20. 逃亡
「シェディル。あなたは最初から知っていたのでしょう?私が妊娠していた事を」
人払いして二人きりになった部屋の中、徐にそう問うとシェディルは真っ青になって震えた。
考えればすぐに分かる事だ。毎年の事なのに突然今年からシェディルが過保護になったのは私が妊娠していると知っていたからなのだ。
そしてそれ以前におそらくシェディルは子ができる原因となったあの夜の事も知っている。
そうでなければ私があの夜を夢だと思い込んだ事に説明がつかない。情事で汚れたシーツの替えも私の体を清めた湯も、陛下ご自身で用意できるはずがないのだ。必ず侍女の手を借りている。そしてその侍女はシェディル以外に考えられなかった。
「申し訳ありません!」
シェディルは叫ぶように言うと、床に這うようにひれ伏した。
「決してセーレ様を裏切ろうとしたわけではないのです!でも……」
「分かってる。陛下に命じられれば誰だって言う事などできないでしょう。あなたに責任はないわ」
「セーレ様……」
どこか安心した色を滲ませて、涙に濡れた顔をシェディルは上げた。
「でも、あなたの顔はもう見たくない」
だが次の瞬間、それは一気に絶望の色に染まった。
見開かれたその目から大粒の涙がこぼれる。
「別の担当にするよう、女官長に話はつけておいたわ。今すぐ、ここを出て行きなさい」
「セ、セーレ、さま」
「聞こえなかった?出て行けと言ったのよ」
縋ろうとするシェディルを鋭く睨んで言うと、シェディルはよろよろと立ち上がり一礼だけして静かに部屋を出て行った。扉が閉まる瞬間嗚咽がかすかに耳に届く。
それを見送り、手首を握りしめていた手を開く。爪の形をした傷から血が滲み、袖を汚した。
父と話し合い、後宮を脱するのは3日後となった。
父は後宮に手の者を忍ばせていると言っていたが、驚く事にそれは私の監視として付けられた侍女のひとりの中にもいたらしい。その侍女の協力を得て、今は密かに準備を進めている。といっても手配は何もかも父がしてくれるとの事で、私がする事などほとんどないが。
シェディルの追放は、そのほとんどない中で気が重いが重要な事だった。
私付きの侍女は何人かいるが、その中でもシェディルは最も側で世話をする事が多い侍女だ。そして最も私と仲が良い侍女でもある。
シェディルが側にいれば事に気付かれる可能性がある。それに私が消えれば手引きしたとして第一に疑われるのは彼女だろう。親切にしてくれたシェディルをこんな事に巻込みたくない。
シェディルを傷つけてしまった事は心苦しいが、互いの今後を思えば致し方ない事だ。せめてものお詫びと恩返しとして、父には彼女の今後の保証を頼んでおいた。
じくじくと手首が痛む。
私が捨てようとしているものがどれだけ大きいものかを訴えるように。
ため息を吐くと、机に母茶が置かれた。一瞬、たった今追い出したばかりだというのにシェディルかと期待してしまったが、置いたのは当然別の侍女だった。父が送ったという協力者の侍女だ。最初は気付かなかったが、父よりもだいぶ年上かと思われるこの年嵩の侍女は元々侯爵家の屋敷に勤めていた家政婦長だったはずだ。なんとなく顔に見覚えがある。
侍女は手首にある爪の跡を見て眉を寄せた。
「計画を中止されますか?気が変わるようでしたらいつでも止めて良いと旦那様から言付かっております」
「いいえ。このまま続けるわ」
「……さようですか。お気が変わりましたらすぐにお申し付けくださいませ」
頭を下げて、侍女は下がる。無論、監視なので部屋からいなくなるわけではない。
気が詰まる。だが致し方ない事だ。まだ協力者の侍女で警戒しなくても良い分マシだとも言える。
私は便箋を取り出し、ペン先にインクをつけた。
宛先はノード様だ。
こんな事になった以上当然降嫁などできない。手紙でしかできないのが申し訳ないが、せめて一言謝罪したかった。
書き終えた手紙を丁寧に封筒にしまい、封蝋を押す。
「これをガゼス•ノード様に届けて欲しいと父へ」
「かしこまりました」
これで私がやるべき事はほとんど終わりだ。あとは計画を頭に徹底的に叩き込むだけ。
