お馴染みの世界 ③
「お待たせ〜」
静かに、すべりこむように裏口から現れたのはマスターだった。いつも通りの少し疲れたような笑みに、ちょっと得意げな眼差しを乗せて、手に持った箱を掲げて見せる。
「少し出かけてくるから」
と言って姿を消したのは1時間近く前のこと。何かあったのかと、凪もそろそろ気になっていた時だった。
当然、今日は貸切にしていたから他の客が来るわけでもないし、酒も食器の場所も凪や暦美が把握しているから、マスター不在でも問題はなかったが。
「お祝いにはこれが必要でしょう」
マスターが手にしているのは、その大きさからしてもケーキの箱であることは一目瞭然だった。
「ええ!そんな、わざわざ……」
「ええ!ドルチアーナのケーキ!!」
凪の恐縮に満ちたお礼の言葉は、暦美の甲高い声にかき消された。
「ドルチアーナ……」
聞いたことがある名前だ。
「あ、夕方から開店するっていうケーキ屋さん?この間テレビに出てた」
「そうそう、ホステスしながらフランスに修行に行って、お店でケーキ出し始めて──」
美実と暦美の会話を聞きながら、凪も少し前に情報誌でその店のことを読んだ記憶を思い出した。
華やかなデザインのケーキは、クラブなど、夜のお店に勤める人たちの誕生日やお祝い用に最初は作っていたらしい。だが最近は、デザイン性の高い見た目だけでなく味も絶品だと一般の人からも注文が殺到しているらしい。
(確か、予約でしか販売してなかったんじゃ……)
「届けてもらう予定だったんだけど、スタッフが急に休んじゃったんだって。だから受け取りに行ってきたんだけど、知り合いに会って話し込んじゃって。遅くなっちゃったね。みんな、お腹にまだ入るかな?」
マスターが箱を開けると歓声が上がる。
洸は当然の権利として一番前に乗り出して現れたケーキに満面の笑みを向けていた。
カップケーキをいくつも組み合わせて、大きなデコレーションケーキのように仕立てられている。まるで小さな花畑を押し込めたような、カラフルなケーキ。
「うわぁ、カワイイ」
洸が女の子みたいに手を叩いて飛び跳ねた。
他の男性陣も(千坂と蝦名を除いて)ケーキの周りに群がってきたところを見ると、みんなスイーツ好きらしい。
「すいません。こんなことまで気を遣ってもらっちゃって」
凪がそっと言うと、マスターは顔に皺を寄せて笑った。
「ふふ、サプライズ成功だね」
凪としては恐縮するばかりだが、主役の洸はもちろん、周りも喜んでケーキに手を伸ばしている。
「姉ちゃん、ここ!キャロットケーキらしいよ!」
意地悪く笑う弟の首を、凪は後ろから締め上げた。
「方向同じだから、いいだろ」
なかなか目を覚さない千坂と蝦名を乱暴に同じタクシーに押し込んだのは真壁だった。
翼を出した真壁と高野がそれぞれ千坂と蝦名を肩に担ぎ、店からタクシーまで運んだのである。
通行人はもちろんのこと、タクシーの運転手も目を丸くして2人を見ていた。
その存在は知っていても、実際に翼を出したウィンガーを見ることなんてほとんどない。
背中に翼のある人間が、大の男を軽々と運ぶ様はなかなかにシュールな光景だ。遠巻きに、だがしっかりとスマホを向けてくる通行人も多かったが、絡んできたりはしなかった。おそらく真壁の容貌による威嚇効果と思われる。
蝦名の店の名前と住所を言われた時も、運転手はよく聞いていないようだった。
「え……えぇ?あ、ああ、エビナ酒店ね。ええ、分かりますよ。多分……」
答えながら、泳ぐが眼差しが真壁の強面と背中の翼を見比べている。
「デカい方も太い方もそこで降ろしていいから。多分、その頃には目覚ますよ」
睨みつけるような目付きに、運転手は唾を飲み込みながら頷く。
実際のところ、運転手にしてみれば、泥酔して寝込んだ客など、断りたいところだろうが、真壁の顔圧に押されているのは明らかだった。
