(7)
その夜、ハイフナー夫妻の住まう王宮の一角で、カリンは歓迎の意をこめた豪華な夕食をふるまわれた。テーブルに着いたのは夫妻とカリンの三名と少人数だが、陽気な二人に挟まれた食卓は賑やかでやさしくて、カリンはちょっとだけ涙腺がゆるんで困った。
また、カリンが一日かけて医務局と魔法局を渡り歩いている中、私物を含む荷物がすべて奥の寝室に運び込まれていた。どうやら急患用や、夜間も目を離せない患者用に設えた部屋らしく、カリンが使わせてもらう部屋以外に、同じ用途の部屋があと二つあった。
「狭くてごめんなさいね」
「いえ、そんなこと……とても、すてきです」
ハイフナー夫人であるレイラは、カリンの手を取ると一緒にベッドの端に腰を下ろした。ベッドには白地に紫の小花模様のカバーが掛けられ、様々な形をした若草色のクッションが所狭しに置かれている。
まるで小さなお姫様を迎えるために用意されたような、かわいらしくも豪華な寝床に、カリンはうれしくも複雑思いに駆られる。王宮へやってきた目的を振り返ると、この寝台の飾りつけはあまりにも自分にそぐわない気がした。
(それに、患者さんの為のお部屋なら、あまり長く使わせてもらうわけにはいかない……)
早めにどこか別の部屋を探す必要がありそうだ。今のところ、ここ以外の二つの部屋は空いているので、まだ明日にも出て行かなくてはならないといった、差し迫った状況でないのがせめてもの救いだろう。
「それでね、カリンさん。寝る前に少しだけ、外の空気を吸いにいかない?」
レイラは小さく微笑むと、少し皺の寄った手でカリンの右手を取り、やさしく両手で包み込んだ。それは思いやりと気遣いにあふれた、小さな愛情表現に思えた。
「この棟の屋上から見る星は、とてもきれいよ。冷えるから温かいショールをお貸しするわね」
提案というよりも、やや強引な誘いだった。でも自分で選ぶ必要のない状況は、今はありがたかった。カリンは言われるまま大人しく、渡されたショールを肩に羽織ると、夫人と連れ立って部屋を出た。
夜なのに廊下は昼間のように明るく、オレンジ色の照明があたたかい気持ちにしてくれる。屋上へ続く階段は、ハイフナー夫妻の住まいからとても近く、一人で来ても迷わずに済みそうだ。
少し狭い、冷えた石段をいつもの靴で上がると、足の裏から体温を奪われそうだった。もっと寒い季節ならば、分厚い靴下かブーツを履く必要があるだろう。
「少し立て付けが悪いのよね……よいしょっと」
階段を上りきったところで、レイラが小振りの重そうな扉を押し開けると、蝶番の錆びてきしんだ音がした。冷たい夜風が、開かれた扉の隙間から我先にと飛び込んできて、やがて全身が夜の風に包まれていく。
「うわあ……」
一歩、屋上の石畳に足を踏み出すと、頭上には無数の星がまたたいていた。正直カリンの住んでいた村とは、比べ物にならないくらい少ないが、それでも星空の美しさはちっとも損なわれていない。カリンは慣れ親しんだ村の夜空を思い出し、初めてホームシックに近い、心もとない寂しさを感じた。
「……魔女さん、よく来てくれたね」
その声に、頭上にばかり意識を奪われていたカリンは、一瞬にして現実に引き戻された。屋上部分を取り囲むように張り巡らされた低い壁の前で、背の高いシルエットがフワリと揺れる。
「殿下……」
カリンは焦って後ろを振り返ったが、すでにエレナの姿はなかった。これはもしかして、そもそも彼に引き合わせる為に、カリンをここへ連れてきたのだろうか。
「よかった、来てくれないかと思った」
イシュはブーツの踵を不規則に刻んで近づいてきた。左手には細い金の杖が握られている。昼間に会った時と同じ黒い軍服姿だったが、スタンドカラーの襟元は緩められていた。
後ろできっちりと束ねた髪の先が、夜風にさらわれて宙を踊った。両腕を差し伸ばされて、一瞬体を引こうとしたのに気づかれただろうか。そんなカリンの杞憂をものともせず、やや強引に抱き寄せられてしまう。
「昼間はごめんね……あんな態度しか取れなくて」
驚いたことに、彼は昼間の一件について、カリンに詫びているらしい。レイと一緒に廊下で出くわした時、イシュは初めて会った人のように振舞った。それは至極当然で、カリンだって理解しているつもりだ。
黒皮の手袋がカリンの両頬を包み込み、そっと押し上げられる。間近で見るイシュの真剣な眼差しは、どこか焦燥感を帯びていた。
「君に嫌われるのだけは駄目なんだ。怒ってもいいから、それだけは許して」
「き、嫌うとか、その、別に怒ってない、です」
「嘘だ。怒ってた。というより、呆れた? 嫌な奴に見えたよね?」