もっと友人や知り合いが多ければ大変だったであろうが、人付き合いの少ない私にはこれしかない。あっけないものだ。
けれどたったこれだけでも押し寄せる罪悪感は重く、むしろ少なくて良かったとさえ思えた。
ため息を吐いて少し冷めた母茶に口をつけると、手紙を懐にしまい侍女が言った。
「旦那様から伝言です。荷物は全てこちらで用意するが、どうしても持っていきたい物があったら確保しておくようにと。ただし、あまり大きな物は困りますが」
「分かったわ。でも結構よ。何もないから」
父に引き取られる時何も持って行く事ができなかったので、母の形見といえるものは何もない。
ここにあるものは側室として与えられたものばかりで、必要なものなど思い至らなかった。
3日は呆気ないほどすぐに過ぎ去った。
相変わらずあれから陛下が訪れる事はなく、誰も怪しむ者もなく。
当然と言えば当然かもしれない。側室の中でも目立たない存在の私がほんの数日姿を見せなかったところで誰も気にしはしないだろう。
一番警戒していた陛下は寝る間も惜しいほど宣誓式の準備に追われているらしい。
最後に陛下の顔を見たかったが仕方がない事だ。会えば決心が鈍ったかもしれないから、むしろ会えなくて良かったのかもしれない。
決行は夜。
いつもなら既に床に入っている時間に、息をひそめ協力者の侍女と向き合った。
「こちらを」
いつも着ているドレスを脱ぎ捨て、差し出された質素な服を着る。
こんな服はもう何年も着ていなかったのに、ドレスよりよっぽどしっくりと感じて思わず笑えてしまった。
「気が沈まれていないようでよろしゅうございました」
色あせた外套を私に着せながら侍女が言った。
気が沈んでないと言うよりも、たぶんまだ自覚がないだけだ。
ここにいろと言ってくださった陛下を裏切った事も、シェディルを泣かせてしまった事も、私はきっと一生後悔し続ける。それでも、私は我が子以外は捨てると決めたのだ。
まだ膨らみのない腹をそっと撫でた。
「その仕種……。やはりあなたは、リィラの子なのですね」
「え?」
突然の母の名に驚いて顔を上げると、侍女は目元に皺を寄せ、どこか寂しそうに笑っていた。
「あなたの母は死んでいると聞いています。つまりリィラは、あの子は死んだのですね」
「……母を知っているの?」
「お気づきでしょう?私は侯爵家の家政婦長ですよ。旦那様が生まれる前から働いています。もちろん、リィラが働いていた頃も」
母は侯爵家の使用人だったのだ。古参の者ならば確かに母の事を知っていても何もおかしくはない。
まさかこんな時に母の知り合いと出会えるなど思ってもみなかった。
「旦那様ばかりに似ていると思っていたけれど、表情の作り方はリィラそっくりだ。まだ若かったのに、なんて早い……」
悲しげなその声は母の死を本当に悼んでいるようでいるようだった。
私の知らない、母のかつての知り合いが今目の前にいる。
「お願い教えて。母は、父と母にはいったい何があったの?」
そんな時間などないと分かっていながらも、私は衝動的に詰め寄っていた。
侍女はひとつ瞬きをすると、視線を下ろし微かに首を横に振った。
「申し訳ありませんが、私は何も知りませんよ。リィラはある日突然辞めると言い、侯爵家を出て行きました。私が知っているのは、辞める数週間前から、リィラが今のあなたのように腹を撫でていた事くらいです」
「……」
「あなたの母親がリィラであった事すら、知る者はほとんどいないでしょう。まぁ、使用人も代替わりしたのでリィラの事を知っている者すら今はあまりおりませんが」
「母と父は、恋人だったの?」
「いいえ。リィラは幼い頃から侯爵家に仕えていた使用人、言うなら旦那様の幼馴染みでした。確かに旦那様とは仲は良かったですが、あれは男女のものではなかったと思います。それに、リィラには夫がいました」
「夫……」
予想外の存在に呆然とした。
母が結婚していたなど知らなかった。
