第十四幕 ニーチェ
「私も別に格闘が好きだという訳ではないのだけど、ね」
出た。
ニーチェである。文武両道。才色兼備。
不満そうに言いながら出てくるその少女は、何者にも負けぬ強い意志をその目に宿す。
ニーチェはしかし、学園でも謎に包まれた存在の一人だ。ほとんど群れることがない。いつも一人でどこにいるのか、あまり見かけることがないのだ。
「うふふふふ。やっと出てきてくれたわね。あなたが出るのを楽しみにしてたの。ソクラテスが出られない今、孫子に対抗するにはあなたしかいないもの。パスカル先生は判断が早いし的確ね」
バタイユが舌なめずりをしているが、ニーチェは相手にしなかった。
「早く始めましょう。時間がもったいないわ」
ニーチェがソシュールのように何か不思議な能力を持っているのかは、わからない。私の知る限り神の放送に影響を及ぼすようなことをした記憶はない。だがニーチェだ。あのニーチェなのだ。どんなものを隠し持っているか知れたものではない。
万能の天才。そう呼ばれる。彼女が何かに未熟であったのを見たことがない。武勇、学才、知略、芸事、あらゆる道を彼女は極めているかに見えた。
天からすべてを与えられた少女とさえ言われる。
「……ニーチェか。楽しみやな」
孫子が静かに言った。
「何が?」
ニーチェは不思議そうに返す。
「あんたがどれだけのものか」
「そう」
ニーチェは機嫌が良さそうにも悪そうにも見えなかった。
「えと……あ、あたしも交代したほうがいいかな」
誰? とみんなが振り向くと、そこには卓のそばで小さくなっているアダム・スミスがいた。
「……あ、まだいたんですねアダム」
アリスがとてもひどいことを言った。ま、私も忘れてたけど。
「交代したいの?」
アダム・スミスのほうを見もせずにニーチェが言った。
「え? いや……」
「いたいならいればいいわ」
「……でもあたしみたいな凡人がいたら迷惑じゃないかな」
あはっとやや卑屈に笑ってみせるアダム。
「勝ちたくないの?」
え、と顔をあげるアダム・スミスに、ニーチェは言った。私は、と。
「勝ちたいわ」
「わたしも……勝ちたいけど」
「さ、始めましょう」
ニーチェはそれ以上会話を続ける気はないようだった。アリスが代わりに尋ねた。
「アダム。続けますか?」
「あ……うん。続ける。続ける。うちのチームもあんまり後はないし」
「ふぅん……。さて、ほいじゃ始めよか」
孫子がにっと笑った。そして……。ガラガラと音を立てる。洗牌。
「……?」
がらりがらりと音を立てて洗牌が開始された。
その光景を見ていて、私は妙なことに気がついた。孫子の表情から笑みが消えている。さっきまでの余裕がないのだ。額に汗をにじませている。
「気のせいでしょうか……。孫子が何か苦しそうですが……」
「残念ながら気のせいじゃないんよ」
アリスの言葉に孫子が破顔した。そして洗牌が終わり、山が積み上がる。
「ふっ。さすがニーチェ……。積み込む牌を選ばせて貰えんかったわ」
孫子がそう言った。
「ずいぶん手癖の悪い人なのね」
ニーチェが呆れ顔で言う。
「……私の手の動きについてくる奴がいるなんてなぁ。こりゃツバメは無理か」
「そう思った方がいいわね」
ニーチェは相変わらず表情を変えない。
「ふっ……。試してみよか」
そう言って、孫子が牌をふせ始める。
「おっと、孫子、まさか宣言してから堂々と……? しかし先ほどもそうでしたが、注意して見ていてもわからないほどのスピードです」
孫子が伏せた十四牌の両脇に手を添える。
「あ、あかん山に役を仕込んどくの忘れた」
がくっ。
思わず力が抜ける。
頭に手をやり、楽しそうに笑う孫子。
「いや失敗しっぱ」
次の瞬間。
パチンッ。
空中で。
……。
「ほう。ほんま失敗やな」
いつの間にか、孫子の両手が卓上で何かを持ち上げていた。それは山だ。横に十七牌ずらりと並んだ、山の上段。
フェイクだったのだ。仕掛けたのだ、と私は気づくと同時に、孫子の手が止まっているのがなぜかも理解する。
ニーチェの右手が、孫子の手首を掴んでいた。
「無理だと思えと言ったでしょう」
ニーチェが手を離すと、孫子は山を元通りに戻した。
「なんと……孫子、あんなこと言っといてしっかり仕掛けてきました、ツバメ返しを……」
「そして止めましたニーチェ」
孫子が、山を崩した罰符として、満貫払いをしながら言った。
「ほんまに見えたとはなぁ……あんた、人間離れしとんなぁ」
「冗談でしょ。やると宣言されたものを止められないとでも?」
「さよか。……」
孫子が腕まくりをした。
「次は少し本気で積もうか?」
