29話
須藤も、本郷さえも何が起こったのか見えていなかった。
翼を出した凪が、一瞬で須藤の懐に飛び込んだのだ。
「!」
体を引こうとした須藤だが、両肩をガッチリ凪に掴まれ、凪のキラキラした瞳を自分から覗き込む形になった。
「…!な…にを…」
須藤の顔は紅潮し、汗が噴き出てくる。
さっきもそうだが、目の前の小柄な、少女とさえいえそうな女性から、その漆黒の翼が出てくるところを目視できないのだ。
トレーニングを積み、完全にコントロールできているとしても、翼を出すには多少の集中が必要だ。そう、まばたきする程度の時間だとはしても。
背中に光の粒子が集まるのも見えない。
(黒い…せいか…?!)
自分も翼を出しているためか、まだ頭の隅で考える余裕も、自我を保つべく抵抗しようとする意志もあった。
手には銃がある。致命傷にならない程度の怪我を負わせ、相手方に引き渡すのが最善、と須藤は考えた。
通常時の基礎体力、運動能力は明らかに須藤の方が勝っているはずだ。いくら、得体の知れない翼を持っていたところで、接近戦で凪が自分に敵うとは思えない。
これだけ特殊な症例だ。金になることは間違いない。なにより、『野宮れい子の子供たち』には、ダーウィン・ミッションの連中が相場の5倍の金を出すと言っている。
当のクラスの出身者のウィンガーは全て登録され、特別に注意を払って見守られているから、下手に手は出せないと断っていたのだが…まさか隠れ天使がいるとは。
考えてみれば、幸運とも言える。他の子供たちの行方を追うのはそう難しくない。絶対、あと数人は未登録のウィンガーがいるはずだ。
国会議員の父親がバックについているのは、少々厄介だが…
いや、野宮れい子のクラス出身者に、これだけ隠れ天使がいると分かれば、かえって伊達守議員とて手出しは出来まい。彼らの存在を隠す手助けをしているようにとられては、政治生命に関わる。
そうだ、これは伊達守議員の弱味にもなるじゃないか…面白い。これは…
「ああ!ストップ!ストップ!もういい!滅茶苦茶だ!お前の言ってることは支離滅裂だよ!自分勝手な妄想だけだ!」
本郷の怒鳴り声に、須藤はハッと視線を巡らせた。
凪の怒りに満ちた大きな瞳が見上げている。黒い翼は、すでにない。
「お前の身勝手な企みのせいで、人が死んだんだぞ!死にそうなんだぞ!!」
本郷の腕の中で、立山は小刻みに体を震わせている。呼吸は浅く、荒い。
フラッとよろけながら、須藤は頭を抱えた。すでに、銃がその手にないことも気付いていない。
「…なん…なんだ…」
さっきまで、凪の能力を打ち破ろうとしながら、考えていたことを…全て自分の口で喋っていたことに気づいて、愕然とする。
「あんた、正気じゃない。こんなことして、どうする気なの!」
肩を掴んだ凪に、そう言われたのを思い出す。だから…
(どうする気かしゃべちまったのか…)
なんて、アホらしい。こんなガキみたいな女の言いなりになって…
須藤の顔が歪み、肩が震えた。
「…は…はは…フッ…アハハハ!!」
耐えきれなくたったように、須藤はゲラゲラと笑い出した。
「ヒャハハハハ!!ぼくとしたことが!!他人の言いなりになるなんて!アーッッ、ムカつくよ!!」
異様な笑い声をあげ、体をのけぞらせるようにして悶える須藤を、凪は少し離れて、冷めた目で見ていた。
本郷は、その二人を立山寄り添いつつも油断なく見つめていたが、須藤が少し落ち着いた様子を見せると、口を開いた。
「全部、金のためかよ。そんな、きったねえことまでして、金が欲しいのかよ」
ギロリと、須藤は本郷を見た。小馬鹿にしたような、笑みが口元に浮かぶ。
「君たちさぁ、自分の寿命、把握してる?コソコソ隠れている君らが、ウィンガーの基礎知識、ちゃんと知ってるのかなぁ?」
本郷も凪も、ムッとした表情になる。
本郷は軽く息を吸うと、改まった口調で話し出した。
「現在までの統計では、ウィンガーの平均寿命は33.4歳。ただし、これには事故や事件による不慮の死が相当数含まれている。病死などの自然死と認められたものに絞ると、40.2歳。確認されているウィンガーで最も長生きしたのは、45歳5ヶ月のイギリス人男性。だろ」
須藤はあからさまに不貞腐れた顔になった。
「ああ、そうだよ。分かってるじゃないか…いや、分かってるか?ちゃんとその意味が!あと、いいとこ10年ぽっちしか、ぼくは生きられないんだよ?」
