閉ざされた世界で
投光器の灯りは、一応この大きな空間を隅々まで照らしていた。だが、天上の高さもあり、場所によって明るさはまちまちだ。それでも、
(うん、飛び回るには十分な空間だ)
がらんとしたその場所を見回して、凪は思わず顔が綻ぶのを感じた。
先ほどまでいたオフィスから、奥に入るドアを開けると広がっていたのが、この空間。
学校の体育館ほどの広さ。だが、天井はそれよりも高さがありそうだ。そして、何もない。
「ナカナカ工事ガ進マナクテ困リマス」
そう言ってマイケルが指差す壁や天井は鉄骨が剥き出しだった。
アーククラスのウィンガーのための飛行練習場所。そのためにこの土地を手に入れ、建物を建てたのだとマイケルが教えてくれた。若干浮かない顔なのは、完成の目処がたたないからだ。
工事を依頼した建築業者から、何に使う建物なのか、再三確認され、近隣からも不審な目を向けられているという。
「最近、絵洲市の土地を買おうとしてる外国人が多いって、千坂が言ってた。行政の方でも警戒してるらしいから、そのせいかもな」
先ほどから口数の少なくなっていた西崎が久しぶりに口を開いた。
(あ……まだ、怒ってるかも)
表面上はポーカーフェイスだが、凪は確信が持てた。
三つ子の魂、という本郷の言葉を思い出す。怒りに任せてキレ散らかさないための沈黙だろうか。
空間に一歩、二歩と踏み出し、凪は上を見上げた。
リノリウムの床は埃っぽい。壁や天井にはクッション材を入れて仕上げる予定だというが、うまく業者が見つからなければ、マイケルが自分でDYIを考えているらしい。
(これだけの広さ、自分でやるって……いつ完成するのやら……)
手伝いを頼まれたりしたらどうしようか、と思いつつ、高い天井を見上げていると足がウズウズしてきた。
「あの、ちょっと飛んでみても?」
マイケルを振り返ると、
「モチロン」
満面の笑みが返ってくる。西崎が先ほどまでの渋面を崩して吹き出したのはどういう意味だろう、とは思ったが、そこは気にせず、凪は手首のゴムで髪を一つに結んだ。肩よりやや長いくらいのセミロングの髪でも、飛ぶとなればキッチリまとめた方がいい。
軽く床を蹴ると同時に翼を出した。
ヒュッと空気を割いて、次の瞬間には天井ギリギリまで辿り着く。クルクルっと後方二回宙返りを決めてピタリと止まった。
屋根の鉄骨の骨組みが間近に眺められる。改めてなかなかの面積だと思った。これを個人の力で仕上げるのはなかなか大変そうだ。いくら飛べるといっても、15分程度の時間で出来る仕事は限られているだろうし、足場を組むならやはり業者を頼るしかない。だが、そんな懸念はあっという間に薄れていった。
翼を出した時特有の、五感全てが冴え渡る感覚。自分に関係のない内装工事など、たちまちどうでも良くなった。
「ひゃはっ……」
たまらず笑い声が漏れる。見下ろせば、こちらを見上げる3人も──アンジェリーナを含めて──笑顔だった。
(──あいつ、変だな)
アンジェリーナは両手を胸に当て、恍惚とした笑みを浮かべている。唇が何やら動いているようだったが、声までは聞き取れなかった。
(人間が飛ぶとこ見るの、初めてでもないだろうに。ていうか、自分も飛べるしな?)