次の瞬間。ゴオゥと音がして、卓上の牌が雪崩でも起きたかのごとく轟音を立てた。
それは、洗牌なのだった。もはやかき混ぜるなどという生やさしいものではない。もはや牌の動きが目で追えぬほどの大渦。うっかり手を入れれば手首から先がちぎれ飛びそうな。アダムもバタイユも、巻き込まれないように洗牌に参加していなかった。
参加しているのは孫子とニーチェ。
……牌を取り合っているのだ。ニーチェと孫子、二人の手がその肩から先が見えなくなるほどのスピードで卓上を舞っている。
牌の渦はやがて上下に幅を持ち始める。牌がはねているのだ。
「……まるで竜巻ですね」
私と同じ感想をアリスが漏らした。
「このぉ……」
何やら孫子が吠え……。
刹那。
どぉっ。鈍く重い音が、何か巨大な塊の墜落を告げる。それは瞬時に現れた。四方に積まれた百三十六牌。……山が一瞬で完成していた。
「……なんとまぁ……。もうまるで別世界ですね」
私の漏らした感想にアリスがこっくこっくと激しく頷いた。
「全自動卓みたい……」
アダムが苦笑いしながら呟いた。楽でいいわとバタイユも言う。……二人とももはやついていけず諦観を感じる。
「かなんなぁ……まるで積めへん。山、ぐちゃぐちゃやで」
「それが普通でしょう」
心なしか、ニーチェと話す孫子は楽しそうだ。
「孫子ぃ……本当に見せてくれるんでしょうね」
バタイユが孫子に言う。
「心配せんでも最後はあんたの望むものも見られるやろ」
「どうして? 積み込みもできない、燕返しも見切られるじゃあんたの手は使えないじゃん」
牌を取りながら怪訝そうに聞くバタイユ。
「おっと、この孫子ちゃんをなめたらあかんよ。こっからは仕込みが物を言う……」
「仕込み?」
「いつも言うとるやろ。戦いいうんは……」
孫子がにやりと笑った。
「……始まる前に勝負はついとる」
孫子はまだ、何かを隠しているようだった。
*
「じわじわと離されてますね」
アリスの言葉に私は頷いた。
「何が仕掛けられているのかわかりませんが……。確かにさっきから孫子が一度も振りこんでいません」
アダムが隣のニーチェに尋ねている。
「ニーチェ! そ、孫子の奴何かやってるんじゃないの?」
「妙よね。積み込みや燕返しみたいな類のことはやめたみたいだけど、どうもこっちが何を捨てるかわかるみたいに当たるし、逆にこっちの当たり牌もわかってるみたいに振らない……そこそこフェイクも入れてるし読まれないと思うんだけど……まるで」
「……まるで?」
ニーチェはため息をついた。
「そーゆーこと」
「へ、どういうことニーチェ」
ニーチェは孫子を睨みつけた。
「こいつ見えてんのよ。ガン牌って奴ね。牌の裏側の、よく見るとわかる細かい傷や微妙な形の歪み……そういう牌の特徴を覚えてるんだわ」
「ご名答」
孫子がにやりと笑った。
「え、嘘? いつの間に……」
アダムが不思議そうに言うが孫子は微笑む。
「……ソクラテスが牌を壊した時、代わりの牌を用意したのは誰やった?」
あ、とアリスが呻いた。そう、代わりの牌は、孫子に借りたと言っていた……。
「あんた化物ね……普通の人はこの無愛想な牌の背中見たって違いがわからないわよ」
ドラ表示牌を手にとってしげしげと牌の裏側を見るバタイユ。
「嘘ぉ……じゃあ私とかニーチェの手牌も全部わかってる訳? 山の牌も? え、だって百三十六牌全部?」
アダム・スミスが悲鳴をあげる。
「たかが百三十六やろ。大学受験でもしよ思たら英単語を数千は覚えさせられる世の中やで?」
「まったく……えらい奴がいるもんだわ。紅組は災難よね、同情するわ」
バタイユが卓上に頬杖をついてそう言った。そしてちらりとニーチェを見る。
「嘘ぉ……牌が見えてるんじゃ……勝てないよぉ」
アダムが泣き言を言う。
だがニーチェは……全く意を失してはいなかった。
その目、その表情を見て私は確信する。
彼女は、最初から最後まで、ただ勝つことを考えている。その意志は少しも変わっていない。勝てるか、勝てないか、そんなことを彼女は考えたりしないのだ。
「アダム。「勝てない」とは何?」
ニーチェが強い口調で言ったので、叱られたかとアダムがびくりとする。
「え……」
「「勝ちたい」のに、「勝てない」と思うって、どういうこと?」
「……」
「それは「勝たなくていい」という諦めを、言い訳を、自分に与えることよ」
私は今、わかった。
ニーチェは無敵ではないのだ。万能ではないのだ。持っている力が足りなければ負ける、そんな当たり前の法則に縛られて生きる、普通の人間なのだ。例えばソシュールみたいに世界を変える力がある訳じゃない。私やプラトンみたいに見えるものが違う訳でもない。
