屋上にて ①
「姉ちゃん…まだ…帰らないの…?」
身をこわばらせ、歯が震えそうになるのを我慢しながら、そっと声をかける。
大の字に寝そべった姉は、澄み切った冬の夜空を眺めながら返事をしようともしなかった。
(う〜〜)
不平不満を飲み込み、仕方なく一緒になって空を見上げてみる。
確かに綺麗だった。
綺麗なのだが、とにかく寒い。
今シーズン一番の寒波というのは、伊達ではない。しかも、今2人がいるのは吹きさらしの屋上だった。
(いつも寒がりのくせに、なんなんだよ!)
恨みがましく姉を見やるが、その姉のモヤモヤした気持ちも理解はできる。
水沢洸は仕方なく膝を抱えてうずくまった。
ラジオ局主催の音楽イベントに高校生アーティストとして参加した後、姉の凪のマンションに泊めてもらったまではよかった。
ルームメイトは一足先に実家に帰っていたから、気兼ねなくソファで寝ていた洸は、物音で目が覚めた。
正確には物音で、というよりその気配で、だ。ウィンガーになってからは、こういうことがたまにある。
時計は11時を過ぎていた。
「姉ちゃん、どこ行くの?」
洸が起き出したのを察していたらしく、玄関先の凪は仕方なさそうに振り返った。
せっかく借りたレンタカーがあるうちに、ちょっとドライブしてくるという姉を引き留めたのは当然だ。
ペーパードライバーのくせに、夜中にドライブなど無謀すぎる。
結局、引き止めることはできず、八川小学校の屋上で寒さに震えるという試練に挑んでいる。
姉の凪が卒業した小学校。洸は三年生まで通っていた。
正直、洸の記憶に残る景色は少ない。だが、凪にとってはここは特別な場所だった。
ウィンガーになり、ウィンガーの友人たちと過ごした場所。
この屋上にもそれなりに思い出があるらしい。
未登録翼保有者対策室の職員の不祥事。
殺人事件にまで発展した事件に姉が関わったことは聞いていた。
ウィンガーに関することは、姉弟の間で隠し事はほとんどない。
久しぶりに同級生たちと会ったことも聞いている。
いつも通り、あまり表情は変えず、はっきりとも言わないが、いろいろと心を掻き乱されているらしい。
当たり前といえば、当たり前なのだが。
殺人事件に遭遇して、動揺しない人間がいるはずもない。
ただ、洸はそれほど心配はしていなかった。
基本、周囲の人間に逆らわず、「素直」と称されることの多い姉。言われた通りに行動しておけば楽だ、という。
でも、と洸は思う。
姉ちゃん、頭いいんだから。
一番いい答え出せるの、姉ちゃんなんだから。
姉が、ニッコリ笑いながら、やりたくないことは決してやらずにすり抜けるすべを持っていることも、ドライなように見えて、助けを求められると断れない人情家であることも知っている。
今回の件だって、そんな性格がもたらした結果だろう。
そして、自分の行動がもたらした結果を消化するくらいの能力、姉にはあるはずだ。
「姉ちゃぁん…」
それでも、そろそろ起き上がってくれないかと、甘えた声を出してみる。
もう帰ろうよ、と言いかけて、洸は飛び退きながら立ち上がった。
ヒュッと風を切る音、黒い影。
それは、突然フェンスの向こうから飛び出すように現れた。一瞬だが、真っ白な翼が、洸の視界を掠める。
影は、屋上の出入り口の建物に、素早く身を隠した。こちらの存在には、もちろん気付いているはずだ。
姉を庇うように立ち塞がった洸だったが、
「大丈夫だよ」
背中からの呟くような声に、
「えっ?」
と、振り返る。
いつのまにか、凪は上半身を起こして、影が潜む方を見ていた。
「それ、西崎音十弥だから」
落ち着いた、そのくせどこか投げやりな、翼を出した時のような口調。
「あ…?」
西崎の名前は聞いたことがある。
姉の同級生で、多分天敵みたいな位置付けの人だ。
だが、なぜその人がここにいるのだろう?
「水沢か」
建物の影からゆっくり現れた長身に、洸は目をパチパチさせた。
「こんなとこで会うとはな」
声に苦笑が込められていた。
西崎の背に翼は既にない。
黒のシャツに黒のスラックスという出立ちは、もちろん飛んでる間に目立たないように、だろう。
さっきまで何度声をかけても寝転がったままだった凪が、さっさと起き上がっている。
洸は近づいて来た西崎を、改めて見上げた。
「おおっ、背、でかっ」
遠慮ない呟きを漏らしてから、きちんと背筋を伸ばし、ペコンと頭を下げる。
「どうも。水沢洸でっす。弟でっす」
物おじしない、興味を隠そうとしない眼差しに、西崎は左の口角だけ上げてニヤッと笑った。
「すげぇな。姉弟揃ってアーククラスか」
ドヤ顔で、ピースサインを突き出してみせた洸は、背後に凪の舌打ちを聞いた。




