◆二十三話:禍福は糾える縄の如し。ただし、縄がどこで途切れるかは人による
「お母さん!」
子供の声が響く。恐る恐るといった手付きで身体が揺らされている。そうされていることを花織は自覚した。意識があることに疑問を抱いた。人間は死ねば全てが終わると思っていた花織にとって、その先があるということに驚きを覚えていた。
「お母さんっ!」
だが、その驚きは吹き飛ぶ。はっきりと聞こえたその声は子供――悠理のモノであり、切羽詰まった悲痛な声だったからこそ、花織は目を開けることが出来た。
「悠理!」
視界に飛び込むのは滂沱し顔をくしゃくしゃに歪ませた悠理の顔。花織が目を覚ましたことに気付いた悠理はさらに顔面を歪める。花織が動かなかったことへの不安と、置いていかれそうになったという悲しみと、母親が目を覚ましたという喜びが綯い交ぜになった不格好な泣き笑い。
「おかぁ、さん! ごめっ、ごめんな、さい! 僕のっ、せいでお母さんがっ、つらいことに、なっていて、ごめんねっ……。それでもっ、それでも、僕はお母さんと、いたいよ! お願いだから、置いて行かないで!」
佐田悠理は今の自分が無力であることを理解している。母の負担になっていることを把握している。そのせいで母が苦しんでいることを知っている。
それでもなお、子供は親と共にいたいと願った。置いて行かないでくれと願った。
母に殺されることを受け入れることは出来ても、母に置いて行かれることは耐えられなかった。
だから、悠理は我儘を言った。
我が子に手をかけることが出来ないのであれば、生きてくれと願った。
――二人で一緒に、この苦しみを続けようと、そんな我儘を言った。
――花織はそこで初めて、悠理の我儘を聞いた。
悠理がわがままを言うことは今までなかったのだ。正確には、言えるような境遇ではなかった。
辛酸を嘗める母親を目の前にして、そのようなことを言うなど出来なかった。
それを花織は理解していた。そのことに花織は助けられていたが、苦しめられてもいた。自身の不足を見せつけられているようで辛かった。
――子供にそこまで言わせたということを花織は噛み締める。
噛み締め、改めて、決意した。
「ごめんね。お母さん、逃げようとした。でも、もう逃げないよ。一緒にいようね。お母さんはどこにも行かないよ」
そう言って、泣きじゃくる我が子を花織は抱きしめる。
――花織の首に巻きついた紐の先は千切れていた。
◆◆◇◇◆◆
「首吊り自殺が失敗する要因の一つに、縄が重さに耐えられなくなって死ぬ前に切れる。というのがある」
混乱する成世を引っ張って部屋に戻り、説明を要求する後輩に語り始める。
「……行きの電車で、そんなことを言っていた気がします」
成世は鼻声だった。俺は部屋に備え付けのティッシュを箱ごと成世に渡す。受け取った成世がこちらから顔を隠して鼻をかむ。
そういえばそんな話もしたなぁ。
「首吊りによる死因の種類は頸動脈、或いは気道の圧迫による酸素欠乏か、落下の勢いによる脊椎の損傷が主だったものになる。後者はある程度の高さが必要なこともあって、家屋内でやろうとすると、前者になりがちだったりする。特に、落下式の仕組みが分かっていなかったりする場合だと、そうなる」
「前者――首絞めの方は苦しむんですよね」
「そう。けれど、逆に言えば死ぬまでにタイムラグが存在する。苦しむ時間が存在するわけだ。そして、時間を掛けた場合、それだけの負担が縄に掛かる」
「負担に耐え切れなくなった縄が、花織さんを殺す前に千切れたと言うんですか?」
「まぁ、そういうことだろうな。だから、占い師は古びた縄を持ち帰るように悠理くんに指示したし、それが花織さんの視界に入る場所に置くように誘導した」
成世はイトの行動に納得がいかないようだった。
「なんで、そんな回りくどいことを……。それならもっと、別にいい方法があったんじゃ?」