当然と言えば当然かもしれない。母は父の事はもちろん自分の過去も全くと言って良いほど話さなかった。私が母がかつて使用人だった事を知ったのも、母が死んだ後、私を迎えに来た父の使いの人が言っていたのを聞いたからだ。父は母の事を他人に話す事は一切なかったため、世間には侯爵閣下がどこぞの卑しい女に生ませた娘だと思われている事だろう。おそらく母を知っているのは父と使いの人、そしてこの侍女くらいだ。
「母はどうして私を生んだの」
本来なら得てはいけない子を身ごもってしまった苦悩。そして、あるいは歓喜。
父との関係に愛があったにしろなかったにしろ、きっと思い悩んだ事だろう。同じような立場に立った今ならよく分かる。
母と父の事は知れば知るほど訳が分からなくなる。そして全てを知る事ができるほどの時間もない。
だからこれ以上は諦め、ただひとつだけ聞く事にした。
「先ほども申し上げましたが、私は何も知りませんよ」
「あなたの考えで良いの。教えて」
侍女はため息を吐いて言った。
「リィラがあなたを生んだのは、きっとあなたが欲しかったからでしょう」
「……私が欲しかった?」
「そうです。他にも理由はあったでしょうが、最も大きな理由はたぶんそれです。リィラはあの時孤独だった。だからあなたが欲しかったんです。そして問題なくあなたを得るには、きっと侯爵家を出るのが一番だった。私はそう思います」
侍女が言う理由は意外だった。
私にとっての母はもっと立派な人だった。
優しくて、思慮深い人だった。
私が欲しかった事は事実だとしても、もっと何か深い意味があったのではないだろうか。
納得できず顔を顰めると、私の内心を察したのか侍女はふ、と笑った。
「あなたにとってリィラがどんな母親だったのかは分かりませんが、私の知っているあの子は割と単純でしたよ。それにどれほど立派に見える人でも、もとをただせば動く理由なんて案外単純なものです。そしてとても利己的だ。きっとそれに例外なんてないのだと私は思いますよ」
不意に手が温かいものに包まれた。少しかさついた、労働を知る温かい手だ。
侍女は目を合わせ、ゆっくりと言い聞かせるように言った。
「リィラがあなたを生んだ本当の理由も、あなたが今逃げようとしている理由も、私は知りません。だから、私が言えるのはひとつだけです。——悔いのないよう、お生きなさい。あなたを生み育てたリィラに報えるように」
「……」
言葉が胸に突き刺さる。
何も言う事ができないでいると、沈黙のなか小さく扉が鳴った。迎えが来たのだ。
侍女はハッと扉を見て、真剣な表情で私を振り返った。
「これが最後です。もう引き返す事はできません。それでも、行かれるのですね?」
「……行くわ」
「分かりました。では本当に持って行く物はありませんか?思い出の品や何かは」
「……」
思い出の品と言われて思い出すのは陛下がくださったセーレの花だ。
けれど花はもう全て枯れてしまったし、母茶は既に侍女が荷物の中に入れてくれている。
やはり持っていくものなどないと思い、ふと思い出した。
慌てて寝台に駆け寄る。寝台の傍らにある机の上に飾られていた物を手にとった。
「……これは持って行くわ」
何故忘れていたのか。
手に持った物を握りしめるとチャリ、と小さな音をたてた。
銀というには軽く、側室が持つにはあまりにも素朴なセーレの花がガラスに閉じ込められているペンダント。
これだけは側室ではなく私という個人に陛下がくださった、私だけのものだ。
侍女はひとつ頷き、ペンダントを私の首にかけてくれた。傷つけないように襟の下にしまい込む。
扉を開けると、案内の者が立っていた。無言で侍女と頷き合い、外へ導くように手を差し伸べる。
「どうかお元気で」
最後に侍女を振り返ると小さな声でそう言われ、扉が閉まった。
促され、3年過ごした部屋を後にする。未練がないと言えば嘘になるが、振り返る事はしなかった。
案内の者は危なげなく私を導いた。警備の目をかいくぐり、本来なら私が知る事さえ禁止されている抜け道を使う。気付けば瞬く星と月が頭上に光っており、あっけないほど簡単に外へ出ていた。
