◆十三話:運命って信じる?
【一月五日/午前-朝】
目が覚めた成世から事情聴取をした。
「勝手なことをしてくれる」
声に呆れが滲んでしまう。怒っているのが伝わったのか、成世は肩を小さく震わせる。
佐田悠理が怪しいからと探ってみたら、トラウマを受けてしまいました。というのはなんというか、アホの子だ。やる気が空回りしているようにも思える。
「ご、ごめんなさい……」
いつになく殊勝な態度だ。まぁ、叱っている時はこうでないと困る。
「記憶なんてそんな気軽に見るものじゃないんだよ。覗くぐらいならまだいいけれど、なぞるのはいただけない」
成世がやったことは記憶の『鑑賞』というよりも記憶の『体験』と言った方がいい。そして、体験による記憶の再生は感覚が残る。まるで自分自身の記憶であるかのように錯覚する。錯覚が多ければ多いほど、元の記憶との区別がつかなくなり自己の正確性が曖昧になる。同一性が保てなくなれば不安定にもなるだろう。ただまぁ、幸いなことに成世のそれは中途半端なタイミングで終わったようだし、意識の混濁も起床直後がピークであり今は落ち着いている。
「はい、もう一度確認な。お前の名前は?」
「空海、成世です」
「そう。お前は空海成世。お前さんのお袋はお前が産まれてすぐに亡くなった」
「っ……」
成世は起きてすぐには首を押さえながら「お母さん、お母さん」と喚いていた。
母という存在に対する記憶が欠落していたこともあって、佐田悠理の母との記憶はその空白にあっさりと嵌ってしまったのだろう。
「お前に母との記憶はないよ」
たとえ、その記憶がどんなに重く温かいモノだったとしても、俺はそれが紛い物であることを指摘する。それはどちらの母に対しても失礼なことだから、ちゃんと否定する。こんなこと、赤の他人である俺に言われても嫌なだけだろうけれど、それでもちゃんと否定する。
――それにしても、成世がこうも打ちのめされているのは意外というかなんというか。
要領を得ない話し方ではあったが、佐田悠理がかの占い師に出会うまでの経緯は理解したし、どういった家庭環境で育ったのかも把握した。
ありふれた話だ。ありふれた不幸の話。
辛いことだし、苦しいことだし、そりゃ悲しいことだけれど、それでもありふれた話だ。
不幸の度合いなどというモノを語るつもりは毛頭ないけれど、よくある可哀想な話でしかない。この世界では、誰か一人だけが辛いわけではない。
成世自身、つい最近までは碌でもない状態にあったわけだし。
いや、今だって別にそれが改善されているわけでもない。一族全員死んでいることに変わりはなくて、延命措置だって俺やスノウが死ねば途切れる不十分な状態だ。十代の少女が背負うにしては些か重いモノを背負い生きている。そんな成世だからこそ、ちょっとやそっとの辛苦であれば跳ね除けそうなモノなのだけれど、かなり参っているようだった。
――まぁ、苦しさの質が違うか。
不幸に大小はないかもしれないけれど、その方向性には違いもあろう。貧窮とは縁のない生活を送って来た成世からしてみれば理外の苦しみだったろうし、家族愛に飢えている部分もあっただろうから、それが見事に刺さったといったとこかね。
「結局、佐田悠理が魔術師とどういった関係があるのかは不明なのな」
「うっ……」
空振りに終わったという事実を改めて突き付けられて成世が呻く。とはいえ、収穫が何もなかったかと言えばそうでもなくて、成世もそのことを主張する。
「でも、悠理ちゃんが昔に出会った相手が実際にイト様であり、イト様の能力が本物であることがわかりましたよ!」
「そうだなー。とはいえ、イト様とやらの未来予知能力が本物なのはハナから分かっていたことだし、肝心な条件とか対象範囲とか精度とかの詳細が分からない時点であんま意味ないよな」
「――なっ、はっ、ふぁっ!? 最初から分かっていたって、どういうことですか!?」
