(5)
昼食を終えたカリンは、レイに連れられて魔法局がある北側へ向かった。
王宮は広くて迷子になりそうだ。慣れるまで時間がかかるかもしれない。カリンはせめて自分が歩く場所くらいは覚えようと、周囲を見回しながら歩いていたら、突然立ち止まったレイの背中に体当たりしてしまった。
「おまっ、ぼうっと歩いてんなよ」
「……す、すいませ……」
レイは呆れた様子で、カリンのおとがいに指をかけると、高い背を丸めて顔をのぞきこむ。
「鼻、赤くなってんぞ」
「大丈夫、です……」
涙目で何とか首を振ったら、唐突に伸びてきた手が、カリンの頭をぞんざいにぐっと押さえつけた。
「とにかく、頭を低くしろ」
「は、はいっ?」
よく分からないまま頭を低くして視線を床に落とすと、どうやら隣のレイも黙って同じ姿勢を取ったようだ。するとそう間を置かず、大理石の廊下をカツ、カツとブーツの踵を打ちつける、不規則な音がゆっくりと近づいて来た。
「医務局長補佐殿」
間近で響いた声に、カリンの心臓が跳ね上がった。反射的に頭を上げようとしたが、思い直してぐっとこらえる。恐らく顔を上げては、不敬に当たるだろうから……。
「王子殿下」
そうレイが言ったその時、カリンの視線の先に黒いブーツのつま先と、細い金色の杖が現れた。それが間違いなくイシュアレール殿下のものであることは、顔を上げるまでもなく分かった。
「医局長に会ったら、後で執務室へ来るよう伝えてくれ。可能であれば、日が暮れる前がありがたい」
「かしこまりました」
イシュの口調は事務的で、硬質な響きがした。
対するレイの受け答えも、短くて一切無駄がない。二人の傍で小さくなるカリンは、まるで空気になったような気がした。
「……その者は?」
居心地が悪くなってきたところで、突然イシュに水を向けられ、カリンはぎくりと肩を揺らした。
「この者は、本日付けで医務局に配属されたばかりの見習いです」
「そうか……おもてを上げよ」
カリンは隣から肘でつつかれて、あわてて顔を上げた。すると光を反射して金色に光る、鋭い視線にぶつかった。
黒い軍服を纏った王子殿下は、近寄りがたいオーラを放っていた。いつもはサラリと下ろしている黄金の髪は、今は後ろでキッチリと一つにまとめられ、整った顔は白大理石のようになだらかで冷たかった。
「名は何と言う」
「……カリン、です。西の森の……」
「そうか。医務局は我が国の医療技術に貢献する他、軍にとっても要となる重要な機関だ。せいぜい励むといい」
薄い唇から紡がれる言葉を含め、目の前の人物はまるで知らない人に感じた。レイから返事をしろ、とささやかれ、カリンはあわてて返事をしたが、衝撃で頭の中は真っ白になっていた。
――周囲には、イシュとカリンが親しい間柄とは伝えてない。
だからイシュがあたかも初対面のように振舞うのも、その口調も態度も何もかも、どこも不自然には映らないだろう。どんなにカリンが違和感を覚えても、むしろ本来はこれが『当たり前』なのだ。その事実に、カリンはどうしようもなく打ちのめされた。
(そうだ、本当ならイシュと会えるような立場じゃなかったんだ、私……)
カリンはイシュの去っていく後ろ姿を見つめながら、昨晩のことを思い出していた。半年振りに再開して、夕食を共にしたあのひとときが、まるで遠い昔のように思えて仕方なかった。
離れていくイシュのブーツの足取りが重そうで、引きずる右足が痛々しそうで、本当はかけよって手を貸したかった。だが今は、そんな些細な事すらできないのだ。それがとても堪えた。
(大丈夫かな……)
昨夜は短い距離とはいえ、杖無しで歩いていたのに、一体どうしたのだろう。馬車を降りる際に抱き上げられた時、カリンは一瞬ヒヤリとした。足に負担が掛かるのではと、心配でならなかった。もしかしたら、それが原因なのかもしれないと、今更ながら不安になる。
「……今日あたり、悪化しているんだろうな」
「えっ?」
まるでカリンの不安を煽るかのように、レイが小さくつぶやいた。
「あの方は、イシュアレール王子殿下。三年前の戦争で右足を負傷されて、今も後遺症に苦しまれている。医務局と魔法局の共同で、いくつか魔法薬を調合してみたんだが、どれも今一つ成果がでなくてな……」
「そう、なんですか……」
「まあ、痛み止めはいろいろできて、日によっちゃ杖無しでも歩けるくらい調子がいいようだが、そういう日が数日続くと、あとから大抵反動が来るんだ。だから調子が良くても出来るだけ杖を使えって、先生も魔法局長も口を酸っぱくして注意してるんだが、どうもなかなか……と、こんなとこで話している場合じゃねえ」
レイはカリンを促して魔法局へと急いだ。どうやら約束の時間が迫っているらしい。
「魔法局長というか、その上のお偉いさんが忙しい方でな。ちょっとでも遅れると、うるせえんだ……特に魔法局長の奴が」
どうにか魔法局のある北棟の入口に到着する頃には、カリンはすっかり息が上がっていた。
「じゃ、頑張れよ」
レイはそう言うと、片手を上げて去ろうとした。カリンはあわてて引きとめたが、レイは頑なに首を振る。
