◆十話:年下には滅法甘い
【一月四日/午後-夕方・夜】
「……あ、うーむ、あー、愛しっ、ているよ」
『ありがと! 私も! だいすきっ!』
心底から嬉しそうな返事で会話が終わる。
端末を耳元から離して眼前に移動させる。画面に映るのは今さっきまで音声通話を行っていた相手の名前。サイドボタンを押して画面を暗くする。
黒い液晶に映る自分の顔はむず痒そうで、現在の心境を如実に表している。
少しばかり顔が熱いように思える。眉間に皺が寄っているので、目頭を揉む。
スノウと通話で意見交換を行い、一先ずの共通認識を持てたのだけれど、最後に『愛を囁いて欲しい』というお願いをされたのだ。今回、一番に割を食っているのがスノウなのでなるたけ要望は叶えたいのだけれど、それでも、些か気恥ずかしいモノがあった。
「好きとか言う分にはいいけれど、愛とまでなると恥ずかしさが勝るのは何故なのか……」
――愛を語れるほどには年月を重ねていないからだろうか、などと考えてしまう。
好きという言葉にはある種の幅広さがあるからこそ臆面もなく言えるのだけれど、愛という言葉に含有される成分は種類が少ない。俺が実感として知っているそれは家族愛と呼ばれるものであり、それ故に愛を囁くということは家族間でもなければ在り得ない状況となる。必然的に、現時点では家族じゃないスノウにそれを示すことにある種の気恥ずかしさを覚えてしまうのだろうか。
自分の気持ちを言語化しようと試みるが、なんというか……、
「言葉に、できない……」
心の中で小田和正が歌い始める。いや、今は歌わないでくれ。
――それでも、通話越しとはいえ、あれほど嬉しそうな声が聞けるのだから応えて良かったとは思う。
「さて、俺も風呂に行こう」
先行した成世を追うように、俺もまた入浴セットを持って部屋を出ることにした。
□■■□
――風呂上り。
広々とした露天風呂にて身体を伸ばして浸ることしばし、頃合いを見てサウナを五セットほど繰り返す。意識がしっかりとあるにも関わらず、自身の肉体と精神が剥離していくような気分をいくらか味わう。最後に、外気欲でぼんやりと冷えた身体を温泉にさっと通して脱衣所へと上がる。
身体を拭き、旅館の浴衣に袖を通し、髪を乾かして脱衣所を出る。出てすぐにある談話室に入り、設置されている自動販売機から購入したいちご牛乳に舌鼓を打ち、配置されていたマッサージ機に身を任せ、極楽浄土とはここにあったのかと、そんな境地へと至る。
「いい身分だ……」
そんな独り言が漏れてしまう。
風呂に入っている間はスノウとの会話を頭の中で整理したりしていたので、肉体を弛緩させてはいても思考は働かせていた。ただ、それも上がる頃には一段落したので、今はこうして何も考えなかったり、もしくは至極どうでもいいことに思いを馳せたりして休んでいる。
サウナなー。なんとなくで嗜んでいるけれど、別にこれ健康とかには一切関与しないよなぁとか、そんなふうに思う。むしろ、身体にかなりの負担を掛ける行為だろう。サウナ後の気持ち良さは、緊張した肉体を脱力によって弛緩させた際に生じる解放感に近しい。
要は走った後の解放感みたいなものだ。ランナーズハイである。違うか。
身体に負荷を掛けて、その負荷からの解放に快感を覚えているだけなのではなかろうか。
健康に良いと言うよりも、健康が良くないと出来ない行為じゃないかなー。
それこそ、ヒートショックなんて現象もある。
サウナ室にご高齢の人が入ってくるとそれだけでちょっと身構えてしまう。
サウナは親父が好んでおり、仕事が休みの日には健康ランドによく通っているのだけれど、これからも楽しみたいのであれば、そのあたりに注意して欲しいモノだ。――いや、これは決して「齧る脛が減るのは困る」的な照れ隠しではなく、純粋な心配である。
我が家は共働きで、祖父母との関係も良好を保っているので、もし親父の身に何かがあっても、金銭面での問題で天木家が壊滅することはない。……俺の知る限りで、家や車のローン以外で大きな借金はないはずだし、そのあたりの事態を想定した保険には父母ともに入っていると以前に家族会議で説明されている。
何かあっても母や祖父母がどうにかするだろうし、俺だって弟妹や母のために少なからず頑張るつもりだ。だから、そういった観点での「親父がいなくなること」への不安はあまりない。
なので、俺が抱く不安はそういった経済的な心配よりも、親父がいなくなることそのものへの不安だ。
――それは大きな変化だ。
世間にとっては些細なことでも、俺や俺の家族にとっては今まであった形が歪むほどに大きな変化になる。先日までそこにいた人がどこにもいなくなるというのは、自らを形成していた世界の一部が欠けるに等しい。
