その本に導かれて
――これを、持って……きっと、力に……。
――ごめん、ね……ゆるして……。
走りながら何度も思い返した。震える声、濡れた頬、優しい瞳。同時に、いくつも疑問が湧いて出る。
どうして謝ったんだろう。謝りたいのはわたしの方だ。
どうして泣いていたんだろう。泣きたいのはわたしの方だ。
どうして守ってくれたんだろう。守りたいのはわたしの方だ。
どうしてわたしは、生きているんだろう。
足が止まる。靴を履く暇もなく飛び出したから、足の裏がじくじくと痛んだ。お母さんはこの何倍も痛かったはずだ。この程度で泣くわけにはいかない。
あふれる涙を拭って、わたしはまた走り出した。けして振り返らないように、前だけを見続けて。
目的の街に着いたのは、空が血のように赤く染まった頃だった。もうすぐ暗くなることを恐れて足の動きが速くなる。それなのに、一向に前に進んでいる感じがしない。むしろ遠くなっているような感覚さえあった。
引っ張られている。そんなはずはない。でも、お店には到着しない。もしかして違う街に来たのか。いや、それはない。家を出る前にこの目で確かめた。間違いなくこの街のどこかにある。
肯定と否定を繰り返しながら、足だけは動かし続けた。横目で周辺を確認することも忘れない。それでも見つからなかった。
どうして。そればかりが頭の中を駆け巡る。答えを知っている方がいるのなら今すぐに教えてほしい。こんなことになってしまった真相を、どうかわたしに――。
「あっ」
転ぶ、と思った瞬間にはすでに体が傾いていて、止めることはできなかった。
「ぐっ! いっ、たぁ……」
脚の全体が痛みを訴えている。薄暗くなってきているせいではっきりと見えないが、多分血が流れている。膝や脛のあたりは火がついたように熱かった。
「……あれ?」
家を出てからずっと抱えていた本が消えていた。倒れたまま頭だけを動かすと、数歩進んだところに放り出されていた。よかった。失くしてなかった。
安堵したのもつかの間、砂を蹴るような音が聞こえた。しかも、いくつも重なっている。ぞわりと体が震えた。
痛む体を引きずって本に手を伸ばした。角に触れたのと同時に、唸り声がこだました。心臓が大きくはねる。口の中が急速に乾いていく。嫌な予感はすでに確信に変わっていた。
振り返って視線の先にあったのは、黒い何か。
「…………けて」
飲み込まれる。これでわたしも終わるんだ。自分のことなのに他人事のように感じられた。
「……すけて」
手に硬い感触があった。引き寄せ、抱きしめる。唯一残された支えに、思いの丈をぶつけた。
いやだ。わたしはまだ、終わりたくない。
「誰か助けて!!」
ギィン! と硬質で耳障りな音が響いた。
「めっずらしー」
「…………え?」
知らぬ間に閉じていた目を開けると、おかしなことが起きていた。
見るからに刺々しい牙と鼻をつく腐臭。襲いかかってきていたのは、魔獣と呼ばれる生物だった。その中でも、犬か狼のように敏捷性と獰猛性をもったタイプだ。それだけでも驚くには十分すぎる。でも、わたしの意識はもう少し手前に向けられていた。
大きく開かれた魔獣の口を棒切れひとつで止めている、男の子。さっきの飄々とした声は彼のものだろう。目の前に命を刈り取る危険な獣がいるのに、まるで遊んでいるように楽しげな声が聞こえてくる。痛みと熱を感じていなければ、夢だと思ったかもしれない。正直、その方が良かった。
「ははっ。せえ、のっ!」
黒い魔獣が突然吹き飛んだ。理由は、男の子が蹴ったから。勢いあまって棒は粉々になってしまったが、気にした様子は全くない。何が起きているの……?
「てんちょー。あいつらどうするの?」
魔獣が一体、また一体と群れを作る状況を見つめながら、男の子が誰かに声をかけた。今、店長って言った、よね……。でも、あの子がどこかの店で働いているとは思えない。魔獣と戦う仕事なんて聞いたことがないし、そもそもあの子は何者なの?
