明け方の客
高橋元太はぐるりと店内を見渡した。
見渡す、という表現が大袈裟なほど狭い店内。見るまでもなく、客はいない。
今日も穏やかな夜だった。
ポツリポツリとしか人の訪れない店だが、月に一度とか、2、3ヶ月に一度、定期的に来てくれるお客がいる。
そんな人たちは、みんな飲み方も静かで、こちらも心地よく話ができる。
たまに、娘の同級生だった子供たちが、クラス会を開いたりすると、その雰囲気が一転、学生のお祭り騒ぎ状態になるが、それも一興。
娘の莉音が生きていたら、この輪の中で、どんな顔をしているだろうと思いを馳せるのだった。
店内は、片付けるほどの物もなかった。
営業時間は朝の5時まで。だが、これから来る客もいないだろう。
早めにクローズしてもいいかと、元太が思い始めた時、ドアが開いた。
「こんばんは。―ああ、」
現れた浅黒い顔の、少々イカつい風貌に、元太は見覚えがあった。
商売柄、人の顔は意識して覚えるようにしているし、この男は印象に残っている。
「覚えていてもらえましたか。こちらへ伺ったのは一年近く前になりますが」
渡辺は小さく会釈し、カウンター席へ腰を下ろした。
「ええ。調査室にお勤めだった……渡辺さん、でしたね。調査の方は終わられたんですか?」
元未登録翼保有者対策室に勤務していた男。そして、上司だった須藤の起こした事件の背景を調べるために、ここを訪れたことがある。
「いや、足踏みですよ。情報が集まらないのもあるが……こちらも生活のためには金になる仕事もしなくちゃならなくてね。しばらく、海外に行ったりしていたもので」
「ほぅ、そうですか」
元太はそれとなく、注意深く相手の表情を窺った。そして、相手も同じく自分の様子を窺っていると感じた。
この前来た時は、水割りを注文したはずだが、今日のオーダーはビールだった。
「マスターと少し話がしたかったので。この時間なら、すいてるかと思ったんですよ。読みが当たったな」
最初に注いだビールの粗い気泡が消えるのを待つ間、そう言われて元太は苦笑した。
「うちがすいてるのは、この時間に限りませんよ」
渡辺は静かに店内を見渡す。視線の先に、小さな絵があった。
「失礼を承知で言うが、それでやっていけるのは、他に副業があるからですか?」
それは質問というより、確認だった。
細かい泡だけが残ったビールのグラスに、さらに注ぎ足す。
きめの細かい、シルクに例えられるような泡が乗ったグラスが渡辺に差し出された。
「絵の仕事もされてるんでしょう?この店の絵も、あなたの作品だ」
グラスを傾ける渡辺を、元太はじっと見つめた。
「……うまい。ビールは久しぶりでね」
かすかに笑みを浮かべた口元を渡辺は拭ったが、その目は笑っていない。
慎重に、獲物を狙う目にも見えた。
一方、元太の目には、なんの色も浮かんでいない。淡々と、静かな眼差しだった。
「私のことを調べられたんですか?なにか、あなたの気になることでも?」
渡辺は入り口近くにかけられた、少女の絵に顔を向けた。
「りなちゃんという女の子が主人公の、絵本シリーズがあるでしょう?あの絵を見た時に、その作家さんの絵じゃないかと思いましてね。作家は安西元太。あなたがご結婚されていた時の名前でしょう?高橋元太さん」
カウンターの中で、元太はジワっと手を握りしめた。
「何を、おっしゃりたいんです?」
渡辺は、まだ絵を見つめ続けていた。
「気になった、というか引っかかったんですよ。あの絵が。あの当時、ウィンガーの女の子がひき逃げされた事件はちょっとしたニュースになりました。父親が絵本作家だということも、報道されていた」
渡辺は元太の方へ真っ直ぐ向き直った。
「娘さんと―奥様も、お気の毒でした」
元太は口を開こうとして、押し黙った。
目の前の男は、明らかに自分から何か聞き出そうとしている。
しかし、自分を気遣うその言葉には真摯な響きがあった。
「―須藤は、」
長い沈黙の後、渡辺は口を開いた。
「気の向くままなのか、興味本位なのか、いろいろと嗅ぎ回っていましてね。その中に、元石弘之という人物が殺害された事件がありました」
低いが明瞭な声音。「元石」の名前に元太は首を傾げた。何かで聞いた記憶がある。
「覚えていませんか。6年ほど前に絵洲市内で殺害されたウィンガーです」
渡辺の補足に、元太は思い出した。
(そうだ、江洲市のウィンガー調査に派遣されてきたウィンガーだ。彼の殺人事件がきっかけで、対策室が作られた……)
「須藤の性格からして、同じウィンガーとして、犯人を見つけて仇を取る、なんてことは考えにくい。生前は接点もなさそうでしたしね。だが、目的もなく事件を調べていたとも思えない。もしかしたら、元石を殺した犯人とダーウィン・ミッションに、関係があったのかと―私としてはそんな推測をしました。それで、私も調べてみたんです。元石の事件を」
元太はその事件のことを思い出していた。
被害者がウィンガーということで、結構大きく取り上げられた事件だし、元太も興味を持って、ニュースを見ていた。
だが、元太としては、その後、未登録翼保有者対策室が絵洲市に作られることになった時の方が印象に残っている。
「今時の若者にしては珍しく、元石は手帳を使ってましてね。その中に、高橋全という名前がありました」
渡辺は言葉を切って、元太の反応を見ているようだった。だが、元太には思い当たる人物はない。
まさか、同じ姓というだけで、自分を疑っているわけではないだろう。あまりにありふれた苗字だ……
元太はそう言ってやろうとしたが、渡辺はすぐに話を続けた。
「元石が亡くなる前日に会ったようでね。会ったのは、野宮れい子が住んでいた家の前、のようです」
「野宮……先生の……?」
突然出た意外な名前に、元太の思考は一瞬、混乱した。
「ええ。それで調べると、野宮れい子が5、6年生を受け持ったクラス、つまりあなたのお嬢さんの同級生にいたんですよ。高橋全という男の子が」
元太は素直に驚きと戸惑いの表情を見せた。
「そう……ですか。莉音と親しかった子や、何度かうちまで訪ねてきてくれた子の名前は覚えていますが……」
莉音の同級生たちの顔が浮かぶ。
ウィンガーの子たちは全員、把握しているはずだが、その中にやはり高橋全という名前はない。
「ええ。同級生全員を覚えてはいないでしょう」
渡辺はあっさりと言った。
「その高橋くん、高校進学の際に絵洲市を離れているんですよ。父親の実家のある、九州の方へ引っ越して、そちらの高校に進学してます―」
続けて渡辺が出した学校の名前は、元太も知っているものだった。
元太の実家のある町の、隣町の学校である。つまり、高橋全の父親と、元太はほぼ地元が同じというわけだ。
「それで、もしかしたら親戚関係か、何かと思いましてね、調べさせてもらったわけです」
「いやいや、ありふれた苗字ですし―」
元太の言葉を、渡辺は手を振って遮った。
「分かってます。彼とあなたには、何も関係ない。ただ、調べて分かったのは、高橋くんが元石に会っていないということです」
「え……」
「当時、彼は高校1年生の夏休みでした。だが、元々おとなしくて、友人も少なかったようですね。引っ越して以降、絵洲市の同級生と連絡を取ってもいないし、こちらへ遊びに来たこともないそうです」
「じゃあ……」
「ええ。誰かが、彼の名前を騙ったんでしょう」
一呼吸おいて、渡辺は付け加えた。
「おそらく、彼の同級生の誰か、だと私は思います」




