31話
愛凪は暖かいお茶を一口飲んで、鼻をすすり、目元を拭った。
お茶の暖かさとともに、涙も体の中に溶け込んでいく。締め付けられるようだった喉の力がふっと抜けて、体も楽になった。
笑顔になった愛凪に安心したように、隣にいた海人がグラスのお茶を飲む。
グラスの氷がカラカラと小気味いい音を立てた。
目を覚ました時、真っ先に海人の顔が目に飛び込んできた。
何が起こったか、全部覚えている。
「私…ウィンガーになったんだ…」
言い知れぬ不安と、なぜこんな事が起きたのかという疑問と、海人が目の前にいる安堵感と、その海人に対する怒りとが一気に押し寄せて、何も言えずにただ泣いた。
子供のようにしゃくりあげながら、声をあげて泣く妹のそばに、海人はずっと寄り添っていた。
ふと、気がつくと、海人の方が愛凪よりも号泣していて、なんだかおかしくなった。
ああ、やっぱり兄は変わっていないんだな、と実感したら、自然に涙は止まっていた。
さんざん泣いたおかげか、不思議とスッキリして、ちょっとぶっきらぼうに、
「喉が渇いた」
というと、バタバタと海人は階下へ降りて行った。
「冷たいのと、あったかいの、どっちがいい?!」
少しして戻ってきた海人は、氷の浮かんだガラスのコップと、レンチンしたマグカップを両手に持っていた。
涙でグチャグチャの顔のまま、やけに真剣な表情で聞くものだから、思わず愛凪は吹き出した。
冷たいのと温かいのと、愛凪が飲みたい方を選べるように、わざわざ用意してくれた海人の優しさは十分伝わっていたけど、何から話し出していいのか分からず、愛凪は部屋を見回した。
昭和を思わせる、板葺きの天井から下がる、吊り下げ式の電灯。よく見なくても、埃っぽいことはわかる。
壁際には段ボールやら、プラスチックの衣装ケースやらが雑然と積まれ、壁紙も襖もすっかり日に焼けている。
ここがどこかは見当がついていたが、窓の外の暗さにハッとして、時計を探した。
「かべっち…真壁のうちの2階だよ。家出て、最初の日はネカフェに泊まったんだけど、次の日からはずっとここにいたんだ。ひたすら、寝てばっかいたよ。…ああ、そんなに遅くなってない。今、6時くらいだ。…その…お母さんに…連絡しておくか?」
そのあやふやな語尾に、海人が母親に連絡することに逡巡していることを感じとり、愛凪は目を閉じて、少し考えた。
「私も…ちょっとまだまだ、混乱してるし…とりあえず、いろいろ、話聞かせて。お母さんには、職場の人とご飯食べて帰るって、メールしとく」
愛凪がどこから聞いたらいいのか、話したらいいのか言葉を探しあぐねていると、海人がゆっくり口を開いた。
「オレが家を出たのはさ、愛凪がウィンガーになってしまうことを心配したからなんだ」
「えっ…?」
矢継ぎ早に質問が浮かんだけれど、兄の思い詰めた眼差しと目が合って、愛凪は言葉を飲み込んだ。
こんなにまじまじと兄の顔を見たのは、いつ以来だろう。
家にいた時より、顔色はむしろ良さそうだし、頬も幾分ふっくらしている。なにより、周りにいる人間を全てシャットアウトしたい、という雰囲気が消えていた。
「ウィンガーになった同級生の弟、妹はウィンガーの予備軍みたいなもんなんだ。まあ、分かってきたのはオレがウィンガーになってからしばらく後なんだけど…あ…」
途端に海人は決まり悪そうな顔になる。頭をボリボリ掻いてから
「あの…怒るなよ。オレ、ウィンガーになったの高校入ってからじゃなくて…小学校の6年の時なんだ」
「えっ!?は?!」
さすがに愛凪も口を挟まずにいられなかった。
「え、何、言ってんの?どういうこと?それに、予備軍って、何?弟、妹って、今まで発現したのって、典くんだけでしょ」
「いや、えと〜その〜なっ!隠してたわけだ!で、隠してるやつも、もう少し…いるわけだ!」
愛凪の顔色を窺いつつ、笑顔でそう言ってみせたが、
「なにそれ?!なんのために?!」
愛凪は身を乗り出してくる。
海人はふと、真顔に戻った。
「なんのために、か…そう、だな…正直オレは、最初はゲーム感覚だったかも。でも、考えてる奴らはすごくよく考えてたし、言ってることも、なるほどって感じだった」
「言ってること…って?」
正面からガン見してくる愛凪を、海人はしっかりと見返した。
「オレらのクラスはおかしい、ってこと。もう、分かってると思うけど、他にも何人か未登録のウィンガーが同級生にいるんだ。ウィンガーの発現確率からしたら明らかに異常だろ。…オレらは、担任のれい子先生を疑った」
「疑ったって…ウィンガーの発現に関係しているっていうこと?でも、それって一応、調べられたんじゃなかった?」
愛凪の問いには答えず、海人は続けた。
「オレはホント、あんまりよく考えてなかったんだ。呑気なお子様だったからな〜。だけど…中学1年になって…安西莉音が死んだ」
愛凪は突然の展開に驚きながら、しばしの沈黙の間、その名前についての記憶を引っ張り出した。