助けてもらったのはすごく嬉しいけど、訳の分からないことに巻き込まれてしまった気がする。今すぐ逃げ出したいのに、戸惑いがわたしの体を重くしていた。
「ンッフフ。好いですねぇ」
耳元で声がした。振り返り、道化の仮面と目が合った。
「きゃああああ!?」
「ンッフフ。魔獣にも悲鳴をあげなかったのに私には金切り声をプレゼントとは。しかし、楽しませてもらったので赦しましょう、ええ。それと、贈り物にはちゃんとお返しをしなければ」
よく見ると、仮面は顔の半分だけを覆っていた。もう半分を仮面と同じ白に塗っているから勘違いしてしまった。笑い方や話し方、いたるところが怪しい。
「ンッフフ。魔獣は牙と尾が良い素材になります。そこさえ無事ならあとはどうとでも。よろしくお願いしますね」
「それ、面倒なんだけど。……ま、いっか」
漏らした愚痴をさっさと捨てて、男の子が駆け出した。その先には、魔獣の群れ。二人の会話から何をするのかは予想がついた。無謀すぎる。さっきは一体だけを相手にしていたから偶然なんとかなっただけだ。次はきっと死んでしまう。
「だ、だめ!」
「いいえ」
すぐに否定が重ねられた。見上げると、仮面がこっちを見ていた。
「問題ありませんよ。すぐ調子に乗るところがありますが、戦闘力だけをとるなら魔獣ごときに遅れはとりません」
「で、でも」
「ご心配なら見ていてください。……おや?」
男の子に目を向けたのと同時に、彼の脇から黒い魔獣が飛び出してきた。群れの一体だと気づいた時には、魔獣がわたしたちに飛びかかろうと地面を蹴っていた。
「ごめーん。逃げられたー」
間延びした声が今さら聞こえてくる。そこに動揺は一切含まれていなかった。
迫り来る爪や牙をぼんやりと見つめる。もう間に合わない。今度こそ死んでしまう。
「やれやれ、仕方ありませんねぇ」
ため息の直後、何かが潰れたような嫌な音を耳にした。
「……え」
魔獣の顔が鼻を中心に潰れていた。原因となったのは、小さな拳。
「よわい」
言ったことを証明するように、顔面から抜いた拳を魔獣の脳天に叩きつけた。地面が陥没するほどの威力をまともに受けた魔獣はぴくりともしなかった。
「ンッフフ。お見事でした。帰ったらキャンディをあげます」
仮面の男性が魔獣を二撃で倒した男の子を撫でる。命をかけたご褒美がキャンディって……。
「てんちょー、オレにもくれよー」
すると、さっきの明るい子が戻ってきた。全身が血まみれで意識が飛びそうになった。多分、返り血を浴びたんだろう。おそるおそる向こう側を見ると、無事な魔獣は一体もいなかった。全てが地に伏している。この光景を彼らが作ったと言われても、正直信じられない。
でも、実際にわたしはまだ生きている。この事実を覆すことはできない。
「あ、あの」
声を絞り出す。六つの目が一斉にわたしを見た。
「あ、ありがとう、ございます」
「いえいえ、お気になさらず。……それよりも」
男性が目を細めた。白い手袋をつけた手がぬっとわたしに伸ばされる。
「ちょっとよろしいですか?」
自然な動きで抵抗を忘れてしまった。本を取られたことに遅れて気がつく。
「か、返して!」
「確認したいことがあるだけです。あなたのものですから、もちろんお返ししますよ」
そう言うと、本の表紙に手を添えた。開くわけではなく、ただそうしただけ。数秒待って、彼は「なるほど」と呟いた。
「ありがとうございます。やはり当店の魔導書で間違いないようですねぇ」
にぃ、と口の端を歪めながら本を返された。不気味だけど、気になるのはそこじゃない。
「……当店?」
店長という呼び名といい、やっぱりどこかの店で働いている人達なのか。しかも、本のことを知っている。
魔導書。ありふれたものではないけど、誰にでも手に入れられる身近な本。だから、知っていてもおかしくはない。自分の店のものであると断言できたことがおかしいんだ。
「どういう、ことですか……」
何から確かめればいいのか分からなかったせいで、そう聞くしかなかった。
「ンッフフ。その話は店に着いてから。まずはご案内しましょう」
そう言って差し出された手をじっと見つめた。わたしには他に選択肢がない。この手はどこかの道につながっているだろう。仮に騙されていたとしても、思っていたより早くお母さんのもとにいけるだけ。一人でいるよりは幾分ましだ。
ぐっと握った手は、手袋越しでもひんやりとしていた。
「てんちょー、用意できたよ」
「おもい」
「はんぶんこだろ。我慢しろ」
わたしたちが話をしている間、男の子二人は血にまみれた牙や尾を回収していたらしい。両腕でしっかりと抱える姿は可愛らしいはずなのに、持っているもののせいで魅力は感じられなかった。
道案内は予想よりもずっと早く終わった。彼らが勤めているらしいお店は、わたしが襲われた場所からそう離れていなかったのだ。
通りから外れた場所にある、一軒のお店。辺りはもう暗くて、店名を確認することはできなかった。
「あの、ここって……」
返事を聞く前に、カチャンと金属音がした。
入口の前で半回転した男性は、深々と腰を曲げた。顔だけはわたしをしっかりと捉えている。何をするにしても怪しい彼に本当についてきてよかったのか、不安は消えてくれない。
もう遅いとばかりに、男性の口角が上がった。
「ようこそ、お客様。ここはギフトショップ。魔導書の販売を専門としております。どうかご贔屓に」
謎めいた店長と、やけに強い子供が二人。一冊の本に導かれたように、わたしは彼らと出会った。





