ジャネットの逃亡
トイレは確かに店を出て、斜め向かいの通路を入った先にあった。だが、中へ入る前に凪は足を止めた。
入り口にはすでに5人ほどが並んでいる。そこにジャネットはいない。
ジャネットの後を追って店を出るまで、1分もかかっていないはずだ。このトイレへ来たとしたら、この列の中にいなければおかしい。
「あのっ、」
思い切って凪は一番後ろに並ぶ女性に声をかけた。
「結構、待ってますか?」
「え?ああ、5分くらい、かな?」
同じくらいの年頃の女性は、声をかけられて少し驚いたようだが、そう答えてくれた。
「黒人の女性、来ませんでした?ドレッドヘアの」
「え?」
女性はその前に並んでいる、連れらしい女性と顔を出して見合わせた。
「来た、っていうか、そこ通っていった人のこと?」
「ありがとうございます!」
言うと同時に凪は女性が指差した方向へ走っていた。
(目立つ見た目でよかった!)
外国人も年々多くなってるとはいえ、黒人でドレッドヘアの女性となればやはり目を引く。印象にも残りやすい。
そちらの方向にはさらにレストラン街が続き、地下鉄へ向かう通路とエスカレーターがあった。
凪は迷わず、エスカレーターに向かった。レストラン街の方へ向かったならほぼ一直線だ。すぐに見つかる。
(あたしが逃げるなら、こっちに行く)
そう思いながら、なぜ逃げる必要があるのだろうとも思う。
(あたしの能力を知ってた?何か、喋らせられると思った?でも、誰がそんなこと教えて……)
すぐに室田の顔が浮かんだ。
エスカレーターで昇りながら、西崎に電話する。ワンコールも待たずに西崎は出た。
「今、エビさんからも電話来た。エビさんが追っかけてる。水沢は一旦戻れ」
話し出す前にそう言われ、凪は唾と言葉を飲み込んだ。
「あ、でも、」
と言いかけ、エスカレーターを降りたところで周囲を見回したが、ジャネットも蝦名も姿はない。
「―分かった。すぐに戻るよ」
それでも凪は周囲に出来るだけ視線を向けながら歩いた。やけにキョロキョロしている、不審者だと思われたかもしれない。
それでも、万が一ジャネットの仲間がいる場合を考えたのだ。もしかしたら、ウィンガーの。
だが結局、ウィンガーが行き交う人に紛れていることはなかった。
店へ戻り座席を見ると、案の定微妙な空気が流れていた。
花が向かい合った西崎にタブレットの画面を差し出している。泣き出しそうな、必死な顔つきだった。
その隣で室田が顔も体もこわばらせて座っている。
テーブルの上には、まだ水しか置いてなかった。
凪を振り返った西崎は、少し困ったような呆れたような顔でため息をついた。
「見失ったってエビさんから連絡きた。タクシーに乗ったらしい。結構、土地勘あるんだな」
西崎の厳しい眼差しに、室田が目を伏せる。
「何回か来てるしね……」
そう言う声は掠れていた。
凪はタクシー乗り場までの道のりを考えた。
時間的に、最短距離で向かったようだ。
(タクシー乗り場の位置もちゃんと知ってたんだ)
なんだか気味の悪ささえ感じる。
凪が席につくと
「見せていいだろ?」
西崎は花に確認するとさっきまで見ていたタブレット差し出してきた。花のものらしい。
メモアプリが開かれ、画面にはかなり長い文章が打たれている。
サッと目を通し、凪は花に目をやった。
不安そうな、だが必死な目。隣の兄の方はと言うと、目を伏せじっと固まっている。
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アメリカに行くことは、私がエンジェルたちと相談して決めました。
お兄ちゃんが特別なウィンガーなので、私も特別なウィンガーになるかもしれないと言われたからです。
暴走すると、お兄ちゃんと一緒に暮らせなくなるかもしれないです。だから、エンジェルがいろんなテストをして、私がウィンガーになるのか検査しました。
エンジェルはウィンガーです。ても、そのことを隠してます。お兄ちゃんの仲間です。悪いことはしてません。怒ることもあるけど、いつもは優しいです。
隠れウィンガーの仲間を探していると言ってました。だから、お兄ちゃんの友達に会ってみたいと言っていました。
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西崎の質問に答えて打ったのだろうか。少したどだどしい文面ながら、兄とエンジェルを庇おうとする気持ちは伝わった。
「あの……このエンジェルって……?」
花の件に関わっていたのがウィンガーだというのは、凪にも想定内だった。問題はそれで彼らが何をしようとしているかだが。
そして、室田と彼らがどうやって知り合ったのかも気になるところだった。
「実際に花ちゃんを連れていったやつだ。ジャネットはその部下らしい」
室田が言い淀んでいるのを見て、西崎が言った。
(ここまではきて、まだ悩んでるのかな……)
さすがに凪も室田に苛立ちを感じた。
「ご注文、お決まりでしょうか?」
いつまで経ってもなにも頼もうとしない一行に業をにやしたのか、店員が声をかけてくる。
続けて何か言おうとしていた西崎は口を閉じ、凪は慌ててドリンクメニューを開いた。
気まずい沈黙の中、室田は目を伏せたまま頭を下げた。
「ごめんなさい」
花は、また泣き出しそうな顔で兄の腕に縋り付いた。
「事情があるなら、説明してくれ。言ってくれなきゃ、相応の対応しかできないぞ」
西崎の声は硬かった。
妹に目をやってから、覚悟を決めたと言うより、諦めたように室田は口を開いた。
「お金、出してもらってるんだ。マンション借りたり、2人で生活するのにも最初は厳しくて。れい子先生のクラスだった子供たちを……つまり、そういう子たちを研究したいって」
室田は周囲を気にしながらそう言った。
「でも、オレじゃあんまりいいサンプルじゃないみたいで。それで……」
凪も、周囲のテーブルからの視線は気になっていた。
明らかに雰囲気のおかしい4人組が、やたら深刻そうに、小声で話している状況。店員も近くを通るたびに聴き耳を立てている気がする。
「西崎、場所変えた方がよくない?」
室田の話の途中だったが、思い切って凪は言った。
「―そうだな。一回、出るか」
結局、飲み物も半分残したまま、4人は席を立った。