――変化は苦手だ。
今があまりにも満ち足りているから、現状に拘泥したくなる。
――変わらないものなどないのに。
それこそ、今の学生という身分が期間限定だ。細かく分ければ一年ごとに環境が変化するし、小中高大で大別しても、六年、三年、三年、四年と大きな変化の機会がある。
これらの時間を社会に出るまでの準備期間とし、学生として一括しても、モラトリアムとして一般的なのは大学までだろう。(院に猶予期間を求めて行くような存在は理解の外なので知らない)
そもそも、こちとら高校を卒業したら海外に飛ばされる身である。進級や進学ですらちょっとした面倒事だと思っている自分からしてみればそれはかなりの変化で、すでに気が重い。
「だから、まぁ、せめて穏やかではあってほしいのでして」
せめてもと、停滞と見間違うような緩やかで穏やかな変化を望んでおくのだ。
□■■□
マッサージ機には十分に癒してもらったので施設内を歩き回ることにした。
事前に記憶していた見取り図と実際の光景を擦り合わせておく。大まかな配置は覚えたつもりだけれど、こういうのは実際に見て回ると解像度が上がるし記憶にも残りやすい。探検みたいで楽しい。
そうして歩き回っているとゲームコーナーに辿り着く。
「うーむ、本格的というか、これはもうただのゲーセンだな……」
こういった宿泊施設内に設けられるゲームコーナーから感じ取れる“ある種のチープさ”みたいなものは微塵もなく、かなり本格的なゲームセンターがそこにはあった。
なんでも、イト様とやらの趣味が高じた結果らしい。
「うわぁ、北斗の筐体とかもある。しかも何故かこれだけフリープレイだし。マジで趣味だな」
この手のゲームに詳しくない俺でも知っている有名なモノも多数あった。
こういったゲーム自体を遊ぶことがあまりないし、大して得意ではないこともあって興味がそそられない。一通り見てから触ることなく奥に進む。
無機質に点滅する画面たちに見送られると、今度はずらりと並んだクレーンゲーム系の筐体が出迎える。いくつも並んだ大きな箱は威圧感を覚えてもおかしくはなさそうだけれど、上半分が透明なため見た目よりも圧迫感はない。
「……普通、こういうゲームを入口近くに配置しないか?」
格闘ゲームなどが入口付近にあったことにツッコミを入れつつ進む。
この手のゲームは本当に興味がないのでスルー。元々、あまり物欲がないというか、部屋に物が増えるのを面倒だと思ってしまうタチなので相性がよろしくない。
なお、意外とスノウはこの手のゲームをよく遊ぶし、かなり上手だ。時々、デートでゲーセンに遊びに行くこともあるのだけれど、スノウはその度にぬいぐるみを乱獲する。
空間把握能力が高く、重心などを見極める観察眼もあってか上手いことぬいぐるみたちを落としていく姿は感嘆モノである。俺と違って保管場所に困っていないこともあって、たくさんの子をお持ち帰りしている。
「お、エアホッケーだー……ん?」
さらに進むと、エアホッケーが設置されていた。
――そして、子供がいた。
見た目は小学校の中高学年ぐらいで、随分と華奢な子だった。肩にかかるぐらいまで伸ばされた髪は濡れ羽色であり、前髪は三本のヘアピンで留められていた。
それらのヘアピンには花の形にあしらわれた水晶のようなものが埋め込まれており、視線が引っ掛かる。ただ、見過ぎてはよくないと下げると、目が合う。黒真珠のような瞳がこちらをじっと覗く。……おや、逸らされない。
ぺこりと、お辞儀をされる。会釈を返す。何故かこちらを興味深そうに見続ける。
珍しく、それは奇異の目ではない。この子のような年頃の子にはおっかなびっくりとした、窺うような視線を向けられることが多い。妹――奏の同級生が家に来た際に廊下やリビングでその少女たちと顔を合わせたらちょっとした悲鳴を上げられるし、そのあとは猫を思わせるような警戒心を漂わせながら距離を取られるのだ。
思い出したらちょっと悲しくなってきたな。
なのに、この子はそういう目でこちらを見ない。むしろ心なしか好意的な気がする。
「それで遊びたいのかな?」
筐体を指差して訊ねてみると、頷かれる。
顎に手を添えて考える。
ははーん、これはあれだ。このゲームを遊びたいと思っていたところにちょうどよく暇そうな人が来たので遊べるのではないか。みたいな思考なのだろう。このぐらいの年頃だと、世界が自分にとって都合よく回るように思えてしまうこととかあるしな。
――実際に今は暇なので遊びに付き合うことにした。
妹(奏)の同級生たちに秦は「マーダーフェイス」という異名をつけられています。かわいそうですね。