本来なら抜け道の在処は王族と一部の高官しか知り得ない最大の秘密だ。その漏洩まで父にさせてしまった事に苦い思いがこみ上げたが、ぐっと押し込める。
暗闇に紛れ少し歩いた先には、一台の馬車が停まっていた。辻馬車で使われているような質素な馬車だ。
「来たか」
驚く事に、馬車の側には父がいた。
てっきりもう会う事はないと思っていたのだが、見送りに来てくれたのだろうか。
どう反応していいのか分からないまま近づくと、父は徐に金属音のする袋を私に突き出した。
「持って行け。中に印璽も入っている。それで封蝋した手紙を出せば国内からならすぐに私のもとまで届く。何かあったら使うと良い」
「……ありがとう、ございます」
袋を受け取るとずっしりと重たかった。少量とは言えない金と今言った印璽が入っているのだろう。
「信用できる者の所までこの馬車で送る。ほとぼりが冷めるまではその者の所にいてもらうが、その後はお前の好きにすると良い。お前から接触しないかぎり、今後私がお前に関わる事はない」
「……」
ここまでしてくれた父に何か言うべき事があるはずなのに、 何と答えるべきなのか分からない。
促されるままに馬車に乗り込むと、押し黙る私に構うことなく父は言った。
「お前が気にする事は何もない。最初から全て間違っていた。ただ、あるべきように戻るだけだ」
「……お父様」
「すまなかった、セーレ。今度こそ、自由の中で平穏に暮らせ」
初めて聞く、父からの謝罪だった。
何かを言う間もなく父は「行け」と言い、馬車が走り出す。
「お父様……っ」
父はたぶん私を愛してはいなかった。そして私も父に対して思う事など何もなかった。
けれどこの別れに確かにこみ上げる何かがあり、咄嗟に手を伸ばしたがただ冷たい窓を叩くだけだった。
父はいつものように無表情に立ち、私を見送っている。それもやがて小さくなり、暗闇の中に溶けて消えた。
がたがたと振動が体に伝わる。
しばらくそれに揺られながら、気付けば私は涙を流していた。
ぼたぼたと大粒の雨のように膝に落ちる。
——お母さん、私の選択は正しかった?
答えを知っているのなら、誰でもいいから教えて欲しい。
身分も家族も愛する人も、我が子以外の全てを捨ると決めた。
それが決して少なくない事くらい分かっていた。分かっていたはずだった。
腹を撫でる。
まだ平で何も感じられない。けれど陛下の子がいると思えば愛しさがこみ上げる。
この選択が正しい自信なんてない。未練だってあるし後悔もしている。
けれど引き返そうとは思えなかった。たとえ何度同じ機会が巡っても、きっと私は同じ選択をするのだろう。
だって、私は——
「——っ!?」
突然がたんと衝撃が走り、馬車が急停止した。
「なに……?」
石に車輪がのりあげたのか、道に何かが飛び出してきたのか。
普通ならばそんなところだが、何故か強烈に嫌な予感がこみ上げる。
その予感に答えるように小さな悲鳴が聞こえ、狼狽える間もなく扉が突然開かれた。
「やぁ、側室殿。お一人でいったいどこへ行かれるのかな?」
「……っ!」
恐怖か驚愕か、喉の奥で悲鳴が詰まった。
暗闇でよく見えない。けれど月光に微かに照らされて見えるそれはひとりの男で、顔の半分が輪郭を崩すほどに焼けただれていた。
『なんでも襲った者の一人の頬に大きな火傷の痕があったそうです。それはきっと刺青を消した痕だろうという話ですわ』
お茶会の日に聞いた伯爵令嬢の言葉を思い出した。
最近流行っている事件が脳裏を過る。
この男は、まさか。
「神の狗……」
「おや光栄だ。我らをご存じか」
男は大きな手を伸ばし、私の腕を掴んだ。恐ろしいほどの力で引き寄せられ、男の顔が目前に迫る。
男の顔が歪んだ。
「さっそくで悪いが側室殿、一緒に来ていただこう」
「いや……っ!」
口を布で覆われる。咄嗟に悲鳴を上げようとしたが、それすらも押し込められた。布に薬が染み込ませてあるのか唐突に体の力が抜ける。
駄目だ。ここで気を失ってはいけない。何のために、父は、私は——……。
けれどどうする事もできず、やがてブツリと、意識は暗闇の中に落ちた。




