復讐を誓う奴隷少年は薔薇の魔女に拾われる
──魔女の森には、近付くな。
一歩でもそこへ足を踏み入れてしまえば、呪いの薔薇の棘に刺されて、魔女の操り人形にされてしまうから。
どうしてあの森には、不気味で歪んだ木が並んでいるんだと思う?
それは全て、魔女に飽きられて木に変えられてしまった者達の、苦しみ悶えた姿だからだよ──
金糸の髪を持つ少年・ティルは、幼い頃からそんな眉唾物の話を母親に言い聞かされて育った子だった。
危険な場所に子供を立ち入らせない為に、村の大人達が語り継ぐ古い言い伝え。
本当は魔女なんてものはおらず、迷いやすい森だから怖がらせようとしているのだ。
少なくとも、今年で十三歳を迎えるティルはそう思っている。
ティルの生まれた村は、周囲を豊かな森に囲まれた農村だった。
どこにでもある、穏やかな風景。
ゆったりとした時間の中にあるこの村に、魔物が入り込んだ事など過去の一度も無い。
今日もティルはいつものように川へ行き、母親に頼まれた魚を釣ろうと奮闘しているところである。
亡き父の形見の素朴な釣竿を手にして、のんびりと魚が掛かるのを待つばかり。
少し退屈ではあるけれど、獲物を持ち帰った後は母の美味しい手料理が食べられるのだから、この時間もそこまで悪くないように思う。
同じ体勢で待ち続けるのも辛くなってきたティルは、大きく両腕を上げて伸びをした。
グッと上を向きながら身体を伸ばすと、何だか気分まで軽くなるようだった。
その時──
「……あれ、何だろう」
ふとティルが空を見上げると、青空に黒い雲が浮かんでいた。
一旦伸びを止めてそれをよく確かめてみると、その雲は村の方から続いて、もくもくと立ち登り続けているではないか。
「あれは、雲……じゃない……!」
その正体に気付いたフィルは、釣りを中断して村への道を一気に走り抜けていく。
釣竿は後で取りに戻れば良い。今は何より、あの黒い雲の──村から上がる黒煙を確かめに行かねばならなかったからだ。
走って、走って、走って。
一目散に駆け抜けて村の状況が目視出来る距離まで来ると、フィルの予想通りの光景が彼の胸を貫いた。
「ハァ……ハァ……。こんなの、嘘……でしょ……?」
ティルの視界を埋め尽くす、炎の海。
村中に回った火の手は、家も納屋も……何もかもを焼き払おうとしている。
誰かが火事を起こしたのか。
それとも、炎を操る魔物が村に火を放ったのか。
人っ子一人居ない灼熱地獄を前に、立ち尽くすフィル。
「……だ、誰か! 誰か居ないの⁉︎ そうだ、母さんは……母さんっ、どこに居るの⁉︎」
フィルの家は、ここから一番奥にある小さな家だ。
母がまだ取り残されているかもしれない。
ならば助けに向かわねばと一歩を踏み出したものの、風向きが変わった事により、激しい黒煙がフィルに襲い掛かってきた。
喉を焦がさんとする熱風と煙に、咳と涙が止まらない。
けれど、行かなくては。
「かあっ……さ……!」
次第に息をするだけでも精一杯になり、その場から身動きを取る事すら困難になってしまった。
助けなければ。
母の元へ急がなければ。
思いとは裏腹に、幼いフィルの意識は遠ざかっていく。
そして遂に、フィルはその場に倒れ伏してしまうのだった。
*
気を失い続けていたフィルは、誰かにぺちぺちと頬を叩かれた。
ふるりと睫毛を震わせ、フィルが目蓋を開けた先に広がるのは……薄暗いフロアにずらりと並んだ大人達。
全く記憶に無い光景に戸惑っていると、身体に違和感を覚えた。
フィルは明るいステージの上に立たされており、両腕を後ろ手に縛られた状態で、窮屈な鉄の檻の中に閉じ込められていたのだ。
「んん〜! んっ、んぅ〜‼︎」
危機的な状況に助けを求めようとした。が、口の中に布を詰められ、更にその上から口元を別の布で塞がれている。くぐもったフィルの声は、まともな言葉にならない。
そんなフィルを気にせず、ステージに立つ男が高らかに叫ぶ。
恐らくは、この男がフィルを起こしたのだろう。
「さあさあ、続いてはこちらの商品! 金髪に紅い眼を持った、小柄な奴隷少年です!」
──奴隷、と男は口にした。
その言葉通り、フィルは着ていたはずの服を引っぺがされ、粗末な腰布一枚だけの見すぼらしい姿にされていた。
となれば……ここに集まった大人達は、奴隷を買いに来た後ろ暗い事情を抱えた者ばかりなのだろう。
奴隷を売り捌く場所があるという話は聞いた事があったフィルは、これから自分の身に降り掛かるであろう、最悪の未来を想像してしまった。
フィルは同年代の少年達に比べて背が低く、性格も穏やかだった事から、女の子のようだとからかわれる事が多かった。
