26話
隼也の足取りはしっかりしていた。
だが、その視線はうつろだ。
言われた通りに、須藤のもとへ案内することだけを考えている。
その後ろを付いていく小柄な影の足取りは軽く、時折弾むような調子さえ見えた。
「軽く、お化け屋敷感あるな…」
口の中でボソボソと呟いた凪の声は隼也には届いていない。
ペンライトの明かりでも、廃屋の天井や壁の、埃っぽさと相応の古さはすぐに分かる。
暗がりに何か潜んでいそうな雰囲気は、ホラー映画の舞台のようだ。
普通の若い女性なら、入るのを躊躇わざるを得ないこの場所を、凪は恐れている様子はまるでなかった。
奥から漏れている灯りはすでに目に入っている。
ふと、何か思い出したように、隼也が立ち止まった。
ソワソワと周りを見回し、凪に目を止めると、ハッとしたように立ちすくんだ。
はっきりと、目の光が戻ってくる。突然、夢から覚めたように、表情も戻ってきた。
戸惑いと、怒りと、恐怖とがない混ぜになった表情だ。
凪に向かって、何か言いかけた隼也を制したのは、灯りの漏れる部屋から、聞こえる話し声だった。
内容は定かではなかったが、声に混ざる明らかな苦鳴が2人を固まらせた。
隼也は、部屋の方と凪と、交互に視線を走らせながら、どうすべきか、迷っていた。
だが、凪はキュッと眉を寄せこわばった表情を見せたものの、意を決したように部屋の方へ歩き出していく。
途端に、
「やめろォォ!!」
悲鳴に近い男性の声が薄暗い空間に反響する。
立山の声だ。
凪は躊躇なく、部屋へ飛び込んだ。足をもつれさせながら、隼也が続く。
LEDランタンの灯りで満たされた室内に、凪はちょっと目を瞬いた。
「君は…誰を連れてきたのかと思えば…桜木くん、どういうことかな」
そう言ったのは須藤だった。
さすがに、凪が現れたことには驚いたらしい。そして、明らかに苛立っている。
口調には恫喝の響きも焦りもなかったが、隼也を見る眼差しは冷ややかだ。
その眼差しと、部屋の中の状況に、隼也はもちろん、凪も言葉をなくした。
部屋を入って数歩先に、立山が倒れている。いや、倒れている、などと言う穏やかなものではない。這いつくばりながらうごめき、なんとか体を起こそうとして呻き声を上げ、体勢を崩してまた苦鳴を漏らす。
腫れ上がった目元、唇には血が滲んでいた。それだけでも、痛々しさに目を背けたくなる光景だが、立山が苦痛に身をよじっている原因は他にあった。
立山の痛めつけられた顔に、驚いて駆け寄った凪がぎょっとして、目を見開く。
彼女の視線の先で、立山の右足はあらぬ方向へ曲がっていた。
この部屋には2人しかいなかったのだから、原因を作ったのは須藤以外に考えられない。
凪の非難の眼差しを、須藤は平然と受け止めた。微かに、口元に笑みさえ浮かべている。
須藤はいくらか髪と、服を乱しているだけで、相変わらずきれいな顔をしていた。
その右手に握られているものが何か気づいたのは、隼也が先だった。
(オレの、Mk25…)
それは黒光りする拳銃だった。引き金には、須藤の指がかけられている。
凪はまだ須藤の手の拳銃には気付いていない。彼女の視線はその手の延長線上、須藤の1メートルほど後ろに横たわる人影の方へ向いていた。
「彩乃さん?!いったい何を…」
横たわる彩乃の元へ行こうとした凪の足首を、立山の手ががっしりと掴む。
「凪ちゃん、逃げろ!コイツ…コイツ、やばい」
声を振り絞ぼる立山を、凪は唖然と見下ろした。もう一度、須藤を見返し、そこでやっと須藤の手の拳銃に気付いたらしく、見開かれた大きな目をさらに丸くして、それを凝視した。
「こんなとこ、来ちゃダメだ!早く逃げ…」
「今更、遅いよ!」
立山が言い終わる前に、須藤の上擦り気味の高い声が響いた。
「来ちゃった人間に、来ちゃダメって言ったって、どうしようもないだろ!全く…」
声には笑い声が含まれているのに、須藤の目に笑みはない。
