生きてる探偵、死んでる助手、事件は夢の中で。
『助けてください』
「いいえ」
『助けてください』
「いいえ」
『血が出ていて』
「いいえ」
『車が、後ろから私を
「いいえ」
『痛い。痛いんです。助けて』
「いいえ」
『どうして』
「いいえ」
『貴方が私を殺したんですか』
この話はもう何年も前のことで、当時俺に口止めをしていた人間もすっかり死んでしまったので時効だろうと思って語る事にする。
当時、俺はまだ十九歳の若造で、時期としてはちょうど裏川越に入り浸って五年も経った頃だ。十九を若造と呼んで良いのかわからないが、髪を金色に染めて赤黒チェックのシャツとジーンズを常に着てシルバーアクセで指や首を飾り付けていたのは明らかに若気の至りだった。
俺を拾ってくれたタイヨウさんとの同棲が思わぬ形で解消されてしまった十九歳の俺は、裏川越での住処と仕事を探していた。
「チアキ、まだ住処は見つかってないのか?」
表にある商店街の通りにある喫茶店、紫煙の漂う喫煙席で窓から射す光線をうっとおし気に避けながら、フタカゲさんが言った。
「まだですね」
アイスコーヒーに口をつけてから、返事をする。フタカゲさんはショートピースを吸いながら「ちょうどよかった」と笑った。もっとも、笑っているとわかるのは目だけで、ジャングルのような髭に隠れた口元が本当に笑っていたのかどうかはわからない。
フタカゲさんは、見ようによっては四十代の中年にも二十代の青年にも見える不思議な男だった。いつでもアロハシャツを着てビーチサンダルを履いている事も奇妙だが、この太った男の最も不可思議な部分は名前の由来にあった。
「お前に紹介したい部屋と仕事があってな」
「ありがたいですね」
言ってから、ちらりとフタカゲさんの足元を見る。そこにはいつも通り、男と女の影が並んでいた。
フタカゲさん。二つの影でフタカゲさん。男の影はもちろんフタカゲさん本人のものだが、女の影の方の正体を当時の俺は知らなかった。もっとも、探ろうとすら思わなかったが。裏川越の住人の素性を知る事は大変なリスクがある。藪を突いて出るものが蛇だけとは限らないのだ。
「裏にあるマンションなんだがな」
「はい」
ぐい、と俺の方へ身を乗り出して小声で話すフタカゲさんに合わせて、俺も身を乗り出す。
裏川越の存在は表の人間に知られてはならない。知られたところで表の人間に何が出来るということもないが、白蛇の眠りを妨げる事はなるべく避けたかった。
裏川越。喜多院という寺の地下で、天海大僧正に封じられて永い眠りについた白蛇が見ている夢の世界。その世界の住民の大半は人外で、俺のような純粋な人間は殆ど存在していない。
元を正せばタイヨウさんも人間なのだが、タイヨウさんは表で死を迎えたのち幽体として裏川越に住みついている。フタカゲさんもフタカゲさん自身は人間だろうが、どう見ても二つ目の影は人のものではない。どうしてあんなものを取り憑かせていながら生きているのか、それは今でもわからない。知る術もなくなってしまった。
「どうにも奇妙で、特にその部屋はな」
「そうでしょうね」
裏川越にあるものは全て奇妙で不可思議だ。そもそも裏川越自体が整合性やルールといったものから逸脱した世界なのだ。街並みは建物ばかりがてんでんに並び立って迷宮じみているし、東西南北も春夏秋冬もあったものではない。コンパスを表から持ち込んでみたことがあったが、役に立ちはしなかった。もっともこれはコンパスに限らず、大体の文明品は役に立たなくなるのだが。
「お前にそこへ住んでもらいたい」
「家賃は?」
「要らん。2LDKでエアコン付き。風呂トイレ別。破格だろう?」
「床と天井は無し。なんてことはありませんよね?」
はっきり言うが、床と天井が無い程度で済むデメリットの方がよっぽどありがたかった。無いものはいくらでも後から作れるが、既に在るものを退かすのは骨が折れる。これは比喩じゃない場合もある。
「もちろん。壁だってあるぞ。それと備え付きの電話も便器も靴箱も」
「電話?」
「不思議だろう? どうして裏にそんな物があるのか」
裏川越は、もう一度言うが夢の世界だ。電話なぞ、無用の長物の代表格だろう。
「電波も電線もない裏で、どうして電話を使おうと思ったのか、誰が持ち込んだのか……もっとも、これは明らかにしても意味はありませんが」
「気になる気持ちはわかるがな」
二本目の煙草を咥えて、フタカゲさんが火をつけた。
「その電話がな」
「はい」
水音を立ててストローをすする。酸味の強いコーヒーは氷が溶けて薄まると最悪だ。と言うのを学んだのは確かこの時だ。
「毎晩、日付が変わるきっかり五分前に鳴るんだ」
「電話の付喪神じゃないんですかね」
