明けを失えば、私もまた夜明けを失うことになる」


 吸って、吐く。


「極夜という現象がある。極圏――北極圏や南極圏で起きる現象でね。早い話、夜明けが来ない現象だ。約一ヶ月間、夜が明けないわけだ」


 吸って、吐く。


「なんて理不尽な関係性だろうかね。私は《世界》を構成する一つで、それに振り回されるのに、《世界》は私という一つを欠いても変わらない。嫌というほどに自身の矮小さを思い知らされる」


 吸って、吐いた。


「まぁ、そんなもんか」


 自身の膝を枕にして眠る佐田花織の頭を撫でながら、短くなった煙草を握り潰した。



 □■■□



 起床した佐田花織が最初に感じたのは匂いだった。


「おや、目が覚めたかい? それなら顔を洗ってきなさい。そうしたら朝ごはんだ」


 台所に立つ女性――戸沼桃恵がまな板を洗いながら言う。


「おはよう。お母さん」


 ローテーブルについていた子供――悠理が目覚めの挨拶をしたので、花織は言葉を返す。


「おはよう。悠理」


 テーブルの上には湯気を立てる白米、出汁と味噌の匂いを漂わせる味噌汁、ほどよい焼き目の付いた鮭の切り身、きんぴらごぼうにきゅうりの浅漬け。オーソドックスな一汁三菜の和食が卓上に並んでいた。


 花織は言われた通りに洗顔し、食卓についた。

 桃恵が手を合わせる。


「いただきます」


 その言葉を親子が復唱する。


「いただきます」「いただきます」


 悠理からすれば見知らぬ女性が家にいるという状況であり、花織からしても名前ぐらいしかわからない相手ではあるが、始終物事の音頭を桃恵が取っているため、そのことについて口を挟む余裕はなかった。花織としては悠理が落ち着いていることもあり、下手に騒いでややこしいことになるのは嫌だからと、状況に流されて生きてきた悪癖が出ていた。


 花織は味噌汁の入った椀を取り、口をつける。


「……あ、おいしい」


 思わず漏れ出たというその言葉に、桃恵は緩く微笑む。


「そう。それは重畳ね」


 それから花織はただ黙って箸を進めた。


 ご飯は温かくて、鮭は塩味が効いていて、気付けば涙が溢れていた。そんな花織を見て心配する悠理に大丈夫だと言い、花織はただ食べ続けた。



 □■■□



 登校する悠理を見送り、二人きりとなった花織と桃恵はローテーブルを挟んで向かい合って座っていた。


「さて、事情は理解した。実状も把握した。その上で私は思ったことを言わせてもらうよ」


 桃恵は部屋の端に置いていた鞄――トートバッグを引っ張り、それをテーブルの上に置いた。そしてその中身を取り出し、卓上に積み上げていく。束の塔が高くなり目線ほどの高さになれば次の塔を作り上げていく。それを何度も繰り返して、取り出し終えると中身がなくなって平らになったトートバッグを横に放り捨てた。


「一万円札百枚の束が百。しめて一億円だ。重さは十キログラム。一枚一グラムの紙っペラも一万枚集まると重さを感じることが出来るよねー。――で、だ」


 札束の塔の頂上から一つの束を手に取り、それをぱらぱらと捲りながら、桃恵は言う。


「――なんで、あなたはここからお金を取らなかったの?」


「なんでって……」


「お金に困っているんでしょ? それで目の前にお金があった。持ち主は泥酔している。いくつか抜き取ってもあなたが盗ったとはバレようがない。そういう状況だった。だというのに、どうしてあなたはそうしなかったの?」


 それは昨夜に花織が考えたことだった。全部とは言わなくともいくつかの束を抜き取ればそれだけで生活が楽になる。盗むのは容易な状態で、その考えが何度も脳内を過ぎった。そうするだけで悠理に美味しいモノを食べさせることが出来て、欲しいモノを買い与えることが出来て、行き詰まるだけだった暮らしに余裕が生まれる。