「え、いや、どう考えても本物であることは確定事項だろ……」
そうでなければ南雲さんが俺たちをここに寄越す理由にならない。あの人の目的は未だ不明ではあるが、少なくとも『世界端末』に関するデータの収集には本腰を入れている。
魔法使いが世界端末に接触した時の反応。彼が今回求めているのはそんなとこだろう。
これでイト様とやらが魔法使いである可能性が低い場合、わざわざ俺や成世を遠出させるのは動機として弱いのだ。それならもっと確度の高い推定魔法使いを探して、会わせようとするのが南雲飾という人間だ。
とまぁ、そんな俺の憶測を伝える。
「最初に、言えっ!」
そういえば言ってなかった。
□■■□
結局、佐田悠理が俺と接触を図ったことの本意は分からない。でもまぁ、ただの偶然で片付けていいと思うんだよな。旅先で会った優しそうなお兄ちゃんに懐くというのは、子供であればそう不思議なことではない。
「先輩にわけもなく懐くとかありえない」
「ひどい」
「ひどくない」
「その言い方がなおひどい……」
「とりあえず、先輩は悠理ちゃんと会う時は注意してくださいね。もし先輩の勘が当たっていたとしても、あの子に魔術師との繋がりがあるのは事実なんです。用心するに越したことはないんですから」
「あいよ」
佐田悠理に魔術師との関わりがあるという理由の根拠は、成世が行った『記憶の体験』が途中でかき消されたからである。本来、成世は現時点までの記憶を大まかに追想するつもりだった。だが、それは途中で阻害された。十中八九、魔術師によるプロテクトだろう。刀河謹製の魔具による侵入を部分的に防いだのだから実力も低くない。
プロテクトの種類としては、その魔術師自身に関する記録を外部の人間によって取り出せないようにしているのだろう。おそらくだが、佐田悠理自身も魔術師への認識は出来ていても名前や容姿などを明確にイメージできない――あるいは伝えられないようになっているはずだ。
そのあたりの話を二人でまとめ、スノウに共有する情報を整理していると、何かに思い至ったのか成世が真剣な顔になった。
「あのですね先輩」
「なんぞ」
「イト様、危なくない?」
「ふむ、その心は?」
「だって、お母さんが首を吊るために使ったのって、あの占い師が勧めた縄で、それがお母さんの視界に映ったからでしょう? だからわざわざ目立つところに置かせたんですよ!」
成世の口ぶりから、少しばかり余裕がなくなる。頭の中ではそのときの光景がフラッシュバックしているのだろう。そのせいで、少しばかり声に震えが混じっている。
「お母さんはあの日、とても疲れていて、それで魔が差してわた――……悠理ちゃんの首に手を添えて、でも、悠理ちゃんがそれを受け入れて、そのことに気付いて、そんなことを受け入れさせてしまったことにお母さんはショックを受けて、それで、そんな状態で人一人吊るせそうな縄が目に入ってしまって、お母さんは追い詰められていて、正常な思考なんてできるはずがなくてっ……!」
言葉に詰まるようなので、こちらで引き継ぐ。
「それで、佐田悠理のお母さんは首を吊って死にました。と。保護者の死んだ佐田悠理がどうなるかと言えば……父親が不明であれば母方の祖父母や親類縁者に引き取られるか、施設かな。でもまぁ、こうして旅行に来ているところを見るに、少なくとも母と二人で暮らしていた時よりはマシな生活を送れているわな。あぁ、だから“お礼”なのね。確かに、生活はよくなっている」
「でも、それはあまりにも乱暴なんです」
あぁ、佐田悠理もそう言っていたね。乱暴。……乱暴か。
「だから、苦情でもあるわけだ。解決方法が手荒だったから。そんで、だからと言って、それがイト様とやらの危険に繋がるってのはどうしてかな?」
生活自体が改善されたことにお礼を言いつつも、乱暴な手段での解決に文句を言う。
