ヤミ帝都事変・喫茶ハガクレ
黄昏から宵闇にうつろう帝都に、少年の歌声が響いた。
「散切り頭を叩いて見れば、文明開化の音がする♪ 妖は、まやかしさ♪」
ガス灯に照らされた無邪気な笑顔が、亡き弟の姿に重なって見え、茂一郎は思わず目を逸らし、人混みから脇道に入った。
──妖などいない。そう笑えたら楽だ。だが帝都はヤミに包まれている。
サクサク。静けさの中で落ち葉を踏む音だけが響く。ほかに音はない。だがつけられている気配を感じる。
詰め襟のシャツに木綿の着物。学帽を目深に被り直し、さっと周囲を見渡すが誰もいない。
とんびコートを引き合わせ縮こまった。懐のコレを奪われてはならない。
茂一郎は軍人だ。とある任務を帯びている。ありふれた書生を装っていたが、そろそろ潮時かもしれない。上から緊急時に逃げこむ店を聞いている。
いくつかの辻を曲がり裏路地を抜け、カフェを見つけた。
『喫茶ハガクレ』
間違いないと扉を開けた。
カラン。来店を告げる鈴の音が鳴り、珈琲の香りが漂う。店の中は文明開化の匂いがした。
雪洞がぼんやりと灯る薄暗い中、ぬぅっと若い女中が出迎える。
「いらっしゃいませ」
黒く長いスカートに白いエプロンとはハイカラだ。若い娘の間で流行っている耳隠しという髪型が似合う、利発そうな娘だ。
品書きを受け取りさっと見る。珈琲、紅茶、ミルクセーキ。珍しく酒は扱ってないようだ。ビフテキ、オムレツライス、シベリア。食べ慣れない洋食が並ぶのでどうも居心地が悪い。
視線をあげて店内を観察した。他に客はいない。
カウンターの中に女が立っている。洒落たワンピースに、肩の上で切り揃えた断髪と帽子。日本人離れした顔立ちで、煙草を燻らせる姿が様になっている。
「お兄さん、うちの名物はステーキさ」
流し目と共に紡がれたハスキーな声が、妙に色っぽい。あれがモダンガール、モガか。
慌てて目を逸らすともう一人いた。緑と黒の市松文様の着物に白いエプロンを重ね、お下げ髪。昔ながらの純朴そうな風情がほっとする。
店にいるのはその三人だけだった。
少女達が寄り添って、ひそひそ話をする。
「あら、芳乃さん。お客さんに見られてるのではなくって? きっと気に入られたのだわ」
「やめてぇな、八重ちゃん。うち恥ずかしくて、お客はんのとこ、いかれへん」
お下げ髪の芳乃は恥じらうように髪を弄り、ハイカラ女中の八重は丸い瞳を細めた。若い娘をじろじろ見るのは失礼だと反省し、おほんと咳払い。
「注文を頼みたいのだが」
「はい。旦那はん。何でも言っておくれやす」
「『気の抜けたビール』を頼みたい」
そんな物を飲みたがる奴はいない。上から聞いた符丁だ。誰が間諜かわからないが通じるはずだ。注意深く反応を探ろうとした時だった。
ガチャン! 鈴が激しく鳴り響き、扉が開いて子供が転がり込んできた。目深に被った鳥打帽で顔が解らないが、薄汚れた着物の少年に見える。
軍刀を腰に吊した男が三人続いた。憲兵だ。
「いてーな! てめぇら覚えとけよ!」
がつんと蹴られた少年の悲鳴が聞こえ、とっさに立ち上がろうとし踏みとどまる。
今ここで出ていけば、この場は収まるが、素性が洩れる。決して奪われてはならない物を抱えた任務中だ。迂闊な真似はできない。
憲兵が蹴る姿を横目に、ぐっと歯を食いしばる。
「……」
「なんか喋りやがれ! でくの坊か!」
蹴られてもなお威勢が良い。だが憲兵がいつ刀を抜くかわからない。男は自分一人で他に止める者はいないだろう。
蹲る少年の姿に亡き弟の姿が重なって見えた。守ると誓ったのに、守れなかった。その後悔を拭うため、軍人になったのではないか?
このまま見捨てるのは大和男児の恥だ。
「……」
茂一郎は躊躇いを拭いさり立ち上がろうとした。
──その刹那。灯りが消え、店内は闇に包まれた。
すっと誰かが近づき囁く。
「……ここはお任せを」
ぴりっと緊張感が漂う声に気づく。これは訓練を受けた者の声だ。
「こいつら全部キグルイのヤミで手遅れだ!」
少年の声が店中に響く。その言葉を聞き茂は懐のモノを握りしめ目をこらす。闇の中に青白い灯が見えた。
嗚呼、あの憲兵達は、 病んでいる。
鬼狂──帝都に蔓延する奇病だ。鬼に喰われ病んだ人間は死者の如く正気を失い鬼となる。
あの憲兵達はすでに死人なのだ。
カウンターから、ハスキーな声が鋭く飛んだ。
「作戦〇三式で行く」
「よくってよ」
「ほな、いくで」
ガンッと鳴ると同時に灯りがつく。男の顔面に銀盆が叩きつけられていた。
芳乃と八重が男達を挟み撃ちに立ち、少年は扉の前を陣取った。
銀盆が男の顔から落ちる。
同時に八重はブーツのかかとを顎に叩き込む。ごりっ、骨が砕ける。
めくれ上がったスカートから、若い娘の柔肌が見えそうで、慌てて目をつぶろうとして固まった。
白い太ももに二丁の黒い拳銃が!