その運転手の顔つきが、真壁の隣からタクシーの中に身を乗り出した本郷の手の一万円札を見ると明らかに変わった。
「面倒かけますが、お願いします。これ、とっておいてください。あ、料金はもちろんコイツらに請求してくださいね」
たちまち愛想のいい笑顔を作り、運転手は頷く。
「いやあ、珍しい物、見せてもらっちゃいましたね。いい話のネタになりますよ」
「オレらはネタか」
走り去るタクシーにボソッと真壁が呟くと、
「そりゃそうだよ」
高野があっけらかんと頷いた。
翼を消した後もまだこちらを指差してくる野次馬もいる。
「珍しいじゃん。羽の生えた人間なんて」
「見せもんじゃねえ」
声のボリュームを上げた真壁の尻を本郷が軽く蹴飛ばした。
「だからやめとけって言ったのに。出さなくたってなんとか抱えてこれただろ」
「普通に抱えて歩けるかよ。よりによって、あんなデカいの2人」
「まあ、そりゃそうだけど」
本郷は苦笑しながら頷いた。
「この次はアイツら2人の奢りだな。オレが一万円出したの、ちゃんとお前らも覚えててよ」
「あ、さっきのチップ奢りじゃないんだ。さすが、太っ腹〜って思ったのに」
と、高野が笑う。
「オレにそんなボランティア精神はない」
本郷は胸を張って宣言した。
本郷と別れると、高野と真壁は肩を並べて繁華街を抜けた。
「そう言えば、千坂もエビさんの家で降ろされていいのか?」
今更ながら確認する高野に、真壁は鼻で笑った。
「歩いて15分もありゃ千坂の家まで帰るだろ。酔い覚ましにそのくらい歩けって」
「相変わらず、体デカいくせに酒弱いよな〜、2人とも」
「酒に飲まれる酒屋ってな」
蝦名としては散々な言われようだが、あくまでウィンガーとしての話で、一般人ではまず飲みきれないほどの量を飲んでいる。当然、家族には「やたら酒に強い」と評されていた。
やがてオフィスビルの多い一角に差し掛かり、しばし無言だった2人は視線を見交わした。
「付いてきてるよな。ウザってぇ」
「まさかウィンガーじゃないよな?エビさんがいれば分かるのに」
「なんでウィンガーなんだよ」
「いや、なんたってウィンガーの聖地だし。隠れウィンガーってそれなりに入り込んでるって言うし」
顔を顰めた真壁は全く般若のような形相になったが、高野が気にするはずもなかった。
「さっきの野次馬にいたヤツらだ。面白半分に付いてきただけだろ。人いなくなったら、オレは走る」
真壁がそう言って路地を曲がると、ちょうどおあつらえ向けの状況だった。
見える範囲に人影はなく、街灯も少ない。
地面を蹴ると同時に純白の翼が現れる。次の瞬間には、真壁は全力疾走にうつっていた。
全く、この翼は訳の分からない存在だ。
触れば鳥の翼と同じような感触がある。骨格のような輪郭も感じられる。それでいて、こうして全力疾走しても空気抵抗を受けている感覚はない。早く走れば走るほど、背中を押される気がするほどだ。
物理法則が全く無視されている──
真壁はさらに細い道へと曲がった。およそそのスピードで曲がれるとも止まれるとも思えない状況だったが、道を曲がった真壁は立ち止まっていた。そして30センチ後ろで同じくピタリと立ち止まった高野を振り返った。
「なんで付いてくんだよ。方向違うだろ」
「いやいや、泊めろよ」
当然の如く、高野は返す。
「こんな時間にバスも地下鉄もないんだから」
「タクシー使えよ!」
「そんな金あるわけないだろ。かべっちの今のアパート歩いて帰れるとこだろ」
全く遠慮も悪気もないのが高野らしい。
真壁は深くため息をついた。
「人がいないうちにもう少し走るぞ」
「了っ解っ」
次の瞬間には、薄暗い路地裏を2対の翼が飛ぶように駆け抜けて行った。




