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第一章【Smile Again】P.2


朝起きても母は起きてなかった。リビングに入ると、昨日の散らかってた感はなくなっていた。きっと父がこの家を出る際に片付けていったのだろう


自分の痕跡を消すように


そう考えるとまた鼻の奥がつんっとした


溢れそうになる涙を頑張って堪える


泣いちゃダメだ……


音を立てないように和室の戸を開けると、そこにはまだ母が布団の中にうずくまって背を向けて横たわっていた


「お母さん」


声をかけても返事はなかった。僕には母をどうすることも出来なかった


「お母さん、僕学校行くね」


母からはまた返事がなかった。分かっていたから、もうそれ以上何も言わずゆっくりと戸を閉めた


世界で一番不幸な少年と母親だと僕は思った






学校に行っても、嫌な気持ちは変わらなかった。俯き加減で自分の席に座った。一番右の前から三番目の席。そこが僕の席だった


周りにいるみんなが幸せそうに見えた。朝からこんなに落ち込んでいるのは、多分僕だけだろう


「昨日のボクシング見た?」


僕にそう声をかけてきたのは、僕の前の席に座っているミッチャンだった。屈託のない笑顔で僕にそう言ってくる


ミッチャンは強い人間に憧れる性格だ。ボクシングとかK1とかの格闘技が好きで、いつも僕にそのときの試合の様子をオリジナルの実況アンド解説、そしてそのときの再現シーンを自分の体を使って教えてくれる


ちなみに昨日は世界タイトルフェザー級王者の三度目の防衛戦があった


だが僕は当然昨日はテレビも何も見てない。父からあの話を受けたあとにすぐに眠り込んだ


僕は苦笑いを浮かべた


「ごめん……昨日疲れてて寝ちゃった」


「んぁ?そうなの?そうだな。何だかいつもより元気なさそうだし。いやー、昨日の王者のアッパーがさぁ……」


いつも通り、ミッチャンがアッパーの仕草を見せて、昨日のノックダウンの場面を再現してきた


だが僕はそんなことを聞いている心の余裕がなかった


ミッチャンが何だか羨ましい


「何かあった?」


「え?」


ミッチャンが急に真面目な顔で言ってきた


「何かマジ元気ないよ?」


「あ……ううん。昨日寝不足でさ」


「え?早く寝たんじゃないの?」


「なかなか寝つけなかったんだよ」


僕のとる態度にミッチャンは不信感を抱いていたが、それ以上何も言って来なかった







そのお昼休みの時間だった。窓の外を眺めてぼけっとしているところだった


「ねぇ」


突然話しかけられて、僕は窓の外から声をかけられた方へと視線を変えた。そのときに胸がドキッとした


「あっ……」


そこには佳奈かながいた。昨日僕の言った、好きな女の子というのがまさに彼女だった。あまり彼女の方から話しかけてくることはなかった。だがら少し驚いた目で彼女を見た


「何?」


ポーカーフェイスで平然を装う。すると佳奈はにこっと可愛らしい笑顔で言った


「あのね、町田先生が呼んできて欲しいって」


「先生が?」


「うん。何だかお話があるんだって。だから職員室に来いって」


町田まちだは僕のクラスの担任の先生だった。男の先生でいつもだらしなく、寝癖だらけの髪、ジャージ姿に眠そうな目という出で立ち以外見たことがない


だけど温厚な性格をしているためか、僕も含めて子供たちには人気があった


佳奈はニヤニヤしていた。どうやら僕が何かをしでかしたのだと思い込んでいるみたいだ


「確かに伝えたから。じゃっ」


戸惑っている僕に気にもくれず、彼女は踵を返して友達の方へと行った。僕はしばらく戸惑い気味だったが、小さくため息をついて席を立ち上がって、職員室へと向かうことにした







職員室に入って町田先生はいるかと僕は近くにいた先生に訊いた。すると町田から僕が来たことに気がついたみたいで僕を呼んだ


僕は進まい気をどうにか動かして町田の席へと歩く


相変わらずの寝癖と眠そうな目だった


「待ってたぞ」


大きくあくびをして僕を迎える。僕は少々困ったような顔をした


「あの、僕……何かしました?」


正直先生に呼ばれるようなことをした覚えはない。町田はうーんと唸りながら、寝癖だらけの髪をボリボリと掻いた


「ま、とりあえず座れ」


と言って、傍にあった椅子へと僕を促す。僕は促されるまま、ゆっくりと座った


座ってからしばらく無言が続いた。他のの先生たちが興味気に僕を見てくる。どうやら説教されていると思われているみたいだ。そんな彼らの目線など町田はまったく気にしてなかった