ちらりと八重と茂一郎の目があった。
「あら、君ったら、スケベですこと。紳士なら目をつぶってくれなくちゃ、嫌ですわ」
そう言いつつ両手で拳銃を引き抜き、沈み込んで体勢を整える。頭に銃口を突きつけ、引き金を引いた。
ダンッダンッ!! 至近距離から放たれた二発の弾丸が脳を穿ち、青い血が飛び散った。
芳乃はぐんと腰を落とし、一呼吸で懐に飛び込む。すれ違いざまに、軍刀を掠め取り、ぐるり振り返る。お下げ髪も揺れる。
奪い返そうと伸びた手を、半身を引いて、躱す。男がもう一度手を伸ばしたら、一歩下がって、刀を構えた。
「……!」
「あんたさん、成仏せな、あかんよ」
すり足で踏み込み、逆袈裟で下から上へ切り上げる。鮮やかな太刀筋と共に、袖が揺れた。
すぱんと首を跳ねられ死体が転がる。刀から青い血が滴り落ちた。
最後の一人が出口に向かうが、少年が許さない。
懐に入って腕を掴み、一本背負いで投げ飛ばす。
ドスン! 鳥打帽が宙を舞い、束ねた長い黒髪がこぼれ落ちた。顔が露わになって気づく。少年ではなく少女だ。
「死人はさっさとおねんねしてな!」
馬乗りで押さえ込み、懐から小刀を取り出し喉笛一突き。青い返り血が少女の顔を染めた。
あっという間に、店の中に三体の死体が転がった。
少女達は何事もなかったかのように、笑みを浮かべ、小鳥の如く囀りだす。
「病んだ奴らが、大量に沸いてくるぞ」
「いやね。今日の当番変わってくれてもよくてよ」
「千代。あんたはんが、誘いこんだんやないの」
「ちげーよ。店の前にたむろってたんだ」
千代と呼ばれた少女は鳥打ち帽を被り直しつつ、茂一郎をギロッと睨んだ。大口を開け八重歯を見せながら食ってかかる。
「あんた。あたしを助けようとしただろ! なにもんだ! 鬼を 呼んだのもあんたか!」
「いや、自分は……」
千代の姿が生意気だった弟と被って見え、調子が狂って言い返せない。
その時、モガの女が宣言した。
「姦しい。来るぞ、伏せろ。三秒だけ待ってやろう」
いつのまにかカウンターの上に機関銃が置かれている。
少女達はさっと隠れた。茂一郎も染みついた軍人の習性で机の下に潜り込む。
扉が開いて、人の群れが雪崩れ込んできた。
「招かれざる客には、弾丸のフルコースを」
女はカウンターの影に隠れつつ、躊躇いなく機関銃をぶっ放した。
ガガガガガ! 暴力的な音と硝煙の匂いが店内を支配し、薬莢が床に転がった。
銃声が収まったのを確認して、ゆっくり立ち上がる。
死体だらけだが、どれも血が青い。病んだ鬼の特徴だ。赤い血は、一滴たりとも見当たらない。
女は咥えた煙草を死体に落とす。鬼火の如き青い焔が死体を包んだ。
「喫茶ハガクレ名物、ステーキのできあがり。今日はもう店じまいだがね」
そう言って店の扉を開けた。
蓄音機から流れる流行歌の音色が、外へ吸い込まれるように消え、死体を焼き尽くした塵も、風に運ばれ空へ溶けていく。
後には何も残らない。
カラン。閉店を告げる鈴の音が鳴り、硝煙の香りが漂う。店の中は戦場の匂いがした。
まだ戦いの熱が冷めやらない店内で、モガの女は冷ややかな眼差しで千代を見た。
「口を慎め、千代。そちらは少尉殿だ」
「っげ! し、失礼しました!」
「榊原少尉ですね」
「あ、ああ榊原だ。……貴殿は?」
女が敬礼をすると、少女達はその後ろに横並びに整列し、敬礼の姿勢を取る。
「葉隠隊の南雲綾子曹長であります」
「あの鬼刈り部隊か」
鬼から帝都を守る為に結成されたと噂は聞いていたが、軍隊内でも謎が多い秘匿部隊だ。
まさか喫茶店を根城にして、隊員が女子ばかりとは。だがその実力を見たばかりだ。疑う理由はない。
「中佐から伝令を預かっています」
間近で見ると南雲の瞳の色が薄く見えた。西洋人の血を引いてるのかもしれない。差し出された手紙を受け取って開く。思わず手紙を取り落とした。
『榊原茂一郎を葉隠隊の隊長に任命する』
葉隠の隊長? 何かの間違いではと茂一郎が困惑しているとハスキーな声が告げた。
「今日から貴方が、この喫茶店の主人です。注文をどうぞ」
茂一郎を見る少女達の反応は様々だ。
八重は朗らかに微笑んで手を振ってみせ、芳乃は恥じらうように俯いてお下げ髪を弄る。千代は不満げに唇を尖らせそっぽを向いた。
扱いの難しそうな部下達で、茂一郎はほうとため息をつく。
闇を渡り、鬼を刈り、帝都に蔓延する、病みを狩る。
帝都の片隅にある喫茶店を隠れ蓑に、ハガクレと鬼の戦争は静かに幕を上げた。





