兄妹(室田家)
手にしていた紙袋を持ち直し、室田光はズボンのポケットからスマホを取り出した。
『中学校』と、表示が出ているのを確認すると、少し口元を引き締めてから電話に出る。
「はい、もしもし―はい、花の兄です。お世話様です。―――はい、相変わらずですけど――あ。はい、面談……ですか。―はい。分かりました―」
通話を終えて見上げた空は、明るい藍色に染まりつつあった。
それでもまだ暑い。アスファルトの熱が、まだ立ち昇ってくる。
光はTシャツの袖で汗を拭った。
傍らを自転車の高校生達が大声で笑いながら通り過ぎて行く。夏休みに入ったばかりのこと時期、学生には一番楽しい季節だろう。
室田兄妹の住まいは絵州駅から歩いて10分ほどの好立地にあった。
築30年の10階建。そのほぼ中央に見える自宅の窓に灯りが灯っているのを見て、光はホッと息を吐いた。
古いマンションだが、駅近くというだけで家賃は高い。
仕事場へ通うにはもってこいなのだが、付近はうるさいし、あまりたちのよくない住人もいる。
何度も引っ越しは考えたが、中学3年生の妹のことを思うと、今は環境を変えない方がいいかと、先延ばしにしていた。
玄関のドアを開ける前から、ウィンガーならではの嗅覚が空腹を思い出させた。
醤油と出汁の、和の香り。
光が入って行くと、リビングにいた花がパッと顔を上げる。ゲーム機を置いて立ち上がり、ニッコリと笑った。
小柄で色白なところは兄と共通だが、顔立ちに似たところはない。
光が硬めのストレートヘアなのに対し、花はゆるい癖っ毛で、それがポニーテールにするとちょうどよくまとまっていた。
下がり気味の目尻が特徴の兄だが、花は一重の切長の目をしている。
いわゆる純和風な顔立ちの少女は、まとわりつくように兄の腕にすがり、紙袋を覗き込んだ。
「靴だよ。ちょっとヘタれただけで注意されるんだ。身だしなみが大事な仕事だからさ。こっちは花のだよ」
革靴の入った箱の横から袋を取り出す。
中には、ピンクのウサギのキャラクターの描かれたサンダルが入っていた。
花が満面の笑みでサンダルを掲げる。
「今履いてるの、だいぶボロボロでしょ?似たようなの探したんだけど。それでいい?」
花は何度も大きく頷いた。
「ふふっっ……」
嬉しそうにサンダルを眺める様子は、幼さすら感じさせる。それでも、光は妹の笑い声が聞けるだけで満足だった。
「花、ごはん作ってくれたんだね。メニュー、当ててみようか?……肉じゃがでしょ!」
花はニンマリと口角を上げながら、人差し指で兄の鼻をつついた。
「そ。オレは鼻いいからね。早く食べよ」
頷いた花が、新しいサンダルを履いてキッチンへ向かう。
「こら。家の中で靴は履かない」
たちまちプッと膨れて、
「ん〜〜っ」
抗議の声をあげる花の頭を、光はクシャクシャと撫でた。
「そう言えば、さっき学校の先生から電話きてさ、夏休み中に三者面談しなきゃないんだって」
花は光が想像した通り、視線を落として首を振った。
食卓にはご飯にインスタントの味噌汁、花の作った肉じゃが。
それだけでいっぱいになるような小さなテーブルだが、平和な夕飯の光景だ。
肉じゃがの最後のジャガイモを口に放り込み、光はあえて軽く言った。
「ちょっと行って、話すだけだよ。夏休み中だから、他の生徒とも会わないし、気楽だよ?話はお兄ちゃんが全部するから大丈夫。去年と同じ先生だし。ね?」
花は顔を上げ、それでも渋々という様子で頷く。
「来週か、そこが都合悪ければ夏休みの最後の週でどうですかって。どっちがいい?」
花は無言だったが、雰囲気から
「夏休みの最後にしようか」
と、提案してみる。
花は素直に頷いた。
途端に着信音が鳴った。
「あ……」
表示された名前を見て、立ちあがろうとした光は、花がじっと見ていることに気付き、座り直した。
聞かれて悪いことはない。不安にさせるよりよっぽどいい。
『どんな感じ?そっちの様子は?』
耳に当てるとすぐ、外国語訛りの日本語が飛び込んでくる。前置きもない相手の問いに、
「……どうって……この間、言った通り。あれからは別に―」
「ふうん」
光が全部言い終わる前に、少し馬鹿にしたような返事が返ってきた。
『他に、なんか面白い能力が出た人、いないのね?』
「うん、蝦名くんのことくらいしか聞いてない」
『ふん、スーパーシーカーって感じね。でも、アーククラスには通用しないんでしょ?』
「うん。そう、らしい。もちろん、相手が気を抜いてれば―」
『そんなアーククラス、いないわ』
またもや途中で言葉を遮られ、光はしばし黙り込んだ。
相手は海外生活が長い。自己主張がはっきりしている。―別に悪気があるわけじゃない、と自分に言い聞かせた。
『ねえ、来月、そっちに行こうと思うの。花ちゃん、元気?』
唐突に妹の名前が出たので、光は思わず花を見てしまった。
花は電話の相手が誰か、だいたい分かっているのか、ちょっと小首を傾げて見返してくる。
「うん、元気だよ」
『あのね、提案だけど。花ちゃん、こっちに遊びに来るの、どう?』
「え、だって今……」
『そう。コロラドの森の中。なんにもないけどね。環境、変えるのもよくない?』
光は妹の手前、表情を変えないように気をつけながら、必死に考えた。
彼女の提案は、悪くないと思う。だが、そこまで花のことを気にかけてくれる理由はないはずだ。
(あんまり……頼りすぎるのはよくないよな……)
花が自分を指差しながら、首を傾げる。
自分のことを話しているのか?と聞きたいらしい。
光は小さく頷き、
「一応、話してみるよ。行きたがらないとは思うけど」
と、返した。
『そう。じゃあ、私がそっちに行くまで考えておいて』
「分かった。みんなには、会うの?」
相手が吹き出したのが分かった。
『会わないわ!なんで?』
ありえないといった口調だ。
「え……だって、」
『会うわけないじゃない』
光の耳に、乾いた笑い声を残し、通話は切れた。