「付き添いはここまでだ。俺、苦手なんだよ……ここんとこの局長、というか魔法局自体が」
「そんな、でも私……」
「お前もガキじゃねーんだから、挨拶くらい一人でできるだろ? ハイフナー先生が話通してあるって言ってたし、どうせ明日からお前ひとりでここに通うことになるんだし……ほれ、あの扉だよ。あそこが局長室だ」
文字通り背中を押されたカリンは、すがるような気持で後ろを振り返ったが、レイはすでに姿を消していた。ものすごく早い逃げ足だ、とカリンは不本意ながら感心してしまった。
扉をノックすると、中から入りなさい、と重々しい声が聞こえた。
そっと扉を押し開けると、そこは地位の高そうな人間の執務室らしかった。部屋の右側には、優美な曲線を描く猫足のソファーが二つ、背の低い小さなテーブルをはさんで向かい合わせに置かれ、また反対の左側の壁にある背の高い本棚には、歴史的価値のありそうな蔵書がぎっしりと詰め込まれている。そして正面奥の窓を背にした執務机は、部屋の主を反映するかのような重厚感が漂っていた。
その執務机から立ち上がったのは、短く整えた白いあご髭と同色の短髪が目を引く、威厳と気難しさが漂う壮年の男だった。魔法使いが好んで纏いそうなローブを身に着けているところから、恐らく魔法局長に違ないとカリン背筋を伸ばす。
「はじめまして……カリンと申します。西の森から来ました」
「ハイフナーから聞いている。ここへ」
ソファーに座るよう勧められ、部屋に足を踏み入れたカリンは、そこで初めて扉の横にもう一人ローブ姿の人物が立っていることに気づいた。
「魔法局長のジョンストーンだ」
ジョンストーンは線が細く、青白い顔をした青年で、魔法使いの黒いローブが彼をいっそう陰鬱に見せていた。
「そして私がヒューゴ・ベイゼル。魔法局長だったが三年前に引退した。今は滅多にここへは顔を出さないが、いろいろ事情があってな。まあ君も、その事情の一端ではあるが」
ベイゼルはチラリとジョンストーンに目をやると、カリンの正面に腰を下ろして、両手を膝の上で組んだ。
「さて。君の事情を知っているのは、ここ魔法局では私の他にジョンストーンだけだ。王宮内で言えば、医務局長のハイフナー、それからイシュアレール王子殿下、シェリマ王女殿下……そして国王陛下となる。君はユーリウスを知っているな?」
「はい……半年前に一度だけ、森でお会いしました」
「ユーリウスは今、君を迎えれる為に森の結界を強化している。恐らく半年以内には、準備が整うだろう。その間、君の身の安全を図る為に、王宮に滞在してもらうことになった」
カリンは小さく頷いた。これは王宮に到着した直後、イシュから直接聞いた話と同じだった。本来カリンは、師匠となるユーリウスの森へ向かうはずだった。しかし森の結界が不十分の為、一旦王宮の預かりとなる運びとなったらしい。
――西の森に張られた結界が、そろそろ限界を迎える。
カリンの母エリヴェルは、結界魔法にも明るかったようだ。そしてその威力たるや、我が身を、引いては我が子カリンを守る執念の賜物だろう。しかし、術者が不在の結界には限界があった。
イシュを通して聞いたユーリウスの見解によると、おそらく三年前にイシュが野原に迷い込んだ時……その辺りから結界の『ほころび』が始まったらしい。
――あの野原には、イシュのように呪術を掛けられた人間は、本来入れないはずだった。
呪われた人間が自分の娘に近づかないよう、エリヴェルは細心の注意を払った。だがイシュは呪術とはいえ、術者と同じ魔力を纏った状態だったので、ただでさえほころびかけてた結界を、さして抵抗もなく越えられたのだろう。
カリンは覚悟も新たにベイゼルを見つめ返した。
「君は王宮にいる間に、少しでも魔力を解放できる術を習得してもらう。君を狙う輩がいても、王宮内の強力な結界が守ってくれる。君は安心して修行に励むといい」
「はい……」
「指導は私が直接行う。君は今後、私の前以外で魔力を使うことを禁ずる。それ以外の基礎的な座学は、そこにいるジョンストーンに指示を仰ぐといい」
「はい……よろしくお願いします」
カリンは緊張したまま、ベイゼルの隣に立つジョンストーンを見上げた。彼はカリンに冷ややかな一瞥を投げただけで、特に何も言わなかった。
ベイゼルはそれで説明は終わりとばかりソファーから立ち上がったので、カリンはジョンストーンについて部屋を後にした。
「……せいぜい足手まといにならないよう、気をつけるんだな」
廊下に出て、開口一番にジョンストーンから言われたのがこの言葉だ。カリンはかすれ声で返事をしたが、小さすぎて聞こえなかったかもしれない。
拒絶する背中を追うしかないのも、辺りの空気が冷たくても、当分の間は、午後のカリンの居場所はここ以外ありえないのだ。
(頑張って、一日も早く慣れなくちゃ……)
言われたことをきちんと守ろう。与えられたどんな仕事でも真面目に取りくみ、教われることはすべて一生懸命勉強しよう。そうすればきっと、少しずつでも打ち解けていけると思うから。