ため息をつき、ジロリと凪を見た顔は、途端に冷酷なハンターのものとなった。
「全く、出来の悪いドッキリの連続だ。出来の悪い昔話、出来の悪いウィンガー、出来の悪い部下」
須藤の視線を受け止めた隼也は直立した。この状況は、まずい。この男の期待に応えないと…須藤の目は、本気だ。
首筋や脇に嫌な汗が流れる。
「すいません、本当に…なんで、こうなったのか…この、この子に、言われて…た、頼まれて…ここに連れて来なきゃ…ならないって…お、思ってしまって…」
須藤は露骨に嫌な顔をした。銃口は彩乃に向けたままだ。
「桜木くんさぁ、なに、言ってんの?言い訳はいいから、とにかく、その子捕まえなよ。これ以上面倒なことは…」
そこまで言った瞬間、立ちつくしていたはずの凪の姿が視界から消えた。
少なくとも隼也の目と耳の認識では、僅かな光の粒子が舞ったのと、突然巻き起こった風に部屋の埃が舞い上げられたのと、ズササァーッと何かを引きずる音がしたのはほぼ同時だ。
目に入ったホコリに、まばたきをし、反射的に鼻に手をかざした隼也が、次に見たのは…影だった。
ランタンの灯りが、黒い影に遮られ、隼也の周りを暗くしている。
黒い影が、目の前の華奢な背中から伸びている。それが、漆黒の、大きな翼だと理解した時、隼也は喉の奥から奇妙な音を絞り出していた。
消える前とほぼ同じ位置、立山のそばにひざまずく凪は、大きな人影を抱えている。
ぐったりとした、彩乃の体だ。
その背中から伸びる翼は、立山と彩乃を庇うかのように広がっている。
全開すれば、部屋の端から端まで届きそうな翼は、その大きさで灯りを遮るのみならず、全ての光を吸い尽くしてしまいそうな、完璧な闇の色で見るものを圧倒した。
「お…ま、え…」
今にも呪いでもかけてきそうな形相で、須藤が銃口を向けていた方向に、目だけ向ける。
そこにいたはずの彩乃は、今、凪が小柄な体で、しっかりと抱えている。
須藤の目には、凪の体がまるで宙を飛ぶように自分の横をすり抜け、彩乃の体をかっさらい、ブーメランのように立山の傍へ戻るのが、部分的には見えていた。
瞬間、普通の人間の動きではないことは分かっていた。
分かっていたが、翼を出して反応することは出来なかった。
突然の、予想外の出来事だったことはもちろん…速すぎた。
そして…
「なん…なんなんだ!その翼は!!」
隼也が聞いたことのない、須藤の動揺で上ずった声が飛ぶ。おかげで隼也は我に帰った。
「それは、むしろ、あたしが聞きたいことなんですけどね。アイロウと繋がっているウィンガーでも、知らないんだ?」
真っ直ぐ、須藤を見返す凪の口元に、皮肉っぽい笑みが浮かんだ。いささか乱暴で、横柄な口調は、いつもの彼女のものではない。
だが、須藤はそんなことを気にかける余裕はなかった。
「黒い翼…黒い翼…巨大な…黒い…」
何かに取り憑かれたように呟く須藤の顔は、歪み、ひきつっていた。いつもの、爽やかな笑顔は見る影もない。
やがて、ブルブルと震えながら、ゆっくりと、銃口が凪を向いた。
「まるで…悪魔だな…」
笑顔を作ろうとしたのかもしれないが、ヒクヒクと痙攣する口元は、何かの発作を起こしたようにしか見えない。
向けられた銃口を、凪は怯むことなく見返した。
「まあ、言いたいことは分かるけどねえ…丸腰の一般人に銃向けてる人に、言われたくないよ」
「凪ちゃん!逃げろよ!お願いだから…」
立山が涙まじりの悲痛な声で叫んだが、彼は床でのたうつことしか出来ない。
立山の言葉にはなにも返さず、彩乃をそっと床に横たえると、凪は立ち上がった。
小柄な体が、翼のせいでひどく大きく見える。
その翼は変わらず、立山と彩乃を守るように広がっていた。
彩乃が小さく声を上げ、眉を寄せる。立山は必死に手を伸ばした。
その様子にチラリと目をやってから、凪は真っ直ぐ須藤に対峙した。
「教えてよ。なんでこんなことしたの?」