そこに危険性などないように思えるが、成世はそうは思わなかった。
「いや、復讐するでしょう?」
成世は当たり前のように言った。
「え、する?」
「しますよ。大好きだったお母さんが死ぬ要因となった人がいて、それに会う機会があるんですから。するでしょ。――殺すでしょ」
瞳孔が開いていて怖い。とりあえず、自分をその立場に置き換えてみる。
十数秒ほどかけて、先ほどの想定に自分を配置して考えてみた結果。
「確かにするなぁ」
「でしょ?」
こちらの同意に成世が「ほらね」といった感じで指をさしてくる。
ええい、人を指でさすのはやめなさい。その指先をつまんで降ろさせる。
「とは言えな? したいのとできるってのは別だろ。子供一人で人を殺すってのは無理がある。加えて、イト様は護衛に守られている。ナイフを胸に突き立てりゃ死ぬだろうけれど、そのナイフの持ち込みなんて出来ないだろうし、よしんば出来ても護衛がいる、その上で本人だって抵抗するだろうから、もう無理だろ」
「いやいや、できるでしょ。少なくとも、私たち魔術師ならそれは可能ですよ。そして、悠理ちゃんには魔術師の息が掛かっている。できないほうがおかしいと思いますね」
「……それも、そうか」
少し、驚いた。まだ、自分の認識がその段階で足踏み出来ていることに驚いた。スノウや刀河、成世が魔術を使うことに疑問も違和感もないというのに、見知らぬ誰かが魔術師であるということに対する認識が出来ていない。というよりも、多分、俺はその当人が魔術を使っている姿を認識しないと、そういうモノだと認識を変えられない?
見たモノは信じられるけれど、逆に見ないとなかなか信じられない、ということか。
この一年で随分と道を踏み外したつもりだったけれど、存外、そうでもなかったようだ。
などと感慨にふけるこちらに対して成世は問い掛ける。
「で、どうしますか?」
「どう、とは?」
「いえ、悠理ちゃんの復讐――もとい、お礼。……この場合はそれこそ“お礼参り”とでも呼ぶべきですかね。ソレ、止めますか? ほら、今回の仕事的にはイト様に死なれると困るじゃないですか」
「ふむ……。成世くんや、キミはどうすべきだと思う?」
「正直、どっちでも」
「なんだよ。随分と投げやりだな」
非難の視線を向けると、ムッとしたのか成世は否定する。
「違いますよ。どっちでもいい……くそっ、日本語の妙っすね……。えーと、どっちもアリだと、私はそう思っているんです。復讐はしていいと思っています。むしろ、積極的に推奨派です。とはいえですよ? 私は今、先輩たちに保護されている状態でもあって、そんな先輩たちの仕事を完遂するためであるのならば、止めるのも吝かではないってところです」
「そういうことね」
「そういうことです。そして私は下っ端なので、意思決定権は先輩にあります」
どうぞ、と選択肢の決定権を渡される。
五秒ほど、考え。
「よし、保留」
とりあえず先延ばしすることにした。
□■■□
「――といった感じで、かくかくしかじかというわけだ」
『ほほう、まるまるうまうまなわけだね』
俺よりも意思決定権の高いスノウに相談することにした。あの後、改めて成世から『佐田悠理』の記憶について細かく聞き取りを行い、判断材料を選別し、ある程度の当たりをつけてからの電話報告である。
「現場責任者のスノウさんはどう思いますかねー?」
『んー、ぶっちゃけていい?』
「いいよー」
『秦くんの選びたいほうでいいと思うよ』
「おや、それはなして?」
『それこそ、私たちにとってイト自体の殺害は関係ないからね。秦くんたちはイトの占いを受けるためにそこにいるけれど、イトへの危害を止めるためにいるわけじゃない』
「ごもっともなことで」