父親は男性らしい立派な体格をしていたものの、自分が父と同じような肉体になれるとは到底思えない。
どこかの商人にこき使われるか、変わった趣味を持った貴族に玩具にされるか──何にせよ、奴隷として捉えられてしまえば、非力な子供でしかないフィルにどうこう出来る話ではない。
「まだ子供なので、労働力とするには飼育に時間が必要ですが、愛玩奴隷としては今すぐにでもお使い頂ける上物でございます!」
やはりそうだ。
労働力か愛玩用か、奴隷の辿る末路などそんなものなのだ。
不安と恐怖で膝が震え、視線が泳ぐフィルを、客達が舐めるように見てくるのが分かる。
どうして自分がこんな目に遭うのだろう。
他の村人達も、この男の商品として捕らえられてしまったのか。
母は……まだどこかで生きているのだろうか。
「さてさて、そろそろこちらの奴隷のお値段を発表させて頂きます! フェルバ地方産の金髪奴隷、金貨八百枚からのスタートです!」
奴隷商の声を合図に、客席から次々に声が上がる。
「八百五十!」
「八百七十!」
「九百五十!」
男の声だけでなく、少し枯れた女の声も飛び交っていく。
「千五百!」
「千五百三十!」
次第に上がり幅が小さくなり、もうじき買い手が決まろうかという頃──
「……五千!」
凛とした女の声がフロアに響き渡り、周囲が沈黙に包まれた。
金貨五千枚など、絶滅危惧種の希少奴隷を一体買えるかどうかという大金だ。
王都に家を建てるのに金貨五千枚、屋敷を建てるなら四千枚もあれば、それなりのものが買える金額。
いきなりそんな高額を宣言した女を超えようなどという者は、この場には居なかった。
「五千! 金貨五千で、そちらのご婦人がお買い上げです!」
競り落とされた。
顔も名前も知らない女に、フィルは買われたのだ。
彼女の声がした方へ視線を向けると……暗がりの中から、猫のように怪しく光る二つの目玉を見付けた。
あの女がこれからフィルをどう使うのか──そんな事など、想像したくもなかった。
*
「……さい……目覚めなさい、ボウヤ」
「うっ……」
先程まで深く深く沈んでいた眠りの世界から、一気に浮上する。
再びフィルが目を覚ますと、そこはまたもや薄暗い場所であった。
「ここ、は……」
「今日からボウヤが飼われる、新しいおうちよ。素敵でしょう?」
部屋の四隅には燭台が設置され、フィルと女はその中心に居た。
ただし、女はベッドに括り付けられたフィルを見下ろしているという、異常な状況で。
蝋燭の炎に照らされた女は、若く美しかった。
夜の闇をそのまま写し取ったような艶やかな銀髪は、女の腰まで伸び、ふんわりとウェーブしたロングヘア。
獲物を睨む猫のように細められた真っ赤な眼を、麗しく長い睫毛が縁取っている。
ぷるんとした唇は優雅な笑みを浮かべ、ほっそりとした首から続く胸元は、扇情的な黒いドレスによって大胆に強調されていた。
女がフィルの顔を覗き込むと、必然的に彼女の豊かな果実が間近に迫る。
思わず頬を赤らめた少年の反応に、女がクスクスと笑って言う。
「ふふっ……こんな状況でも、男の子ってそういう反応をしちゃうのね」
「べ、別にそんなんじゃない……!」
「そうやって必死になって否定するのがその証拠よ。……それよりボウヤ、貴方の住んでいた村がどうなったか知りたくはない?」
「……僕の村の大火事を知ってるの?」
「ええ、その犯人も知っているわ」
犯人……と、女は口にした。
つまりそれは、何者かが意図的に村に火を放った事になる。
「……村を焼いたのは、奴隷商の帝王と呼ばれる男。村人達を殺し、攫い、売りに出したのもそいつの仕業。あのオークションだって、裏で取り仕切っているのはその帝王だったのよ?」
「奴隷商の……帝王……」
すると女は、フィルの小さな顎をクイッと掴んで上向かせた。
「と同時に……そいつは私の敵でもあるのよねぇ」
「……何が言いたいの」
女は更に笑みを深める。
まるで、目の前の奴隷の価値を確かめるような……そんな眼差しを向けながら。
「私と取引をしてみない? 私は貴方を強くしてあげるから、貴方は私の奴隷としてその帝王を殺すの。どうかしら?」
村での平穏な日常と、愛しい母を奪った男。
その男を殺すならば、それを果たすだけの力をこの女が与えてくれるという。
……ならば、答えは一つしかない。
「……やる。帝王を、僕の手で殺す」
「うふふっ……取引成立ね」
女は、満足げに声を弾ませた。
「今日から貴方は、この薔薇の魔女の奴隷になったのよ」
そうして魔女に優しく撫でられた頬が、何故だかチクリと痛んだ気がした。