「でも、それは……、人のモノを盗むのは、いけないことで……」


「うん、その通りだ。窃盗は犯罪だ。だけど、犯罪ぐらい、ユーリくんのことを考えればどうでもよくないか? あなたは誓ったんだろう? 子供の為に生きると。子供の為に頑張ると。子供の為ならどんなことでもやろうと、そう思ったんじゃないのか? だったら、私を介抱するなんてことをしている場合じゃなくて、もっとすべきことがあったでしょ」


「それは――」


「いけないことをしてでも、生きていくと決意したんじゃないの? 地べたを這いつくばり誰にも後ろ指を刺されるようなことをしてでも、どうにかすると誓ったんじゃないの? 子供を独りに――一人残して自分だけが死んで楽になろうという大罪を犯そうとしたのに。それに比べれば窃盗なんて大したことが無いだろう? いいかい。バレなきゃ犯罪にはならないんだ。なのに、あなたはその機会をふいにした。決意も、誓いも、想いも、その程度だったの?」


 桃恵の問い詰めに、花織は言葉を失う。何を言えばいいのかわからなくなる。何かを言わなければならないと思い、何かを発しようとするが、口を開いても喉が震えない。あ、という単語の一音すら形に出来ない。


「あなたはとても弱い人間ね。弱くて、儚くて、薄くて、脆い。だから、そういう選択ができない。罪を犯すことすらできない」


 テーブル越しに桃恵は手を伸ばす。その両手が花織の頬を包み、顔が近づく。


「あなたは盗むべきだったんだ。子供のことを考えるなら。先のことを考えるなら。罪を、罪悪を背負ってでもなお、盗むべきだったんだ。それを隠し通して、最後まで貫き通すべきだった」


 桃恵の瞳が花織の目を見据える。その瞳孔は開いており、大きな黒が花織に近づく。


 ――そこで、恐怖心が消えた。


 自身の顔を包む手が温かくて、柔らかくて、優しいことに気付けたからだ。


「それ、でも――」


 口の中が渇いていたからなのか、言葉が掠れて詰まった。


 だから一度、舌を這わせて口内を濡らして、花織は喉を震わせた。


「それでも、私は、いけないことだけはしません。他の誰かにどう思われようとも構いません。それでも、あの子に――悠理に顔向けができないことだけは、絶対にしません」


 その言葉を受けて、桃恵は言う。


「綺麗事だね。――あぁ、でも、だからこそ、それを吐くからには綺麗ではなくてはいけない。あなたは子供のために綺麗であろうとした。ただ愚直に綺麗であり続けた。愚かだね。それでは守れないモノがあった。でも、愚かではあるが、そうすることによって守れたモノも確かにあったのだろうね」


 にこりと桃恵は相好を崩して、花織の引き攣った頬をその両手で優しく揉んだ。


「いいかい花織ちゃん。あなたは愚かだ。色々と方法はあったのにその悉くを逃したんだ。それはあなたがモノを知らないからだ。知らない。知ればどうにかなることすら知らない。だから何もできない。何もできないからただ黙って搾取される。悲鳴を上げることすらなく潰えていく。黙って勝手に自滅するやつを助けるほど社会は暇じゃないの」


