元石事件
元石弘之は小学生の時に病気で父親を亡くし、母1人、子1人の家庭で育った。
学校の成績はよかったが、大人しく、目立たない生徒だったらしい。
大学には奨学金をもらって進学し、空いた時間はバイトに明け暮れていた。母親が進行性の病気を抱え、思ったように働けなくなったこともあり、サークルなどにも入らず、友人と遊び歩くこともほとんどなかったという。
そんな元石が、ウィンガーとして発現したのは大学3年生の時だった。
20歳4ヶ月での発現は国内で最年長である。
大学は―あり得ないことに―奨学金を打ち切った。奨学金支給の対象者と認められなくなったことを理由に。
ただでさえ生活に余裕のなかった元石が、奨学金なしでは大学に通い続けることは難しい。
大学を中退することは、既に内々定をもらっていた企業への就職も諦めることになってしまう。
しかし、問題はあっけなく解決した。
就職予定の企業から、内々定が取り消されたのだ。教授からも、就職の斡旋は難しいし、大学に残って研究職に就くこともまず無理だろうと告げられ、元石は大学を中退した。
事情を知ったアイロウのトレーニング担当者の口利きで、アイロウへの就職が決まったのは、他人からすれば幸運と見えるだろう。
だが、元石が希望していた業種とは全く異なり、本人が喜んでいた様子はなさそうだった。
病気の母親を支えるためにも、他に選択肢がなかったというのが本音だろう。
おまけに、付いた上司が悪い―というより最悪だった。
元石が中途採用されたせいで、知人の息子に就職を世話することが出来なくなったと、初日から当たり散らし、右も左も分からない元石に、次々と仕事を押し付けるような男で、そのくせ、各方面に顔が効くらしく、誰も盾つかなかった。要するにモラハラ上司である。
元石が配属された部署では、ウィンガーの登録業務、個人データの管理などをしていたが、そこに『未登録ウィンガーの実態把握のための予備調査』が命じられた。
これは実質的に、絵州市での異常な保護件数の背景調査であり、アイロウ(国際翼保有者登録機関)の日本支部が主体の調査ではあったが、本部からも応援が来る予定になっていた。
本部の調査員が来る前の事前準備を命じられた元石は、1人で絵州市へ向かった。要するに、モラハラ上司に全ての仕事を押し付けられたのである。
調査員の交通、宿泊先の手配、現地での視察先の手配など、分刻みで行動した記録が手帳には残っていた。
手帳から顔を上げた渡辺は、ふうっと息を吐き、コーヒーを口にした。
ビジネスホテルの一室。
最低限の荷物だけがベッドの上に出され、あとはトランクに入ったままだ。そのトランクもごく小さなもので、着替えや洗面道具くらいしか入っていなかった。
以前住んでいたアパートは引き払っている。
荷物は全てレンタル倉庫に預けてあった。帰国時に持ってきた荷物も、大半はそこへ入れてきた。
明日からは、まず部屋探しを始めなければならない。そのためにも、今日のうちに手帳の中身は全て目を通しておきたかった。
元石はスケジュール管理などはスマホで行っており、手帳は、注意されたことや覚書きに使っていたらしい。
手帳を使うこと自体、今時の若者には珍しいが、お陰でこうして当時の状況をいくらかでも知ることが出来る。
アイロウに就職した時から使い始めたらしいく、最初の方は、仕事で注意されたこと、指摘されたことなどがしたためられていた。
少々、細かすぎるのではないかと思われる記述もあったが、どうも問題の上司の指示らしい。時に字の乱れが、元石の苛立ちを感じさせた。
以前、元石の母親に手帳を見せてもらった時に、重要と思われるページは写真に収めている。だが、じっくりと隅々まで見ていくと、元石の人となりがよく伝わってくる。
整った読みやすい字。メモとはいえ、項目ごとにページを分け、ところどころ付箋が貼られている。
ふと、半分に折られたページがあることに気がついた。
広げてみて、
「ふっ……」
渡辺は思わず鼻息を吹き出した。