安西莉音。知っている名前だ。
愛凪の同級生だった不動典光とほぼ同時期に翼を発現した女の子。海人とは小学校5、6年の問題のクラスで一緒だった。
彼女がウィンガーになった時も大騒ぎだったけれど、その後、トレーニングセンターへ行っている間に交通事故で亡くなったのも衝撃的で、愛凪もよく覚えている。
もちろん、愛凪自身が研修を受けた際にも聞いた名前だった。
莉音は母親と外出中に事故に遭い、ほぼ即死。母親も重症を負った。
犯人は、捕まっていない。
「莉音は、殺されたんだ。ーいや…その、事故でってことじゃない。殺そうとして、殺されたんだ」
愛凪は愕然と海人の顔を見つめた。
ふざけた様子はもちろん、曖昧な様子もない。真剣に、事実を述べている顔だ。
「もちろん、警察では轢き逃げ事故として調べられた。ただ、捜査の過程にも事故の状況にも不審な点がすごく多い。莉音のお父さんは、事故に見せかけた殺人だと思ってるし、オレもそう思ってる」
「でも…原因…ていうか、動機?あるの?」
海人はあっさり頷いた。
「莉音はさ、アイロウで何が起きてるのか、探る気で行ったんだ。それは…典光も知ってる」
「典…くんも?!」
「莉音がそんなことになって…だから、典光にはおとなしくしてろって、言い聞かせたらしい。オレも、その事件がなければ、アイロウへの不信感なんて、忘れたかもしれないんだ」
海人は窓の方へ、目を向けた。外はもう真っ暗で、何も見えない。
「オレたちが同級生同士で取り決めたことは、登録されることに決めたやつを引き止めないこと。それは個人個人の考え方だから。ただし、登録されても他のクラスメートの情報は口外しないこと。登録されないやつも、思うところがあっての話だからな」
海人の口調は、誰かの言葉を復唱しているようにも聞こえた。
「…でもなぁ、オレは…弱いんだ、ホント……家族に黙っているのは、負担だったよ。そんで、高校に入ったあたりに言われ始まったのが、オレらよりも年下の兄弟ー弟とか妹なーがいる場合、そいつらもウィンガーになる確率が高いってこと。はっきりした理由はわかんねえけど、物理的に近い距離で過ごしていると、より影響を受けるんじゃないかって話だった。オレ…自分がウィンガーになったことは後悔してないけど、愛凪までウィンガーしたくはなかったんだよ。トレーニングセンターに行って、そのまま東京で生活するようになれば、オレの影響力はなくなると思った」
「ち、ちょっと、待ってよ!だったらそう言えばよかったじゃない!それに、ウィンガーの発現に遺伝とか、感染みたいなことは関係ないはずでしょ?兄弟姉妹で発現したケースもあるけど、報告されてるのは今までで3例だけだって…私だって研修でそれくらい…」
「それは、報告されているウィンガーの中では、だろ?」
海人の言っている意味を理解するまで、少し時間がかかった。その間にも、海人は言葉を繋ぐ。
「オレたちは、特殊なんだ。なにしろ…黒い翼なんて、聞いたこともないだろ?」
愛凪は息を呑んだ。
漆黒の、大きな翼を纏った水沢凪。強烈に、瞼に焼き付いている。
全身がバラバラに引きちぎられそうだったあの時ーー
伸びてきた温かい手は、分解しそうだった愛凪の体を柔らかく包み、元に戻してくれた。
少なくとも、愛凪の感覚ではそうだった。
それでもまだ、油断すると何かが体から吹き出していきそうな気がする。
(ゆっくり、息を吐いて。こっち見て。戻っておいで)
優しい声が聞こえて、ハッと気がつくと見たことのある顔が目の前にあった。
ー誰…だっけ…?
少女のような、あどけない白い顔。黒い大きな瞳が、愛凪を覗き込むように見ている。
その目を見た途端に、それまでの恐怖心がすうっと引いていった。
「大丈夫。力抜いて、ゆっくり、息はくんだよ」
はっきりと声が聞こえる。現実の感覚が戻ってきて、愛凪の中で渦巻いていた嵐が消えていった。
その瞬間、しっかりと愛凪は目の前の相手が誰なのか思い出した。
「…水沢さん…」
その背中に、見たこともない大きさの、黒い翼を確認しても、心は落ち着いていた。
「大丈夫そうだね…」
そう言われて、本当に大丈夫だと安心した。
(きれいな翼だな…)
そう思って翼を見つめていたところから、記憶は途切れている。
「あ…そう言えば、他の人は?!水沢さんは?!」
海人以外の人間の気配がそう言えばないことに気がつく。
海人はちょっと眉を曇らせた。
「ごめんな、それ、ちょっと後にしてくれないか…水沢の翼は覚えてるよな?」
愛凪が大きく頷くと、海人も頷いた。
「あいつの能力も…分かったか?」
「能力…?…助けてもらったのは、分かるけど…あれって…なんだったの?」
愛凪は目を閉じて、ぶるっと体を震わせた。
あの、全身がバラバラにされそうな感覚は、思い出すのもおぞましい。あのまま、凪が来なかったら、自分はどうなっていただろう?