 ――暇がないというより、余裕がないというのが正しいわね。


 桃恵はそう付け足して、花織を見据える。


 花織の左手は頬から頭に移っていて、優しく撫でていた。


「じゃあ、あなたはどうするべきだったと思う? ――今、あなたはどうするべきだと思う?」


 桃恵は言った。花織はモノを知らないと。知らないことすら知らないと。だから花織はどうすればいいのか分からずに困るのだと言った。その上で、黙っていることを非難した。


 だから、花織は自身が口にすべき言葉を言った。


「助けて、ください。私は、どうすれば、いいですか?」


 誰かに頼ることすら忘れた女は、目の前の見知らぬ女に助けを求めた。


 知らないことを知った今、黙ることを止めた。


 悲鳴を上げた。


「よく言えました」


 桃恵は微笑んだ。


「いいよ。助けてあげる」


 そして立ち上がり、言った。


「それじゃ、役所に行こうか!」



 □■■□



「一通りの申請、完了だー!」


 役所から出た桃恵は一仕事を終えたかのように両手を上げた。


「手当って色々とあるんですね……」


 花織は桃恵から渡された児童手当などの資料(内容が桃恵によって簡略化されたモノ)を見ながら感慨深げに呟く。


「手続き自体はそう難しいモノでもないし、条件さえ満たしているのなら誰でも申請できるのだけれど、そもそも知らないとどうしようもないからねー」


 桃恵は横や後ろであれこれと指示を出していただけだが、花織の現状を把握していたこともあってかどういった手当を受けられるか、どうすればいいかの指示は的確であり、ほとんど躓くことなく終えることが出来ていた。


「なるほど。知らないと、どうしようもないんですね……」


 そのようなやり取りをし、桃恵が言っていた言葉の意味を噛み締めながら帰宅した花織は改めて正座をさせられていた。テーブルを挟んだ対面に座る桃恵もまた正座をしていた。


「飢え人には魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ。――老子の有名な言葉だ。でもまぁ、私は親切なので釣り方を教えた上で、魚も与えよう。釣るのにだって体力はいる。飢えていてはその前に死んでしまうかもしれないからね」


 そう言って、桃恵はバッグから一万円札の束をひとつ、ふたつ、みっつと重ねていく。気付けば山が出来ていた。


「五千万円。これさえあれば当座はしのげるだろう」

「いや……、いやいやいやいやいやいや」


 サァと顔から血の気が引いたのを自覚した花織は首を振った。とても振った。人生でこんなに首を振ったのは初めてだと思うぐらいに振った。ぐきりと嫌な音がして、花織は首を押さえてうずくまった。


「なにやってんの……。大丈夫? ほれ、見してみ」


 呆れた声を出しつつも桃恵は花織の首を触り、指で何度か揉むと不思議と痛みが引いた。


 痛みが無くなったことに驚きつつも、花織は自分の考えを言う。


「そんなお金、受け取れません」


「あ? なに? まだそんなこと言ってんの? 喉から手が出るほど欲しいでしょ? 遠慮は美徳にゃならんよ?」


「……それを受け取っても、借金の相手が桃恵さんに変わるだけです」


「いや、貸すわけではなくてあげるのだけれど」


「だとしたら、なおのこと受け取れません。私はそのお金を受け取るようなことをしていません」


「酔い潰れていた私を介抱してくれたじゃん。その謝礼」


「その分は、相談を受けてくれたことと、手当について教えてくれたことで十分に釣り合っています」


「えー、じゃあそういうのいいからあげるよ。確定申告する際はちゃんと一時所得として申告するんだよ?」


「受け取れません! 確かに私は困っていますし、悠理のためならどんな苦しいこともするつもりです! それでも、お金をこんな受け取り方をするのは違うんです!」


「私が渡すと言っているのに?」


「そこに私の納得はありません……。それを受け取ることに、正しさはないです」


 そう言われて桃恵は嬉しそうに笑った。


「つまり、受け取るに足る理由があれば――そこに正当性さえあれば、花織ちゃんは受け取るわけだ」


「それは、そうですけれど……。でも、そんな理由はありませんよ」


 花織としてはどれだけ考えようとも、そのような大金を受け取るに足る理由はなかった。彼女にとって一番重要なことは子供に顔向けの出来る親であることだ。プライドや正義感などではなく、子供を育てる自身が間違った在り方をしてはいけないという思いがあった。正しい親であれたとは到底言えないが、それでも人として、親として間違ったことをしないようにするべきだと考え生きてきた。それすら、一度は失敗した。だから、二度は間違えないと、そう誓ったのである。