須藤の上半身がぐらりと揺れた。つられて、足が大きく一歩後ろへ下がる。
(あ…)
隼也は直感した。
これは、まずい。そうだ、この子と目を合わせちゃダメだ…
だが、うまく言葉が出なかった。
「…は…は…」
須藤は凪を見つめたきり、肩で呼吸をしている。
両手がだらりと下がり、拳銃がゴツッと音をたてて落ちた。
「ああ、それ、こっちに蹴って」
凪が、サッカーボールでも蹴ってもらうような軽い口調で言うと、須藤は無表情のまま、拳銃を蹴ってよこす。
硬い音をたてながら、立山の脇をすり抜けたそれは、壁際近くで止まった。
「なんで…なんでって…」
床を滑っていく拳銃を見ながら、須藤は首元に手を当てた。
「なんでって…ウィンガーは、金になるからだよ」
呼吸は荒い。だが、言葉はしっかりしていた。
揺れる瞳で凪の方を見ながら、須藤は続ける。
「コソコソ隠れ続けて…大して金にもならないような仕事して…いなくなったところで、探す人間もいない…本人にとっても、新しく生まれ変わるチャンスだ…」
話しながら、須藤の顔は恍惚としてきた。元々、整った顔立ちが、ランタンの灯りに照らされ人間離れした気配を作り出す。まるで、舞台を見ているようだった。
口角が、ビクビクと不自然な動きで笑みを作り出していくのさえ、魅惑的な動きに見える。
しかし、立山は喉の奥で低く呻いた。床に置いた手が、きつく握りしめられる。
「コイツ…コイツら、ウィンガーの人身売買やってんだ。身寄りのない人間なら、めちゃくちゃ都合がいい。比嘉さんは…だから…」
そこらへんまでは、立山も聞き出せていたらしい。
凪は小さく頷いた。表情は、大して変わらない。だが、右手の指先が自分のパーカーの裾を握りしめていた。
凪をよく知る人間なら、彼女が動揺し、そしてかなり興奮していることを見てとったかもしれない。
しかし、立山は気付くはずもなかった。痛みと、絶望的な状況に対峙するのに、いっぱいいっぱいの彼には、凪は淡々と落ち着いて行動しているようにしか見えなかった。
凪の翼が『特別』なことは、ここへ来る前に知っていた。だが、彼女の能力については、なんとなくしか知らない。蝦名も本郷も、自分たちのこと、特に凪のことは、あまり詳しく話そうとはしなかったから。
ただ、
ーー気持ちを落ち着けてくれる。あいつがいると、最初に翼が発現したときでもすぐにコントロールができるようになるーー
それだけは聞いていた。
セラピストか、カウンセラーみたいだな、と思っていたが、実際は、気持ちを落ち着けるどころか…
(マインドコントロールってやつか…?すげぇ…)
真壁の家で、いきなり暴走したウィンガーの女の子を止めたのも、凪だった。
お互いにウィンガーだとは分かっていたが、そのことについて話したことはない。
秘密を抱えたもの同士、適度な距離感と、思いやりにも似た感情で接していたつもりだった。
いや、実際のところ、凪がウィンガーであることを忘れていることすらある。
おとなしくて、あまり目立たないが、感じのいい女の子。
立山の中では今までの凪の印象は、それだけだった。
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自分の身長を超えるほどの翼を持つウィンガーが、少数ながら存在することを最初に教えてくれたのは蝦名だ。
内輪ではその大きさの翼を「アーククラス」と称しているらしい。
彼らに共通しているのは、最初に発現した
時からほぼ翼のコントロールができていること、翼がない状態でも相手がウィンガーかどうかわかること(逆に自分がウィンガーであることを隠すこともできるらしい)、そして、飛行能力があること。
聞いた時は、羨ましくて仕方なかった。
ジーズの常連の本郷に、飛んで見せて欲しいとせがんだが、本郷は蝦名が立山に自分たちのことを色々話していたことは心外だったらしい。