それがどうしたー言い返そうとして、本郷は口を閉じた。
須藤はイライラとした様子を隠そうともしない。目は異様な光を帯びて見開かれている。まだ凪の暗示から抜けきれないのか、それともこれが本性なのか、狂気じみた不安定さが顔に出ていた。
「素晴らしい素質だの、国内最高の能力者だの、おだてて、持ち上げて、都合のいいように仕事させて、いいとこだけ使って、ちょうどよく寿命がくる。いいとこ取りで使い捨てされるんだ、ウィンガーってのはね!世界中の研究者が、ウィンガーの研究をしてる?次々と新しい知見を出している?はは…誰が世界に数百人しかいないウィンガーの為の研究なんかするか!奴らがやっているのは、効率よくウィンガーを扱うための研究だよ!黙ってたってウィンガーは一定数出現する。若死したって替えはきく。文字通り、死ぬまで使われるんだ!」
一気にまくしたて、須藤は肩で息をした。
「ぼくは…優れた人材だ。いいように振り回されるだけの人間じゃない。それなのに、そこいらの人間より時間は限られている。今を!この時間を楽しんで何が悪い!楽しむために、必要な金を自分で調達して何が悪い!!」
しーんとした部屋の中に、須藤の息づかいだけが満ちる。
本郷も凪も、しばし口を開いたままだった。あまりに身勝手な言動に、返す言葉もなかったのだ。
「…ウソだろ…長生きできないからって…何してもいい理由になるかよ!!」
答えず、須藤は翼を広げた。
「水沢!」
姿勢を低くして、飛びかかってくるかと思われた須藤の体が、渇いた破裂音と共に、突然傾いた。
大きく広げた右翼が、不自然な角度で折れ曲がる。
ギシギシと空気がひずんだ。
いや、音はない。だが、そのひずみは次第に甲高く、軋んだ波長となって、脳内に直接響いた。
この音は、この部屋にいた全員が、つい先程も聴いている。
凪が唇を震わせて腕を伸ばした先で、須藤の翼は光のかけらとなって飛び散った。
「―――――!!」
およそ人間のものとは思えない叫びをあげ、須藤はのけぞり、ひざをつく。
血の気を失った顔に浮かんだ、壮絶な怒りの眼差しがとらえたのは、背後で這いつくばりながら銃を構えた隼也の姿だった。
「貴…ぃ、さ…まアアア!!」
あらん限りの声で叫んだものの、隼也の方へ向き直ることもできず、須藤は崩れ落ちた。
銃を握った姿勢のまま、隼也がしゃがれた声を絞り出した。
「…てめえの…いいように振り回されてたまるか…よくも…オレを利用しやがったな…」
自分が先程取り落とした銃が隼也の手元へ滑り、意識を取り戻した隼也に最後のひとあがきをさせることになったと、須藤が気づいたかどうか…
「バカに…しやがって…ちくしょう…」
ゆっくりと脱力した隼也の体が、血の海へ沈んでいく。
ガチャ、という床に銃が落ちた音と共に、隼也はこと切れた。
「う、あ、ウワアアアーッ!」
のたうち回る須藤を前に、凪は硬直し、動けずにいた。
「因果応報、ってか」
なんとも言えない表情で本郷がつぶやいた時、不意に低い振動音が空気を震わせた。
上着からスマホを取り出した本郷は、画面を見るなり急いで通話ボタンを押す。
「なにかあった…What?」
話し始めてすぐ、英語での会話になる。
次第に体を丸め、震え出した須藤に目を向けたまま、凪は立山のそばへかがみ込んだ。
「あいつ…バカだな…」
ヒィヒィと早い呼吸を繰り返す須藤の背中に、立山は精一杯の悪態をついてみせる。
笑ってみせる顔が必死だった。
震える手を自分の上着のポケットへ伸ばしたが、ファスナーを開けられず、
「スマホ…出して…くれ…」
凪へ訴えた。
本郷は何かのっぴきならない話をしているらしく、声が次第に大きくなっていたが、立山に動かないようにと、身振りで示している。だが、立山は従おうとしなかった。
「おい、ナオちゃん、動くな。血流が早くなると…」
通話を終えた本郷に、力なく立山は首を振った。凪がポケットから出してくれたスマホをその小さな手に押し付けると、急激に目の光が弱まっていく。
「も…ムリ…だわ…」
「ナオさん!」
「おい!ナオちゃん!」
凪の手に押し付ける立山の力は、不思議と強かった。
「へへ…ここの会話…全部、録音…してある…ロックは…外れてるから…」
思わず、凪と本郷は立山の携帯端末を二人で凝視した。
「ここで…こ、ここで…あったこと…ち、ちゃんと…ほ、ホントのこと…」
震える唇からやっとのことで声を絞り出す。