そこには髪の薄いスーツ姿の男がデフォルメして描かれていた。
じっとりと睨めつけるような目つき、誇張されて伸びた舌、タラコ唇。
爪楊枝で歯をほじりながら、電話をかけているその姿は、どう見ても感じがいいとは言えない。
(明らかに、田中だな)
その特徴から、元石の上司だった男だとすぐに分かる。
ボールペンだけで描いたとは思えない、緻密な描写はなかなかだが、誇張の仕方や全体的な雰囲気には少なからず悪意が感じられた。
そう言えば、以前見せられた時も所々落書きのようなイラストが描かれていて、ちょっと女の子のノートのようだと思ったことを思い出す。
このページ以外は、アニメのキャラクターのような二頭身キャラだったり、動物のデフォルメで、こんな悪意を感じるイラストはない。相当田中に対して思うところがあったのだろう。
このページの辺りから、田中の指示の覚書きの類は少なくなり、元石に対する罵詈雑言をそのまま書き留めたらしい記述が多くなっていた。
はっきりとは教えてもらえなかったが、元石のスマホには実際の田中の言動が録音されていたらしい。
(パワハラで訴えることでも考えていたか。相当ヤラレてたみたいだな)
絵州市の調査が命じられたあたりになると、『R.N』という単語が何度か出てくるようになった。
その単語の横に、いくつか日付が並んだページを見た時、直感的に渡辺は『R.N』の意味が分かった気がした。
(野宮れい子―か?)
最初に書かれた日付けは、ウィンガーに関わる者なら記憶しているものも多い日付けだ。
野宮れい子が担任していたクラスから、2人の男の子が同時にウィンガーになった日。
絵州市とウィンガーの関係が始まった日だ。
渡辺はタブレットを開いた。
入っていた資料を検索し、
(まず間違いないな)
『R.N』が野宮れい子のイニシャルだと確信した。
真壁和久と寺元信樹が発現した日、その次がやはり同じクラス出身の安西莉音が発現した日。
そしてその約一ヶ月後は不動典光。野宮れい子クラス出身の不動繁光の弟。
さらにそこから3年ちょっと空いて、高野海人。シーカー能力者、高野愛凪の兄。
(絵州市の調査が始まって間もなく高野海人が登録……絵州市とウィンガーの関係がまた大きく取り上げられるきっかけになった……そしてその二ヶ月に、元石の事件が起きているな)
改めて時系列を整理しながら手帳を見てみる。
(高野海人の発現をきっかけに、野宮れい子クラスに興味を持ったか。USBに入っていたデータは須藤も見ているはず。それで、須藤も……)
遺品として元石の母親に渡されたUSBには、今は元石が個人的に撮影した画像など数点が入っているのみだ。
少しでもウィンガーに関係すること、業務に関する内容が含まれるファイルは、警察で保管され、USBからは消去されていた。
対策室に赴任したばかりの頃、須藤が特別に許可を得て、それらのファイルや操作資料を閲覧していることは記録に残っている。
絵州市のウィンガー発現に関して、元石は始まりとも言える野宮れい子のクラスについて調べていた。
元石の死後、須藤は元石の調べた足跡を辿っていた。
そして、今度は自分が須藤の行動を辿っている……
渡辺は顔を上げ、首を回した。
最初に追っていたダーウィン・ミッションからは離れてしまったが―何か導かれている気がした。
絵州市の現地調査に訪れ、変死体となって発見された元石。
直接の死因は首を絞められたことによる窒息死とされているが、公表されていないことがある。
彼の背中は、どす黒く変色していた。すぐ顔色を変えたのがアイロウの職員たちだ。
それは、翼を折られたことによる急激な組織の壊死によるもの。つまり、元石は翼を出していた時に襲われた、または襲われて翼を出して応戦した末に翼を折られたということ。
それは、相手もウィンガーだった可能性が高いことを示唆していた。
今も、犯人の手がかりはない。
この巡り合わせは、自分に元石の死の真相を探れと言っているのだろうか?
(―それも、アリかもしれないな)
渡辺はもう一度、手帳に目を落とした。