『むしろ、その危害が秦くんに及ぶ方が問題だしね。イトの命なんかよりも、キミの命の方が重い。というか、その命に釣り合うモノがないのだからね? キミの命を天秤に載せたら、もう片方には何も置けなくなる。百人の魔法使いの命よりも、十万人の魔術師の命よりも、一億人の一般人の命よりも、秦くんの安全の方が大事だよ』
……わぁ、過激だぁ。
こういうことを平然と言い切れる人間に力が与えられているのだから、世界は不平等だ。
とはいえ、じゃあどんな人間に力が与えられたら平等なのかと訊かれると、閉口してしまうわけでして。間違っているのではないかと言い出すのは簡単でも、正しいことを正しく言うのは限りなく不可能だ。人間は不変の正しさを定義出来ずにここまでやってきてしまったのだから。
そのくせ、未だに正しさの絶対性を妄信してしまう節があるから救いようがないよねと、そんな斜に構えた結論を放り投げる。
――脇道に逸れた思考を元に戻す。
スノウの発言、その意味はというと、
「つまりは、見過ごせと?」
自然と言葉が固くなる。ただ、スノウはそれをあっけらかんと否定する。
『ううん。それはあくまでも私のスタンスだし。秦くんは秦くんのやりたいようにすればいいよ。キミが助けたいと思うのなら、助ければいい』
「あ、そう。さいで」
とはいえ、俺ができることなんてたかが知れているんですよねー。
『大丈夫。キミの命は私が守るし、キミのしたいことは私が手伝う。手を伸ばして届かないところには、私が行くよ』
いやー、格好いい。格好いいよ、お前。当たり前のようにそういうこと言えるんだもの。
「やだ、惚れそう」
『ヤなの!?』
「すいません、言葉の綾です。惚れています。ぞっこんです。今すぐ抱きしめたいです」
『――――!』
声にならない声って電話越しでも聞こえるんだな。
「じゃあ、まぁ好きなようにします」
そこで通話を切ろうとしたが、
『けどね、秦くん。断定はできないけれど、気にしなくていいと思うよ』
「……その心は?」
『イトの言い方――言葉選びかな。少なくとも、そこに悪意はなかったと、私はそう感じたよ』
言葉選び。言葉を選ぶ。その言葉を選ぶ理由は? その言葉を選んだら、どうなった?
「ふむ?」
『秦くんはさ、運命って信じる?』
「………………壺なら買わないぞ」
『つまり、絵画なら?』
「作家によるかな? スノウは確か、ゴーギャンが好きだったよな」
『うん。そうだよ』
「あとは、……モネ、だったか。スノウは――印象派が好きなのな」
そう、印象派だ。美術の授業で美術教師の横須賀先生がそんなこと言っていた気がする。
日の出? の絵の話になった後、ちょっとした美術史について語っていた。
『うん、モネも好きだよ。ただ、印象派とポスト印象派は別だけれどね』
あれぇ? どうやら別らしい。別らしいが……。
「……なにが違うん?」
『印象派がスタイルの区分けで、ポスト印象派は時代の区分けかな。かなり雑だけれど』
「なるほど」
『それはわかっていないときのなるほどだね』
「わかってらっしゃるようで……」
くすくすという笑いが電気の通った板切れから響く。
『じゃ、話を戻すけれど、秦くんは運命を信じる? 信じるという言葉に不明瞭さを感じるのなら、こう言い換えよう。運命はあると思う?』
「どうだろうな。少なくとも、俺はそれを実感したことがない」
『じゃあ、否定派?』
「それもどうだろうな。感じたことはないけれど、あってほしいと思うときはあるよ」
『そかそか。ちなみに、私は運命を感じたことがあるよ。キミに会ったときにね』
「つまり、俺たちは出会うべくして出会ったってことか?」
『そう。私たちは出会うのが必然だったのさ』
「実際のところだと、お前は“探知機”で俺は“端末”だったってオチだけれどな」
そう茶化すと、やけにはっきりとした否定と断言が飛んでくる。
『いいや。そんなの関係なく、私たちは出会うんだよ。出会って、私はキミを好きになる』
「断定ですか」