『私ニハ、アナタノ方ガ、裏切リモノ二、見エル』
野太い声が、そう言ったのを思い出した。
大柄な、黒人男性…大きな翼を持った姿を断片的に覚えている。
「ウィンガーの中には、人の翼を強制的に引っ張り出せるヤツがいる。…マイケルが…おっきな黒人、覚えてるか?アイツが…愛凪の翼を無理矢理出しちまったんだ…!」
かなり自制してはいるが、海人の顔には苛立ちと怒りが明らかだった。
「え、ちょっと。私の翼って…私…いつのまにか、ウィンガーになってたってこと…?」
「前兆は、出てた。翼のあるヤツが、分かるようになってただろ」
「!シーカーの能力…!」
海人はため息をつきながら頷く。
「恐れていた事態になったと思ったよ…そうならないために、こっちには帰って来ないつもりだったのに、1人で生活出来なくなって…だから、出来るだけ愛凪とは離れていようって…顔も合わさないように、気をつけてたのに…」
「あ……だから…急に家飛び出したの?」
愛凪の中で、段々と一連の出来事が一つの線になっていく。
「水沢も、他のヤツの翼を引き出す力がある。それに、暴走しそうなヤツをコントロールすることも、あいつはできるんだ。それと…人の行動を操作することも。水沢の催眠術なんて、オレらは言ってたけど、本人は催眠術とは違うって言ってたな。とにかく、水沢なら、お前がウィンガーになるのを止める方法がわかるんじゃないかと思ったんだ」
愛凪の脳裏に、水色の付箋紙が浮かぶ。あの名前は、そういうことだったか…
「ただ…小学校卒業以来、水沢には会ってないし、連絡先も分からなくてさ…ちょうど、お母さんがスマホ買ってくれたから、知ってるとこには連絡してみたけど…」
「友達の連絡先、みんな消したんじゃなかったの?」
その言葉に、海人はキョトンと首を傾げてから、不意に、無邪気な表情になって、照れ笑いを浮かべた。
「ああ、そうか…それも、言ってないもんな。オレさ、翼出してる間はメッチャ記憶力いいんだわ」
「え…どういうこと?」
「つまりだな、翼のある間は、公式とか英単語とか電話番号とかアドレスとか、バンバン覚えられんのよ。でもさ、翼が消えると、ほぼほぼ思い出せなくなる。で、また翼出すだろ。そうすると、前に覚えたことをまたスラスラ思い出せる」
「は…?」
そんなウィンガーの能力、聞いたこともない。
「身体能力だけじゃなくて、そういう力が向上するウィンガーもいる。いるんだけど…アイロウは表立ってそういうこと、言わないんだよな。だから、これ言っちゃうと、また面倒なことになると思ってさ。隠してんだ」
ケロッとした顔で、心なしか得意そうな様子まで見える。
愛凪が唇を噛み締めた。その顔が、みるみる紅潮していく。
「隠して…たって…」
飲み干していたお茶のカップを投げ捨てるように脇へ放り、バン!と音を立てて、愛凪は立ち上がった。
海人が大きく後ろへのけぞる。
「それでどんだけ心配したと思ってんの?!誰も…連絡取れる相手もいなくて、どうしてるんだろうって…!私たちも連絡できる人、誰も分からなくて!!庄村君に連絡しても何にも知らないって…」
「あ…卓…」
海人の引きつった顔に、明らかに気まずそうな色が加わる。
「…何?」
「いや…あの…タクは、悪くないよ。オレが、黙っててくれるように、頼んだんだから…」
イタズラがバレた子供のように、海人は体を縮こまらせた。
母親が、海人の一番の親友だった庄村卓登に海人の行方を知らないか、電話した時のことを思い出す。
海人が行方不明だと聞いて、驚いていたはず…だった。
「ちょっと…庄村くんもグルなの?!え?!ていうか、もしかして、庄村くんも…ウィンガー…?」
「…い…やぁ…そこは…どうかな〜」
分かりやすく視線をずらして狼狽える海人を見て、愛凪の怒りはむしろ、引いてしまった。
その、下手くそなとぼけ方は愛凪のよく知る海人そのものだ。
ちょっと詰めの甘い、お調子者の兄だ。
いつぶりだろう?こんなに兄らしい兄を見るのは…