「んー、ここはまぁ俺の憶測というか推論になるのだけれど、成世は未来予知というモノに対してちょっと勘違いしているのだと思う。少なくとも、あのイトって占い師が持つ未来視に関しては、過度な期待をしていると思う」
どういうことだと目で訴えてくるので言葉を続ける。
「簡単に言えば、イトは未来を見ることが出来ても、変えることは出来ないんだよ」
「それはどういう……?」
「そのまんまの意味だよ。確定した未来をかの占い師は覆せない」
――もしくは、変えることは出来ても、変わった先までは見えないのだろう。多分、これが正しい。
変えて初めて、その先を知ることが出来る。だが、変わった先が分からないまま変えたとして、それが必ずしも良い結果に変わるとは限らない。
――では、果たして、その未来視に意味はあるのだろうか。
「世界には矯正力みたいなモノがあるとも言うしな。変えようとして、その場限りで回避したとしても、先延ばしにしただけで、結局そのあとになって似たような事象が起きることもあるんだと」
これはスノウの言だ。世界の持つ収斂機能だと、そう言っていた。
「そうなると、イト様の未来予知能力に意味はないということになりませんか?」
「かもしれないな。――というか、イト本人が言っていたんだろ。『運勢は変わらない。変えるのは心構え』って」
多分だけれど、それは戒めの言葉だ。自戒の言葉。
「成世くんや、シュタゲは観たかい?」
「なんですか、藪から棒に。というか、なんスかねその口調……。観ましたけれど。なんならゲームもやりましたよ」
なら、話は早い。
「確定した未来があるとしよう。それを大きく変えようとすれば、どうなるかわからない」
イトが見たのは、首を吊った女を見る佐田悠理。
それは、避けようがない。避けたとして、避けた場合にもっと悪化する可能性がある。
「では、大枠は変えずに、余地のある――先のある状態にするにはどうすればいい?」
「……騙す?」
「そういうことだ」
いや、騙すと言うよりかは、騙ると言った方がいいだろう。
「イトは縄の取り換えだけを行った。そうすることで、首を吊る未来はそのままに、縄が切れるところまでを幻視した。それが、一番確実だったんだろうな」
――イトが視ることのできた、佐田花織が首を吊った上で死なない未来。
「……イト様に出来ることとしてはそれが最善だったってこと?」
「最善かは知らないけれど、きっと彼女なりの精一杯だろうな」
死なない未来ではあるが、必ずしも救われるとは限らない。その先に苦難が待ち受けていることなど、未来を見るまでもなく、誰にだってわかることだったからだ。
――イトは言葉を生業とする人種である。
どれだけ取り繕うとも、吐いた言葉には色が滲み出る。嘘や誤魔化しは言葉を濁す。特に、魔術師はそういうモノに敏感だ。魔術師である空海成世が“イトの言葉は誠実である”と感じたのであれば、それに間違いはないのだろう。
であればこそ、彼女は自身の言葉に対しては、誰よりも真摯であろうとしているはずだ。
――身の程を弁えろ。
それはきっと、誰よりもイト自身に向けた言葉なのだろう。
“少しばかり先が見えるだけの人間にできることなんて限られている”
“最悪を避けているだけで十分”
“少し先が見えるだけの人間にできることなんて、たかが知れている”
彼女は自身の能力を理解している。その限界をしっかりと理解している。
その上でどうすべきかを考え、実行している。
――それだけで俺はイトという人物を悪く思えなくなる。
見えた未来を変えることが出来ないと知った上で、それでも、どうにか良い方向へと導こうとする。自身の至らなさを理解してなお、より良い未来へと行って欲しいと願う。
そうして、ほんの少し、ほんの少しだけ良い方向へと進んだ未来を見て、かの老婆は笑うのだろう。
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【一月六日/午後】
「女難の相が見える」
「あれっ? そっち系?」
変な引きになりましたけれど、次回は主人公と占い師の会話となります