「さっきなぁ、お母さんから電話が来た」


えっ……


僕の心臓が大きく高鳴った。見る見る内に顔が青ざめる。そんな僕の表情の変化を町田は見逃さなかった


「ちゃんとお前が学校に行ってるか、ってな。当然来てるから、はいって答えたんだけどな」


学校に行くとき、一応僕は母に学校に行くと告げた。あのとき母は本当は起きていたのだ


だが、昨日あんなことがあった僕が本当に学校に行ったの不安になったのだ


「なぁ」


町田が僕の目を見つめた。その目はいつもの眠そうな半開きの目ではなく、心の中を見透かすような鋭い目だった


「何かあったのか?」


「え……」


どうして町田がそんなことを聞いてくるのか、分からなかった。だが町田はいつもとは違う真剣な目つきで続けた


「いやな……お母さんから電話をもらったとき、お母さんの状態が普通じゃなくってな」


町田の話によると、母の声はまるで後年の老婆のような乾いた声だったという。そこから漂う雰囲気は酷く疲労して、心身共に普通ではないと感じ取ったという


「それに……今日のお前も何だか変だった。元気がないし、顔も今青いぞ」


僕は黙っていた。何か言い訳を考えていたが、何も浮かばない。しかしその沈黙が町田の推測を肯定していることになった


町田はふっと顔を緩めた。いつもの眠そうな半開きの目に戻る


「教師が生徒の私情に立ち入るのも良くないことは分かってんだけどな。心配なんだ、先生は」


僕は胸の中に何かが湧き起こるのを感じた


「良かったら……話してくれないか?」


優しい声で僕にそう諭すように言った。でも僕はしばらくギュッと唇を噛み締めて沈黙を保っていた


「……先生のことが、信用出来ないか?」


その言葉にまた鼻がつんっとした


――泣いちゃ駄目だっ!


また自分に言い聞かせる。僕は目をこすって、町田を見た。いつもの眠そうな半開きの目に戻っていたけど、その目からは誠意が伝わった。僕のことを本気で心配してくれていることが分かった



僕は震える声でゆっくりと、町田に昨日の出来事を話した


父が突然家を出て行くと言ったこと


違う女の人といっしょに暮らすと聞いたこと


どうしてそうなるのか、理由を聞いたこと


でも僕には理解出来なかったこと




町田は黙って僕の言うことを聞いてくれた。震える声で、ゆっくりと話す口調でも僕の話を遮らずに聞いてくれた


昨日のことを全部話し終える頃には昼休みが終わっていた。僕はどうしたらいいか分からず、チラリと時計を見ると町田は小さく笑って、僕のクラスの副担任を呼んだ


少し僕と話すことがあるから。それまで次の時間を頼むと彼は言った


僕はびっくりして町田を見た。僕のために授業を放棄していいのだろうかと不安があったが、町田の目には迷いがなかった


再び目線を僕の方へと向ける。そして寝癖だらけの髪を掻いた


「……そうか」


彼が最初に言った言葉がそれだった。同情の言葉でもなければ、励ましの言葉でもない


「……今、お父さんは?」


「今朝……早くに出て行ったよ……」


「そうか……」


「もう……お父さんは……違う女の人のとこに行ったんだ。僕と、お母さんを捨てて……」


そう言うと、何だか無性に悔しくなって唇をさらに噛み締めた


父が憎いと、初めて思った


父が憎い


僕とお母さんを捨てて、違う女の人のとこへ行く


そんな心の弱い父が憎いと、僕はそう思った


「……人は弱いんだよ」


町田がそう呟いた


「弱くて醜くて、どうしようもないやつらだ」


「……………」


「でもその中には暖かい心や優しさがある」


町田はそう言って僕の肩に触れた


「暖かい心や優しさで、人は強くなる」


「……そんな話、聞きたくない」


僕は町田の手を振り払った。町田の言葉が無責任で他人事みたいな言い方に腹が立った


「先生は何も知らないんだ。他人だから、何も分かっちゃいないんだっ!」


僕はそう言うと踵を返して走って職員室を出て行く


町田が僕を励まそうと、勇気づけようとして優しい言葉を与えてくれたことを僕は知っていた


だけど、そんな優しい言葉なんて何の役にも立たない


優しい言葉をもらったところで、父は……もう帰って来ない



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