だのに孫子のあの手さばきに張り合い、瞬間芸を見切ってみせた。それは彼女が特別だからできた訳じゃない。ただそれだけの力を身につけるまでの努力をしたのだ。彼女がしたのはそれだけだ。どれほどのことをして鍛えたのか私にはわからないが、ただ彼女は弛まぬ努力と、できるという意志によってそれをやってのけたのだ。
彼女は、「勝てる」と思っている訳ではないのだ。ただ「勝ちたい」という意志を何よりも守り抜いている。
だから彼女は……何ら特別ではない。負けるときは負ける。
*
それから一時間が経過した。この間、ニーチェもアダムも上がらなかった訳ではない。しかし、孫子の上がり率が高く、しかも一度も孫子は振り込んでいないのだ。
パスカル先生から引き継いで大量に持っていたニーチェの点もだいぶ奪われ、トータルでは白組が優勢になってしまっていた。
孫子はなぜか、ニーチェを狙い撃ちにしているようだった。アダムが飛んでいないのはそのせいだ。
「うぅ……。ガン牌なんて……嘘でしょ? 孫子。ほんとに牌見えてんの?」
「ま、な。あんたさっきから張ってるな? バレバレやで」
「うげ」
アダムが慌てて牌の背中を隠す。
ニーチェは、さっきから全く喋らない。ただ、なぜか手牌を伏せていた。そしてその牌をひたすら見つめている。
「諦めて観念か? さすがのニーチェ様ももう諦めか」
「……甘い」
ニーチェが顔をあげた。
「何て?」
「アダム、右から5番目の牌を切りなさい」
「……え?」
そう尋ねるアダム。しかしニーチェは何も言わない。一方孫子は笑みを消した。
「こ、これ?」
「ポン」
すかさずニーチェはアダムの捨てた牌を拾う。
「……ツモ順変えたか……」
「これで」
ニーチェは言った。
「この局はあと五巡でアダムが上がる。……違う?」
え……。
ニーチェが、予言をした。
「……違わん」
そして驚いたことは、それを孫子が肯定したことだ。
「ちなみにあなたはあと一索が来れば混一色をテンパイする……違う?」
「……その通りや」
また、アタリ。
いきなりのことに、皆が固まっている。
ぷっ。
沈黙を破り、孫子が吹き出した。
「あっはっはっはっはっはぁ!」
突如のけぞるように。孫子が呵呵大笑した。
「この一時間で覚えた訳や! 天才やな!」
終わりのほうは笑い声で言葉にならなかった。
「……どんな集中力してんねん」
訳がわからない、という顔をするバタイユとアダム。いや私もだ。隣のアリスを見ると、アリスは首をひねりひねり、解説した。
「どうやら……驚くべきことに、ニーチェはこの一時間で、孫子と同じように牌の特徴を覚えた、ということみたいですね」
「その通りや」
孫子がうなずいた。
だがニーチェはため息をつきながら言う。
「孫子あんた、覚えやすくするためにずいぶん牌に傷をつけたみたいじゃない。新しい牌ならこんな簡単にはいかないわ」
孫子がまた大笑いした。
「完敗やな。もう私の技は通じん。点取られんうちに変わるのが正解や。交代」
「え……」
突如。孫子は交代を宣言した。
「今、何て?」
アリスが問う。孫子は繰り返す。
「交代、や。私はもう離脱するよ。三十六計逃げるにしかずってな」
そう言って、孫子は立ち上がった。
「や……やったぁ! ニーチェ凄いよあんた。孫子を退却さすなんて」
「あぁ……勘違いせんでな、アダム」
はしゃぐアダムに、孫子がくるりと振り向いて言った。
「白組は勝つ。そこは変わってへんよ。うちが最後の砦やなんて思うてたら大間違いや」
「だぁって、孫子。あんたみたいなイカサマ使いが他にもいてたまりますか」
「アホゥ。アダム。イカサマばかりが兵法やない……。いやま、ある意味イカサマより性質悪いもんやけどな……。私も正直頼らなあかんとは思わなんかったんよ。やっぱ天の力を使う奴にゃ適わんか……。警戒しといたんは正解や、なぁアダム」
……は? アダム?
見るとアダムもポカンとしている。
「ほなな」
孫子はカーテンの向こうへ消えた。
「……えーでは……。気を取り直してと言いましょうか。白組はラストから二人目になります。入ってきてください」
「はーい」
妙に澄んだ声がした。大きな声ではないのに、それでもなぜか耳に残るその声は妙に人を緊張させる。
そしてカーテンがめくられる。
入ってきた色白の少女は、夜会用のドレス姿だった。薄手の水色の手袋をした手を前で重ね、たおやかに頭をたれる。
「はじめまして。聖フィロソフィー学園の皆様。私、ナッシュと申します。よろしくお願いしますね」
そして顔をあげると、一人に笑みを向けた。
「お久しぶりですわ。アダム。あなたの天敵が参りましたわよ」