「分かった。分かったから、何も喋らなくていいから」
立山の手をしっかり握りしめて、凪は何度もそう言って頷いた。
「よし、水沢、急いでここ出るぞ!マイケルが連絡くれたんだ。ダーウィン・ミッションの連中と、警察と両方ここに向かってる。警察が先に来ればいいけど、ダーウィンの方が先に来たら、やりあうのは無理だ」
「えっ…警察も…?」
「麻薬の取り引きがされてるって、マイケルがタレ込んだんだ。ガセネタだけど、この状況見ればただごとじゃないのは分かるだろ。お前の友達のことも、かべっちに、通報してくれるように頼んだよ。車の中で様子がおかしい女の子がいるってな」
凪がさっと顔色を変える。
「未生ちゃん、何か…」
「いや、眠ってるだけだったよ。だけど、そのままにしておけないからな。早めに保護してもらえるように、通報頼んだんだ」
早口で説明する本郷に、凪はホッとしたように頷いた。
「さ、ずらかるぞ!」
ニヤッと笑い、立山を抱えて立ち上がろうとした本郷は、しかし猛然とした抵抗にあって尻もちをついた。どこにそんな力が残っているかと思うような、土気色の顔が、ハッキリと横にふられた。
「おいて行ってくれ…」
弱いがハッキリとした口調で、立山は言った。
「あんたらは…捕まっちゃダメだ…自由に…動けないと…」
「え…いや、登録は覚悟の上で来たんだよ。今更、何言って…」
抱え起こそうとした本郷の襟元を、立山の手が掴む。弱々しいその指を、本郷は引き離せずに黙った。
「やることが…あるんだろ?まだ…捕まっちゃダメだ…ここに、オレと彩乃と…置いていけば…須藤がやらかしたことの…証拠に…なる…」
立山の瞼は落ち、呼吸が弱くなっていく。「ナオちゃん!」
「ナオさん!!ダメだよ!!」
覆い被さるようにして呼びかける、本郷と凪の声が聞こえているかどうか、もう定かではなかった。
ゆらゆらと、宙を掻くように、立山は手を伸ばす。その先を追って、本郷は意図を汲んだ。
ふわり、と翼を出した本郷は、軽々と立山の体を抱えあげ、彩乃のそばへと運んだ。
顔色は悪いが、彩乃の様子は落ち着いている。すぐに発見されれば、命に関わることはないだろう。
細かく震える手を彩乃の手に重ねてやると、立山の頬が緩んだ。
「…彩乃…だけは…守れた…」
この上なく、満足そうな笑みが浮かぶ。
「…もう、大…丈夫…行け…今、どうすりゃ…一番うまくいくか…分かるだろ」
目を閉じ、途切れ途切れだが、そういう立山の表情は穏やかだった。
「…分かったよ。出来るだけ早く、彩乃さん保護できるように、手回すから」
観念したように、本郷は立ち上がった。
立山は背中から、急激に組織の壊死が進んでいる。もう、呼吸すらままならないはずだ。
静かに振り返った本郷に、凪は黙って頷くことしか出来なかった。
須藤の咽び泣くような声を背に、意を決してドアに向かおうとした2人は、同時に足を止めた。
遠くから、かすかに音が聞こえる。
さっきまで翼を出していた影響もあり、2人とも聴覚は鋭敏になっている。そうでなければ、こんなに早く気づかなかっただろう。
「警察の方…かな」
希望的憶測で本郷は呟いた。いずれにしろ…
「水沢、窓の方から出ろ。まだ飛べるだろ?」
「本郷?」
キュッと眉を寄せ、困惑した表情になった
凪に、本郷は首をすくめてみせた。
「表から出て見つかったら、どっちにしろ面倒なことになる。お前の羽なら、飛んでも見つかりにくい」
「いや、それは分かるけど…」
本郷は頭を掻きながら
「オレは制限時間切れだわ」
あっさり言い切った。
それは、もう翼を出せない、という意味だ。
「え…」
「あんまり普段使ってないからさ、力の加減とか…まあ、出来てなくてな…出すには出しても、飛んだ途端に落下する自信がある」
虚勢を張って胸を張る同級生に、一瞬、なんとも言えない眼差しを向けたものの、凪はすぐに窓の方へ向き直った。
足音が確実に近付いてきている。かすかに話し声も…
凪は素早く窓へ走り、窓のロックを開けた。
上着の袖口を使っているのは指紋を残さないためか、と見ながら本郷は考えていた。
腰ほどの高さの窓は、凪でもそう苦労せず乗り越えられる。
開けた窓をから外の様子を伺い、凪は振り返った。
「本郷、早く!」
「え?いや、だから…」
「あたしが運ぶ」
本郷はあんぐりと口を開いた。
「あたしがあんたを持って飛ぶ。翼出せば、そのくらい出来る」
小さな体で、凪は力強く断言した。