「そんなことないです。その……王子殿下らしい対応だったと思います」
カリンの返事は、イシュの望む回答ではなかったようだ。表情が一気に情けなくなり、悲しそうに首をすくめる姿が痛々しい。
「そんな風に距離を置かないで。君とは何でも話せる仲でいたいし、遠慮もして欲しくないんだ」
カリンは呆気に取られて、目の前に立つ大人の男を見上げた。言葉は闇夜に飲み込まれ、風に乗ってどこか遠くへ飛ばされてしまう。行き先はきっと西の森、カリンの家があるヴィスト村の近くにある、シロツメクサの野原だ。言葉はそこへ向かったに違いない。
イシュの瞳に映るのは、おそらく今のカリンではない。きっとシロツメクサの野原にいた頃のカリンだ。彼の望む小さな魔女は、そこにしかいない。
(私は……)
カリンは迷った。イシュが焦がれているのは、離宮にいた頃のカリンで、小さな慰めのひとつなのかもしれない。そう思われていることは素直にうれしい。だが、カリンはあの頃の少女のままではいられない。
あの頃カリンを取り巻く世界は、移ろう季節を甘受するまま、穏やかでやさしくもあり、少し寂しくもあった。イシュに会えることが単純にうれしく、離れるとさびしさを感じた。あの小さな野原が、カリンの世界の中心だった。
(私は……イシュと、どう向き合えばいいんだろう)
彼の人生を狂わせたけがは、自分の母親の呪いによるものだ。そのことについて、イシュは言葉でも態度でも、カリンを責めたことはただの一度もなかった。きっとそれはイシュの本心だろう……そう信じてる。
だが周囲はどうだろうか。そしてカリン自身はどうだろうか。
もしかしたら、イシュが小さなカリンを望む理由は、今のカリンを否定したいからなのではないか。そんな恐ろしい考えが頭によぎり、息がうまく吸えなくなりそうだ。
「魔女さん?」
「あ、ごめんなさい……その、ちょっと疲れてて」
イシュは小さく笑うと、カリンの頭をやさしく撫でた。すっかり慣れ親しんだその仕草に、一瞬だけ胸が切なく締め付けられる。このいびつな多幸感は、長く味わってはいけない類のものだ。
だが、それでもイシュが望むなら、できる限りその気持ちに沿いたい。カリンは小さく息を吐いて顔を上げる。
(この人は私の大切な、守りたい人だ)
自分ができることはまだまだ少なくて、そんな風に思う事すらおこがましかもしれない。母親の呪いを解く鍵が自分にあると知って、不謹慎だが本当は……うれしかった。自分が役に立つ可能性を見出せたから。でもそれは同時に、とても残酷な話だった。
(イシュの足が治ったら、私はもう……そばにいられない)
うとまれて当然の立場だ。自分は、彼の人生を狂わせた魔女の娘なのだから。
「魔女さん、今日は医務局と魔法局へ行ったんだろう?」
「はい、皆さんとても……親切にしてくれました」
かつて野原では、いつもこうやって今日あったことを話した。穏やかでやさしい時間は、いつでも彼と自分の周りの空気みたいに、当たり前にそこにあった。
「神殿にも連れてってもらいました」
「ああ、ジョンストーンだね?」
彼はジョンストーンのことをよく分かっている口振りだった。そして少し思うところがあるのか、会話が途切れた。その時、彼が先に口を開かなければ会話が生まれないことに気づく。こんなこと前はなかった。いやあったかもしれない。今はもう思い出せない。
「あそこの大神官は、僕の兄なんだよ」
「イシュの、お兄さん?」
「ああ、昔話したことなかった? 三つ上の兄貴なんだけど……今は神殿の地下で暮らしている」
言われてみれば出会ったばかりの頃、そんな話を聞いた覚えがある。三つ上の兄はすぐ殴るから怖かったと言っていた気がする。たくさん喧嘩したとも。その人が、今は大神官として神殿の地下で暮らしているとイシュは言う。大神官と言うからには、相当位の高い人だろう。もしかしたら神殿内で一番偉い人かもしれない。
「魔力をまったく持たない僕と違って、兄はとても魔力が強いんだ。だから神殿で暮らすことになった」
「ずっと神殿にいるんですか」
「ああ。催事以外は、滅多に地上に姿を現さない」
それからやや沈黙があって、イシュの左手が金の杖の先をカツンと、小さく床に打ち付けた。
「ごめん、今話すつもりじゃなかった。どうも駄目だな、魔女さんの前だと気が緩んで、うまく進められない」
イシュは前髪をかき上げると、憂いを帯びた横顔を夜風にさらした。高い鼻梁に続く口元は、いつもなら微笑をたたえているが、今は引き結ばれている。
「そのうち会わせるよ。君に紹介したい」




