44話 大切な人と何気ない日常を
翌日。太陽が昇り、テラスの窓から射し込んでいた日差しが多くなり始めたころ、シモンはようやく眠りから覚めた。
目蓋を開くと、添い寝をしていたヤコブと目が合った。
「やっと起きたか」
「おはよ。ヤコブ……」
シモンは、寝ぼけ眼で朝の挨拶をする。
昨日までと変わらない、朝のひととき。そんな小さな幸せを噛み締めようとしたが、大変なことに気付いて慌てて起き上がった。
「学校……!」
「もう十時。学校には、休むって連絡しといたから。昨日の今日だし」
「ありがと」
ヤコブの気遣いに、シモンはホッと胸を撫で下ろした。
二人は朝食を摂りに、隣のリビングルームへ行く。ユダとヨハネは既に事務所で業務を始めていて、ペトロもアルバイトへ行っていた。
ヤコブはもう食べたのでシモンの分を用意し、ミルクと砂糖入りのコーヒーと一緒に出した。
二人だけの静かな午前。シモンはチョコレートスプレッドをブロートに付けて食べ、ヤコブは本日二杯目のコーヒーを飲みながら、正面からシモンの顔色を観察した。
「顔色よさそうだな。気分は?」
「うん。悪くないよ」
「なら安心した。じゃあ。せっかく学校サボったし、あとでちょっと気分転換に行くか」
ゆっくりブランチを食べ仕度をしたあと、二人は地下鉄とバスを乗り継いでブリッツァーガーデンへとやって来た。
繋がった三つの湖───ハウプト湖、エストリッヒャー湖、ズュートリッヒャー湖を中心に、色鮮やかな花や緑が広がる散歩にもうってつけの場所だ。チューリップやしゃくなげ、つつじやダリアが季節を彩り、バラ園やテーマごとの庭園が広がる。
シモンとヤコブは、自然溢れる園内をのんびりと歩く。自前のカメラを持って来たヤコブは、花や野鳥を収めたり、こっそり撮られたシモンはちょっと怒ったりして、二人は穏やかなひとときを楽しむ。
「気持ちいいねー。風も鳥の囀りも心地いいし。なんていう鳥かな」
ハウプト湖とズュートリッヒャー湖のあいだには、三角形に立てられた柱が特徴の木造の橋が掛けられている。
初夏に差し掛かり気温は少し上がってきたが、木々を揺らし湖面を滑って吹く風は心地良い。中心地から離れているので喧騒とも縁遠く、多くの緑に触れたシモンもリフレッシュができたようだ。
「シモン」
「なに?」
振り向くと、ヤコブが不意打ちでシャッターを切った。
「また、不意打ち撮られたー」
「シモンは広告の写真もいいけど、やっぱ自然体が一番いいな」
「広告のボクは、あんまりかわいくないの?」
「俺は自然体の方が好き、って話だよ」
ヤコブは笑みを浮かべて言った。
撮ったシモンの写真を液晶モニターで見直していると、ヤコブはふと、シモンの印象について口にする。
「……なんか。大人っぽくなったか?」
「そう?」
「印象が少し変わったって言うか。ほんの数日前までとは、何となく顔付きが違う気がする」
「えへへ」褒められたシモンは、素直に照れ笑いする。
「ヤコブにそう言われると嬉しいな。死徒との戦いで、少しは前進できたおかげかも」
「辛かったんじゃないのか」
つい昨日の戦いが、辛くも苦しくもなかったかのような様子のシモン。まだ少し案ずるヤコブは、その心の内を尋ねた。
「もちろん辛かったよ。あの経験は、ずっと消したいトラウマだった。だけど今は、前ほど厭わしく思ってないんだ。自分が本当に恐れていたものが違うことに、気付けたから」
「死が怖かったんじゃないのか?」
「それも怖かったよ。巻き込まれたのが幼かったから、戦争とか人が死ぬことがダイレクトに“怖いもの”だってインプットされてたから、ボクは死が怖いんだと思ってた。だけど、あの出来事をもう一度経験したら、恐れてるものはそれじゃないかもって気付いたんだ」
「年月が経って、認識が変わったってことか? てことは。シモンの中でまだ、トラウマはそのままのかたちで残ってるのか」
今日の様子を見ていて、少しは克服へ向かえていると感じていたヤコブだったが、シモンのトラウマは今回の戦いで何も変化していないんだと、意味のない戦いだったんだと悔しく思う。
しかしシモンは、「ううん」と首を横に振った。
「自分が本当に恐れてるものが違うってわかっただけで、どこか安心してるんだ」
「克服できなかったのにか?」
「リアルな過去を振り返って、体験して、辛くはあったけど、あの頃とは視点が変わった気がするんだ。あれから十年近く経ってるからかな。だから、昔は受け入れ難かった現実を、これからはちゃんと振り返って向き合えそうな気がする」
白い雲が流れる空を見上げながら、シモンはこれからも続く日々を見つめていた。その瞳には、揺れる恐れはほとんどなかった。
トラウマを忘れることも、逃げることもできない。けれど今は、背中を向けることは考えなくなっていた。ペトロが言っていたように、自分が生きてきた足跡の一つだから、この先も一生残り続ける。だからシモンは、今の自分を作っているものの一つともう一度正面から向き合おうと、心に勇気を纏った。
その横顔が、ヤコブには昨日より少し逞しく見えた。その成長が嬉しくて、シモンの頭を撫でた。
「そっか……。やっぱ、シモンは強いな」
「ボクが前向きになれるのは、ヤコブがいるからだよ。棺の中でヤバかった時、右腕に温かさを感じたんだ。ボクを信じて待ってくれてるって思ったら、ボクもボク自身を信じられた。ヤコブと心が繋がってたから、今日もこうして隣にいられるんだよ」
シモンは右の袖を捲った。
「見て。ヤコブの名前が、前よりはっきりしてる」
「俺のシモンの名前も」
ヤコブも左の袖を捲り、お互いの名前を並べるようにシモンの右腕にくっ付けた。
「ヤコブの名前が現れた時、運命なんだって思った。今は、もっと運命的なものを感じてる」
「何だよ。もっと運命的なものって」
「言い表せないよ。でも、心がそう言ってる」
「ロマンチストだな」
「ヤコブが大人っぽくなったって言うから、ちょっと背伸びしてみようかと思って」
「シモンのそういう頑張り屋なところが、俺は好きだ」
二人は右手と左手を合わせ、恋人繋ぎをした。
「ヤコブ。ボクは、希望を忘れないよ。これからもずっとヤコブと一緒にいるために、何があっても負けずに頑張るから」
「ああ。俺も負けないからな」




