1話 ちょっと甘く。ほんのり冷たく
暗闇の向こうから、小鳥の囀りが微かに聞こえてくる。出口はこっちだよと鳴く声に導かれ、意識がふわりと浮上する。
うつつに戻ると、頭を覆う綿と、身体を包み込む毛布の感触。そして、温もりを近くに感じる。
「ん……」
ペトロは、重たい目蓋を二度三度、まったりとまばたきする。そんな些細な動作も愛おしいユダは、添い寝をしながら笑みを浮かべて、ペトロがまた夢の中へ戻らないように引き留めた。
「おはよう」
ペトロは、その穏やかな声で朝に足を着く。
「おはよ」
「調子はどう?」
「おかげさまで」
ユダは、ペトロの顔に掛かっていた前髪を指先で退かした。ふと触れる指先すら、今は心地良い。
「もうすっかり、私と寝るようになったね」
「だって、呼ばれるから」
最初は、ペトロの羞恥心を騙して一緒に寝ようと誘い、それからなし崩し的に同じベッドで朝を迎えていたが、今では呼ばれれば素直に一緒に寝るようになった。
「せっかくのベッドルーム、これじゃあ物置きになっちゃうな」
「気にしなくていいよ。ベッドルームは、一時的に準備しただけだから」
「……うん?」
「きみとこうしていられて、私はただただ嬉しいよ」
ユダはそう言って、ペトロのおでこに小鳥のような唇を落とした。
(オレは、まんまと嵌められたのか……?)
ユダの発言にちょっと引っ掛かるが、腕の中に収められるとどうでもよくなった。
朝から甘い言葉を言われて、満更ではない。けれど、油断をすると痕跡の輪郭が現れる。ペトロはその心中を隠すように、寄り掛かりたい胸に擦り寄る。
氷が解けてできた冷たい水溜まりは、初夏になっても蒸発しきっていなかった。
すると。毛布の中でモゾモゾが始まった。
「何してるんだよ」
「何って?」
少し早いが起床するのかと思いきや、足を絡められた。
「足、絡めるなよ」
「離したくなくて」
ユダはにっこりする。
「昨夜、だいぶくっ付いてたけど」
「仕方ないよ。離したくないんだもん」
何か意図を感じるにっこり顔だ。
「仕方なくないだろ。今日は大事な仕事があるんじゃないんですか、社長?」
「時間はまだ大丈夫だよ」
ユダは四つん這いになって、ペトロに覆い被さった。ペトロの心をくすぐるように、さらりと垂れる前髪が揺れる。
「あと一時間」
「ダメ」
「社長命令でも?」
「それは立派な職権濫用だけど?」
社長の頼みでもそれは受け入れられないと、ペトロは権力に屈しなかった。ユダも強引に抑え込もうとせず、素直に諦めた。
「わかったよ。無理やりして、ストライキなんか起こされたくないしね」
「ユダが常識ある紳士でよかったよ」
交渉決裂に終わったユダは、ペトロの手を取って上半身を起こしてあげた。
「それじゃあ。目覚めのコーヒーでも淹れようか」
朝食のあと、二人はすぐに出掛ける支度をした。今日は、オファーがあった携帯電話会社の、新機種の広告撮影の仕事だ。
行く前に、ユダは事務所でヨハネに今日の業務に関する引き継ぎを行った。
「で。また、お前が一緒に行くのか」
「この度、正式にペトロのマネージャーをやることになりました」
上機嫌で発表するユダに、ヤコブは若干呆れている。
「それ、勝手に言ってるんじゃないよな? ちゃんとヨハネに許可もらったのかよ」
「許可は出した。圧がすご過ぎて、出さざるを得なかった」
と言うヨハネは、どこかに生気を吸われてしまったようにいつもより気力がない。
ヨハネが言う「圧」というのは威圧感ではなく、ユダのペトロへの愛情とだだ漏れる幸せオーラの圧だ。負けてたまるかと一度押し返してはみたが、結局その圧に負けてイエスマン・ヨハネとなってしまった。
経緯を聞かずとも、ヤコブは実際に見たかのように事情を把握した。
「嫌ならちゃんと言った方がいいぞ。こいつ、隙きあらば職権濫用するから」
「いや。なんとか僕一人で回すよ。今日から毎日ってわけじゃないし、僕がいないといつもユダに任せてるから」
「遠慮してないか?」
「してないって」
ユダの前で本心を悟られまいと、ヨハネは平気そうに振る舞った。
「明日も付き添いで抜けるけど、明後日からは私も業務に戻るから。二日間だけよろしく、ヨハネくん」
「わかりました」
車に乗って出発したユダとペトロを、ヨハネとヤコブは事務所の窓から見送った。
読んでくださり、ありがとうございます。
「イアメメ」第3章の始まりです!
章タイトルの読みは「ネーアン」で「アプローチ」という意味です。
今回は、ヤコブがペトロに挑んだり、ペトロと出会う前のユダのことが明かされます。
後半はヤコブ(とシモン)メインの展開です。知り合いとの再会がきっかけで、ヤコブのトラウマも少しずつ明かされていきます。
ヨハネの恋もどうなるのか、気になるところですね!
お星さまお待ちしてます。ぜひリアクションもしてくださいね(*´ω`*)