これもかなり甘えた推測だ。そうであってほしい、という願望であり……、
「電話自体はただの電話だ」
簡単に否定されてしまう下らない妄想だ。
「その電話に出て、『いいえ』とだけ答える。これが仕事だ。金は出す。こっちも破格のな」
「誰なんですか? 電話の相手は」
「知らん。探りも入れるな。藪を突いて出てくるのが蛇とは限らないからな」
それからフタカゲさんは「『いいえ』以外の返事も一切するな。こっちはいよいよ藪じゃないものを突くことになる」とだけ言って、煙草を灰皿でもみ消した。話は終わりだ、という合図だ。
しかし、俺はそこでさらに食い下がった。
「いや、いつまでも電話番をさせられるのは困る」
「だから?」面倒臭そうにフタカゲさんが言う。
「報酬はひと月分だけで良いです。ひと月で電話の相手を俺が片付ける。代わりに、その部屋を俺の事務所にさせてもらいたい」
住む場所や役割、裏に自身を繋ぎ止める楔を持たない者は、いつしか消えてしまう。白蛇の夢から忘れられてしまうのだ。
表に居場所を持たない俺は、裏にいることしか出来ない。住処と仕事を求めてフラついているうちに消えてしまう恐れがある生活から何が何でも抜け出したかった。
タイヨウさんの助手という役割を失った俺は、いつ消えてしまうかわからないのだ。
「電話番をしているだけでも、住処と仕事はあるだろう」
「駄目なんです。それじゃあ、毎日帰ってくることになる」
「探したいのか、タイヨウを」
無言で頷くと、フタカゲさんは「仕方ねえな」と言って、マンションの鍵を渡してくれた。
そのまま俺はリュックひとつに詰め込んだ全財産を持って、その日のうちに引っ越した。
これが、出居中きる美。俺の助手である女子高生幽霊との、出会いのきっかけだった。
ぷるるるる。
ぷるるるる。
ぷるるるる。
「はい。タイヨウ探偵事務所」と長年の癖で答えてしまいそうになるのをギリギリ堪えて受話器を耳元に当てた。
時刻はきっちり日付変更五分前。電話線が繋がっていないはずの受話器の向こうに意識を集中させる。
『助けてください』
「いいえ」
『助けてください』
「いいえ」
『血が出ていて』
「いいえ」
『車が、後ろから私を』
「いいえ」
『痛い。痛いんです。助けて』
「いいえ」
『どうして』
「いいえ」
『貴方が私を殺したんですか』
「いいえ」
フタカゲさんの言いつけ通り、「いいえ」という返答のみを口にする。
電話越しに聞こえてくる声は酷く悲痛で、切迫したものだった。銀色の冷たさが、痛みとなって耳に突き刺さる。緊張感で平静が保てなくなりそうだった。
『どうして助けてくれないんですか』
「いいえ」
『助けて。助けてください』
「いいえ」
少女……少女の声だ。今更それに気付いたのは、血の泡が爆ぜる音と吐血とで声の混濁が酷かったせいだ。それに気付いてしまうと、「いいえ」と冷たく返事をし続けることが酷く心苦しくなった。
『助けてください』
「いいえ」
『助けて。私は』
「いいえ」
『誰に殺されたんですか?』
長針と短針が重なると同時に、電話は一切の無音になった。
(誰に殺されたんですか……?)
体温と共に平静を取り戻し、受話器を電話に戻す。
耳にこびりついて離れない、少女の声。胸に焼きついた、冷たく拒絶し続けた罪悪感。
しかし、裏川越に住み着いていた為に怪異慣れしていた俺は、むしろ少女の最後の言葉が引っかかっていた。
(自分が死んだことは理解しているのか……?)
もしも、自分が死んでいることに気がついていなかったり事故直後の瞬間に囚われ続けていたりするならば、「誰に殺されたんですか」と言う問いは出てこないはずだ。
(ちょっと、考え直しだな……)
決まった時間に電話がかかってること、助けを求める内容であることから「死んだことに気が付いてない霊が事故の時間に電話をしている」という推理を立てていたのだが、この時点でだいぶ疑わしくなった。
(とりあえずは明日……)
翌日も全く同じ時間に電話が掛かってきた。今度は三コール待たせることもなく、すぐに取る。きっちり五分で電話が切れるなら、モタモタしている暇はない。
『助けてください』
昨日と全く同じ声色、同じ内容。俺はすかさず返事をする。
「今、何処に居るかわかりますか?」
賭けだった。これで事態が好転したり解決の糸口が掴めたりするという保証は何処にもない。いや、それどころか自分の身の安全すら保証されていないのだ。
それでも見えてる危険に飛び込むしかない時があり、それは見えない危険よりはるかにマシだった。
(さあ、どんな反応をするか……)
騒がしい胸を押さえながら待つ俺に返ってきた答えは、ひどく冷たい声だった。
『いいえ』