まあいいか、と凪は体を反転させた。
ゆったりと壁際を回る。だだし、ゆったりと感じているのは凪だけで、下から見守る3人には剛速で旋回しているように見えていた。
「相変わらず、いい飛びっぷりだな」
苦笑しながら言う西崎に、
「Yeah! Amezing……」
うっとりとアンジェリーナが頷く。
「Amezingじゃねえ。水沢の行ってるジムまで押しかけてたらしいな。どういうつもりだ?」
西崎の語気にアンジェリーナは肩をピクリとさせた。だが、まだその目は凪を追っている。
「もう一度、会いたくて。彼女に」
その言葉に、込められたなんともいえない切ない響きに西崎は眉をひそめた。
「迷惑だ。あれはあの時だけの約束だったし、今回も水沢が協力するとは言ってない」
錐揉み状態で上昇して行った凪は天井スレスレで身を翻し大きな螺旋軌道を描きながら下降してくる。
「分かってます。だから、自分から会いに行ったりしてません。今日は偶然です」
その偶然を期待してあのスポーツクラブに行っていたくせに、と西崎は舌打ちした。
「マイケル、さっき言った通りの対応をきちんと取ってくれるんだろうな?」
マイケルは大きく頷いた。
「アナタタチトノ信頼関係、大切デスネ。凪サンノコトモ大事。コレ以上、心配カケルコトシマセン」
そしてアンジェリーナには再度、すぐにアメリカへ戻るように念を押した。
アンジェリーナは不服そうな顔になったものの、床面スレスレを飛んでいく凪から目を離さない。
「分かった。オレも一緒に行く。他のやつの話も聞きたいし、シンシンにも説明責任を果たしてもらわないとな」
そういう西崎の横顔はかなり厳しく、マイケルは「ソコマデシナクテモ、」とは言えなかった。
ブワッと風を巻き起こして3人のそばを通り過ぎた凪と西崎の目が合う。途端に凪は急停止した。
空中に漂ったまま、小首をかしげる。
「飛ばないの」
頭上の広々とした空間を、凪はふんふんと指差した。
せっかく人目を気にせず飛べるのに何をしてるんだと言わんばかりの凪の様子に、
「え、ああ……」
西崎は思わず苦笑して凪の指差す方を見上げてしまった。
「せっかくだから、運動しておくか」
上着を床に投げ捨て、翼を出す。
純白の翼を目一杯広げると、怒りも苛立ちもたちまち霞んでいくのが不思議だ。今すべきことは、アンジェリーナを責めることでも、マイケルに不満をぶつける事でもない。
(現状把握と対策。目的を見失しなわないこと)
落ち着いて自分に言い聞かせる。これを狙って凪が飛ぶように促してきたのかと、少しきまりの悪い感じもしたが、それも床を蹴るとどうでも良くなった。
上昇しながら速度を上げる。限界までスピードを上げて壁際を旋回した。
相当なスピードが出ているはずだ。それでも、時々視界に入る黒い翼の速さには到底及ばない。しかも、上下左右ランダムな動きを見せつつも、ぶつかりそうな恐れも不安も感じさせない。
(こっちの動きは把握されてるな)
凪が自分より遥かに高速で飛びながらも、まだ余裕があることを思い知らされるが、悔しさはなかった。なぜか、小学生の頃から凪が飛んでいるのを見ると気分がスカッとする。
気がつけば、マイケルとアンジェリーナも空中遊泳に参加していた。
「HEY!オトヤ!レースヲ、シマショウ!」
言うなりマイケルはトップスピードで西崎を抜いていく。
「チッ」
舌打ちをして西崎はすぐに後を追った。
2人の風速に煽られたアンジェリーナが、ワタワタと手をばたつかせていると、
「泳ぐなよ」
後ろから凪の声がした。
振り向いたアンジェリーナの目の前に、逆さまで静止している凪がいたものだから、
「!ウォゥ!」
またバタバタと手と翼がデタラメな軌跡を描く。
「へったくそ」
凪はヒュンと反転して正位置に戻ると、頬にかかった髪を払った。
「前も教えたはずだけど。翼はそんなに動かさなくていいって。これで飛んでるんじゃないだから」
「ア……でも、浮かぼうとすると動いちゃうんです。じっとしたら、落ちそうな気がするし」
そう言いながら、アンジェリーナの翼は左右非対称な、不安定な動きを見せていた。対照的に凪の黒い翼は、その背中で全く動かない。羽ばたくどころか、小柄な体に寄り添うように閉じられている。
「止まれ」
少し強い口調で凪に命じられると、アンジェリーナは空中で斜めになったまま気をつけをした。
「あはは、別にそこまで固まんなくていいんだけど!ほら、落ちないじゃん!」
緊張の眼差しと、微かな揺らぎを見せつつ、アンジェリーナの体は宙に留まっている。
近づいた凪は、その硬直した両脚を爪先までピンと伸ばしてやった。ついで広がった翼をたたみ、スリムな形状に整える。戸惑った少し茫洋とした顔は両手で掴み、軽く上を向かせた。
真っ直ぐ、鉄骨剥き出しの天井を指差す。
「では、突撃するイメージで。ゴー!!」
凪の掛け声と共に、アンジェリーナの体は上へと飛び出した。まるで逆バンジーのような勢いで、あっという間に天井に突っ込んで行く。
「曲がって!!」
声と共にパン!と凪が手を叩くと、ほぼ直角にアンジェリーナは方向転換し、
「ストーップ!」
の声と共に壁の数センチ手前で急停止した。
「出来るじゃん!」
ゲラゲラ笑い出した凪を、西崎とマイケルが見上げていた。
「え、え、えっ、えぇぇ?!」
目前の鉄骨に、アンジェリーナは震え上がっている。
「マイケル、早いとこクッション材入れた方がいいぜ。マジで怪我人がでる」
深いため息をついた西崎だが、眉間に皺を寄せつつ、楽しげな様子も見える。
「ワーオ。ヤハリコレデハ凪サンニハ足リマセンカ」
「いや、水沢はどうとでも飛ぶけどな。真似したヤツが痛い目みるのが確実だ」
「アー、私ハ、マネシマセンケドネ」
「オレもやらねえけどな」
2人は顔を見合わせてニヤリと口角を上げた。