 だが、そんな花織の心境などお構いなしに桃恵は笑っていた。口角を吊り上げて悪い顔をしていた。


「言ったな? 認めたな?」


 その迫力に花織はたじろぐ。


「は、はい」


 そう返事をすると、花織は札束の山から、束を五つ掴みそれ以外を卓上から叩き落とした。


「じゃあ、この五百万はあなたのものだ! これを渡す義務が私にはあるし、受け取る権利が花織ちゃんにはある!」


「えっ、え、え……?」


「私はあの公園でお金を落とした。花織ちゃんはそれを拾って私に返した。そうよね? イエスかノーかで返事ィ!」


「い、イエスです!」


 事実だ。親水公園にて花織は散乱していたモノを拾い集めて桃恵に返した。そのうちの一つには現金の詰まったバッグも存在した。


「いいかい花織ちゃん? 落とし物を拾った人はお礼を貰えるの。法律で決まっているんだよ。私には報労金を払う義務があるし、花織ちゃんにはそれを受け取る権利がある。拾得物の価値の五パーセントから二十パーセントを払うのが報労金の決まりだ。基本は最低値で渡されるから私もそれに倣うとして、一億円の五パーセントだから五百万円。これは正当な金額だ! おかしいと思うのなら警察に行ってもいいよ! ポリ公どもの目の前で正式に渡してあげようじゃないか!」


 そう言って桃恵は花織の手に札束を置いた。


 花織はもうされるがままだった。


「これを受け取る資格があなたにはあって、あなたにはこれを拒絶する理由がもうない」


 そこまで行くと花織には反論のしようがなかった。ただ、こんなことが自分にあっていいのかと、そう考えてしまう。それは今までの自分の人生においてあり得なかった幸運であり、唐突に突き出されたそれにどう対処すればいいのかが分からなくて困惑するばかりだった。


「あれは、たまたまで」


「偶然だろうと関係ないさ。あるのは純然たる事実よ。私が落として、あなたが拾ってくれた」


「でも、そんな誰でもできることで……」


「その誰かが、あなただっただけだよ」


「そんな程度のことで、運が良かっただけで、こんなにお金を……」


「棚から牡丹餅大いに結構。どれだけ言おうと、それを受け取る権利があるのはあなただけだし、それを受け取る正当性があなたにはあるのよ」


「…………」


 それでも花織は躊躇った。自身の中で折り合いが付かず、手を伸ばしきれない。


「ユーリ君の幸福を花織ちゃんは願うかい?」


 突然の問いではあるが、花織はそれに対しては戸惑わない。


「はい。もちろんです」


「じゃあ、良いことを教えてあげよう。いいかい花織ちゃん。――人を幸福にできるのは、幸福な人間だけなんだよ。まずはあなたが少しでも幸福にならないと、これ以上あなたはユーリ君を幸福にできないよ」


 花織は音楽に触れているだけで幸せだった。


 その幸福は些細ではあるが、生きるには十分なモノだった。


 そんな花織にとって、初めての大きな幸せは悠理が生まれたことだった。


 生まれてきてくれただけで嬉しかった。幸せだった。だから、悠理を育てようと思えた。でも、それにも限度があった。ついには綻びが生じて当然のように崩壊した。


「だって、ユーリ君もまた、あなたの幸福を願っているのだから」


 その言葉は救いだ。


「あなたの人生は失敗ばかりね。でも、子供に幸福を願われるということは、親として子供に幸せを与えることが出来た証だ。それはきっと、成功以外の何ものでもないよ」


 誰かに言って欲しかったわけではない。

 自己満足でしかない。

 それでも――


「よく頑張りました」


 認められたような気がして、花織は嗚咽を漏らした。



 □■■□



 その後、佐田花織の人生は変化した。


 借入金の返済を行った後、戸沼桃恵に指示された通りに過払い金返還請求を行った。それによって満額とはいかないがある程度の金額が返還された。また、返還請求直後には消費者金融の人間が怒り狂ったかのように家にやって来たが、桃恵があっさりと送り返し、その後は姿を見せなくなった。