『そうだよ。そういう運命だからね。世界端末云々なんてのは、私たちの運命に相乗りしたに過ぎないのさ』
「運命に相乗りか」
それは、面白い発想だ。
『そう、相乗り。いいかい秦くん。運命は決まっているとして、じゃあ、その運命を決めているのは誰に――何になるかな?』
「……神さま?」
『神学的な発想だね。予定説かな』
なにそれ、知らん。
『けれど、私たちは魔術師だよ。私たちにとっての神は位階を示すものであり、万能であっても全能ではないのだよ秦くん。いいかい? 私たち魔術師が全能に最も近いと想定しているのは【世界】だよ。世界には始まりと終わりがあり、全てはその流れに沿っている。とまぁ、そういう考えが運命の根底にあるわけです』
それはわかる。
『アカシックレコードとか、宿命論とか、因果とか、そういうお話だね。大まかな流れこそ定めてはいるけれど、始点と終点を繋ぐ線には揺らぎが存在すると、そういう説もあるね。そういった揺らぎによって、私たちは不確定性を幻覚できている。――のかもしれない。火灼はそう言っていたよ』
刀河の言葉か……。刀河火灼。あいつは本当になんなのだろう。スノウはあいつを信頼しているし、きっとその信頼に間違いはない。かといって、それは俺が思考を放棄していいことにはならないんだよな。そして、刀河自身もそれを良しとはしないだろう。
「俺の端末という要素と、スノウの探知機という要素は、その揺らぎに過ぎないってことか」
『そう。私たちの出会いという運命を邪魔しない程度の意図的な揺らぎ。だからそれは許容されていて、多少の揺れ幅こそあれど、最終的には一つの運命に収束していくの』
「一つの運命?」
『そして私たちは幸せになりました。これに限るね』
「――いいね。最高だ。それは、すごくいいことだ」
『そうそう。よく言うでしょ、素晴らしいモノは決して滅びない。ってね』
「それもまた運命ってか。でもまぁ、そういうのなら、悪くないな」
そうであって欲しいと思ったものが、そうであると確定しているのなら、それはきっと救いだ。
それを覆せないことに諦観して、それが覆されないことに安心する。
『世界が定めた運命があるとして、それを覆すのは不可能なのかもしれない。じゃあ、それを踏まえた上でヒトがすべきことは、その運命の先、あるいは揺らぎをどうするか? ということになると思うんだよね。決まっていない部分にこそ余地があるの』
「世界が定めた運命と決まっていない部分の余地、ねぇ……」
余地。――予知?
『イトの未来予知が真正だったとして、その種類にもよるのだろうけれど、もしもそれが本当に“世界の定めた運命を覗く”行為だとして、じゃあ、覗いただけの存在がその運命を覆せると思う?』
能力の定義。それはあくまでも趨勢を覗くだけのモノ。予め知るだけのモノ。それ以上でも、それ以下でもない。変えられないのであれば、それに意味はない。
「覆せないのか」
『きっとね。たかが人間にそこまでの権限はない。世界の定めた命の運びをどうにかできるのは、それこそ同じ世界だけだよ』
「同じ、世界だけ」
『そう、同じ世界だけ。――だからさ、秦くん。もし、イトがキミを見て、ろくでもない未来を言ったとしても、キミなら、キミと私なら、それを変えられる。そのことを覚えておいて』
「いいな、それ。善後策があるってだけで希望が持てるよ」
『それはよかった』
「それに、お前が言いたいこともわかったよ」
未来予知の限界。運命の筋書き。残された余白。逸脱の許容幅。
イトという超能力者に対するスノウの見解。
「ありがとう」
『どういたしまして。それじゃね、大好きだよ』
□■■□
「あいつ、ほんと自然に言ってくるよな……」
つけていた不織布マスクを外し、沈黙した携帯端末を眺めながら呟く。
独り言であり、返事を期待してのモノでもない。
というか、返事をされても困るし……。