「あのな、場合によっては世界中にパニックが起こるようなネタなんだ。たとえ、ウィンガー同士でも気軽に教えるなよ」
いつもは穏やかな本郷が、険しい顔になった。
「あと、水沢には余計なこと聞かないでくれ。あいつは…ウィンガーには出来るだけ関係したくないって、言ってるから」
**********
その凪が、体に似合わぬ大きな、漆黒の翼を広げて、須藤と正面から向き合っている。
自分をなす術もなく、ボコボコにした須藤が、金縛りにあったように立ち尽くして、凪に問われるまま、喋っている。
「彩乃さんは?どうするつもりだったの?ナオさんに言うこと聞かせるための人質?」
「…人質?」
ひぃ、という音をたてながら息を吸った須藤は、唇をわななかせながら、それでも笑った。
「…そういう意味も…あるけどね…セット販売さ。あちらへ引き渡してからも、その方が言うこときいてくれそうだろ…下手に彼女だけ残しておけば、行方不明だ、失踪だって騒ぎそうだし…」
「テメェ…善人ヅラして…最悪な野郎だな!」
立山は、グイと上半身を起こした。
腫れ上がり、唇には血が滲んでいる。怒りと内出血で、赤紫に染まった顔は痛々しいことこの上ない。
「取り引きの相手は?誰にこの2人、渡そうとしてる?」
凪は抑揚を抑えた声でさらに聞く。
凪の声を聞いているだけで、隼也は思考が麻痺していく感覚があった。
だが、先ほどとは違い、麻痺しそうだ、という自覚がある。
直接目を合わせていないせいか、凪の言葉が須藤に向けられているからか
(動け…動け…)
自分に語りかける声が足先に、指先に自分の感覚を取り戻させていく…
じりっと、横へ一歩踏み出すと、頭の中に現実の自覚が沁み渡っていくのを感じた。
ここは、どこだーー
目の前にいるのはーー
自分がすべきことはーー
隼也は、胸ポケットへそっと手を入れる。
そこには、先ほどまで須藤の手にあった拳銃と同じものが入っていた…
須藤の目は真っ直ぐ凪を見ている。だが、その眼差しは虚だ。呼吸の音は、隼也の耳にも届くほど荒い。
こんな須藤は見たことがない。動揺するよりも、隼也は気味の悪さにむかつきを覚えた。
「取り引きの相手…?…コレクターの…連中…いや、どうでもいい…誰でも…」
須藤の言葉を聞きながら、隼也はまだ金縛りのような感覚の残る体に命じた。
(動け!あの子を止めろ!)
凪の横顔を睨みながら、胸ポケットの中の金属に触れた感覚に集中する。
一歩、大きく足が出た。
凪が、サッと隼也を見る。
ほぼ、同時に須藤の背中に光の粒子が集まった。
容赦ないスピードで、須藤は凪に突進する。
凪の見開かれた目が、須藤の真っ白な翼と狂気じみた顔を捉えた瞬間、バタン!と大きな音がした。
その次に起きたことは、またしても隼也の目には止まらなかった。
何かが、白い残像を描きながら須藤とぶつかり、車にでも跳ね飛ばされたように、須藤の体は後ろへ飛んだ。
片膝と片手をつきつつも、壁に衝突する前に体を止めたのは、さすがに須藤のなせる技だろう。
その背中の大きく広がった翼は、怒りで小刻みに震えているようだった。
須藤にぶつかった相手はー
その姿を見て、何が起きたか隼也にもだいたいわかった。
床まで届く、純白の翼を持った男が、凪たちと須藤の間に仁王立ちで立ち塞がっている。床まで達する翼の先が揺れると、ホコリまみれの床に、不規則な線が描かれた。
「本郷…」
「本郷さんまで、なんで…!」
凪と立山が同時に呟くのを聞き、隼也はやっと、この男がいたことを思い出した。
さっき、自分はコイツに投げ飛ばされたのだ…
立ち上がり、光を取り戻した須藤の目は、ギラギラと本郷と凪をねめつけた。
「本郷?あのメモの…そうか、やっぱりそういうことか…」
本郷のラリアートをまともに喰らった胸を押さえながら、それでも須藤は口角を上げた。
「野宮れい子の子供たち、か…」