 桃恵曰く「アレは廃業になった」とのことだった。


「なんか撲滅に動いていたようだから、ちょっと背中を押したのよ」


 花織の理解が及ばないところで何かしらのことをしていたらしい。


 桃恵に仕事先を斡旋され、以前に勤めていた工場に形態の近しい職場で働くことになった。経験があることが幸いし、現在も問題なく働けている。戻って来たお金や手当によって生活水準を人並みに近づけることができた。


 一度だけ、桃恵の強い勧めで株を購入したことがあり、それが急激に高騰した際は眩暈を起こしたこともあった。株価の動向で心労が溜まりそうなこともあってすぐにその株は売り払い、その後は桃恵にアドバイスを受けて投資信託へとシフトした。


 その後、桃恵は一年に亘って佐田親子の様子を定期的に確認しに来た。その度に日本各地のお土産と一緒に色々な話を聞かせてくれる「桃お姉ちゃん」に悠理はとても懐いた。桃恵が顔を見せるようになってから花織がよく笑うようになり、生活が良くなってきていることを理解していた悠理は桃恵を尊敬するようになっていたのである。


 そんな桃恵も、二人の生活が安定した後半になるとほとんど姿を見せなくなった。


 ――最後に会ったとき、桃恵は日本を離れるのだと言った。


「こっちでやることは大体済んだし、次に来るとしたら数年後かな」


 子供である悠理にとって数年というのは途方もない時間であり、長い別れだった。


 行かないで欲しいと思ったが、そのような我儘を口にできるような育ち方をしていない悠理は何も言えなかった。そんな悠理を見て桃恵は微笑み、自身が付けていたヘアピンを外して悠理の髪に留めた。


「うん、可愛い。ユーリ君は可愛いねぇ。私は可愛い子が大好きだよ」


 わしゃわしゃと頭を撫でられながらそう言われた悠理は「そうなのか」と思った。


「そのヘアピンは私の作品でね。結構な自信作なんだ。幸運のおまじないが掛けてあるの」


「おまじない?」


「そう、厳密には魔除けかな。なんていうかなー、悪いモノが近寄り難い感じになるの。ほら、そういうのさえ遠ざければあとは良い運気とかしか寄ってこないでしょ? だから、実質的には幸運のおまじない。大事にしてくれると嬉しいな」


「うん。大事にする」


「よーしよし、ユーリ君は可愛いし良い子だな~。その調子で花織ちゃん――お母さんのことも大事にするんだぞー?」


「わかったよ!」


 と、威勢よく返事をしてから悠理はふと思い出す。


 運気という言葉を聞いて、思い出した。


 運。運勢。――占い師。


 そのことが気になり、一年前に出会った占い師のことを桃恵に話した。


 ――縄のことを話した。


 もしかしたら、アレは占い師なりに佐田親子の閉塞した未来をどうにかしようとした結果なのではないのか。そして、そうであるのならば、桃恵に佐田親子が会えたこともまたあの占い師によって引き起こされたことなのかと、そう考えたのである。


 だが、桃恵はそれをやんわりと否定した。


「うーん、どうかなぁ。私はもうそういうのには映らないようになっているから、少なくとも私との出会いは本当に偶然だと思うよ」


 そう言われてしまい、悠理は少し肩を落とした。


「けど、縄のことを聞く限りそっちは本物っぽいかな。いやぁ、すごいねぇ」


 桃恵に対して子供特有の無邪気な信頼を向ける悠理としては、桃恵から本物認定された占い師と出会ったという事実に少しばかり興奮していた。


「また会ってみたいな」


「おや、何か占って欲しいのかい? それなら私だってそれっぽいのは齧っているからできたりするけれど」


「ううん、違うよ」


「違うのか。じゃあ、会ってどうするのさ?」


「お礼を言いたいんだ。お母さんと一緒にいられるようにしてくれてありがとうって、言いたい」


 それを聞いて、桃恵は少しばかり目を見開き、


「――そうか。そうだね。それは伝えるべきことだ。だから、忘れないでいなさい。それでいつの日かその機会が訪れたら、ちゃんと伝えるんだよ?」


 嬉しそうに、眩しいモノを見るように眺めながら悠理にそう言い聞かせた。

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