……いや、困らないな。返事をされたらむしろワクワクするな。
とはいえ、機械生命体由来のオールスパーク的なキューブにでも触れないと、そうなることはないだろう。いや、もしそうなっても、かなり好戦的になるので嫌だな。携帯電話が機械生命体になったかと思ったら、対話らしい対話もせずに股から生やしたガトリング撃ちまくるのは普通に嫌だ……。俺は別に敵対したいわけじゃないんだよな。むしろ、こう、良い感じの友達になりたいわけでな? その昔、ケータイ捜査官という特撮ドラマがあったことを思い出す。人工知能系のバディモノっていいよなぁ。昨今はスマートフォンの台頭であのガジェット感満載な折り畳み式の携帯をめっきり見なくなってしまったのは少しばかりもの悲しさがある。ただ、完全に消えたわけでもないらしいんだよな。世の会社員たちがちょいちょい折り畳み式のやつを使っているのを見るに、アレはアレでまだ需要があるのかと驚く。
「バッテリーの持ちとか、電話としての機能だけでいいとか、端末自体のコストとか、そこらの理由かねぇ」
思考が明後日の方向に飛んでいたので、とりあえず着地させる。口に出してみると、大してまとまっていなかろうと結論が出たかのように錯覚できる。
「さて」
一先ずの指針が決まったので、意識を左手に握る竿に戻す。
――いや、下ネタとかではなく。正真正銘の釣り竿である。
湯屋糸杉屋はおこもり宿に分類される宿泊施設だ。山奥にあるが故に交通の便が悪いということもあり、この宿は寝泊まりだけを目的にした利用を想定していない。
新館にあるゲームセンターと言っても過言ではないゲームコーナーにはダーツとビリヤードのコーナーがあるし、イト様との面会場所でもある別館はちょっとした温泉テーマパークになっている。俺たちの部屋がある本館にも大浴場と露天風呂はあるけれど、別館の方は健康ランドと言っていい。成世は面会時間まではその辺で遊ぶと言っていた。
旧館の方には年季の入った建物に相応しい落ち着いた雰囲気のカフェラウンジがあるので、読書とか考え事とか、あるいはノーパソさえあれば仕事ができるような人はそこで仕事をしたりもできる。総じて二、三日程度なら余裕で時間を潰せるようにできている。
そして、建物から少し歩いたところには川があり、その一部の区画された場所が釣り堀となっていて、俺はそこにいた。
この釣り堀もまたこの湯屋の施設の一つ。
いくらかの利用料金を払えば釣り具一式を貸し出してもらえるので、手ぶらで利用できる。
貸し出された竿は竹竿で、こんなので釣れるのかと心配もしたが特に問題なかった。釣りなんてしたこともなかったけれど、係の人がウキやオモリやらの付け方を教えてくれたし、なんなら目の前で放流もされた。
「まぁ、今日の客は今のところ俺だけだからな」
真冬の川べりは当然のように寒い。夏場であれば家族客とかでそれなりに盛んらしいが、冬場にこの宿にまで来て誰が好き好んで川で釣りなどしようかと、そういうことなのだろう。
係員さんが言うには、冬にも来るような釣り好きはもっと上流のほうに行くらしい。
他に人がいないからこそ、スノウへの連絡もここで行ったわけだし。
さてさて、
「釣ったのが食べられるんだよな」
足元に置かれたバケツにはすでに二匹の釣果。
育ち盛りで食べ盛りなので、せめてあと一匹は欲しいところだ。
係員の人が下処理などはやってくれると言っていたので、もう一匹釣れたら持って行って、焼いてもらうのだ。自分で釣った魚をその場で焼いて食べられるというのが思った以上に楽しみだ。
機会を作ってスノウと二人でどこかの釣り堀にでも行ってみようかなと、そんなことを考える。
こういう楽しみは分かち合ってなんぼだ。
――成世の面会時間まではまだまだ時間がある。
秦がマスクをしていたのは、口の動きで会話内容を知られないようにするためらしいです。浅はかで可愛いですね(?)




