39話 報復の矢を射て
「お母さん早く! 立って!」
シモンは懸命に母親を立たせ、周りに少し遅れて何とか学校の外へ出た。
その時ちょうど、激しい銃撃戦の音が聞こえ始める。人々は、その音を背に散り散りに逃げた。
シモンも、母親の手を引いて死に物狂いで走った。だが、途中で母親が瓦礫に躓いて転んでしまった。
「お母さん大丈夫!?」
シモンは、再び母親を立ち上がらせようと腕を引っ張る。だが、母親は逃げる気力を失い、シモンの言うことを聞かない。
けれどシモンは、一生懸命に動かない母親の腕を引っ張った。
「お母さん早く! 逃げないと死んじゃうよ! ねぇ、早く立って! 立ってよお母さん!」
シモンは泣きそうになりながら母親に訴えた。だが、絶望に打ちひしがれる母親は逃げる意志をなくし、微動だにない。
「お願い……。立ってよ、お母さん……!」
(近くから銃撃の音が聞こえる。すぐそこで戦ってるんだ。いつ、こっちに来るかわからない。早く……。早く……!)
死の足音が近付く中で、シモンは恐怖で涙が溢れそうになるのを必死に堪える。
そんな時、すぐ側で爆音が轟いた。反勢力のロケットランチャー部隊が、目の前に迫って来ていた。
「お母さん! お母さん立って! 逃げようよお母さんっ!」
ロケットランチャーが発射された。煙を吐き、放物線を描きながら迷いなく飛んで来るロケット弾が、シモンの揺れる双眸に映る。
「……!!」
(なんで……。なんで、こんなことになってるの? 誰がなんのために始めたの? なんでボクたちは巻き込まれてるの? ボクたちが何かした? 誰かをイジメた? ボクは何もしてないよ。お母さんとお父さんと仲良しだし、友達にも優しくしてるよ? 何も悪いことしてないよ? なのに、なんで殺されそうにならなきゃいけないの? 罪を犯してないのに、命を奪われなきゃいけないの? ボクたちは、普通に生きてただけなのに……。これが、戦争だから……?)
ロケット弾は放物線の頂点を超え、弾頭を目標に向けた。
その時だった。ロケット弾は突然、空中でピタッと静止した。同時に、争っていた大人たちも動きを止め、砲弾が着弾する音や銃撃音もぱたりとしなくなる。
「そーだよねー。普通に生きてただけなのに、酷いよねー」
すると、どこからともなくタデウスが現れ語り掛ける。
「理由は有るみたいだけど、勝手に始めたくせに、普通に生きてたぼく達を巻き込まないで欲しいよねー。其の所為で日常が瓦礫同然に崩れて、人が死ぬのを目の当たりにして精神がおかしくなって、身体も心もズタズタにされた。命が無事でも、人としての尊厳が失われる」
後ろ手を組むタデウスは、シモンの周りをダラダラと歩きながら話し続ける。
「痛いよね。身体も心も傷付いて、血が出そうなくらい痛いよね。でも奴等は、ぼく達の痛みなんて知ったこっちゃないんだよ。だって、同じ人間を殺す事を躊躇わないし、何も悪い事してない人を傷付けるのを、何とも思ってないんだもん。戦争だから、人が傷付いても死んでも仕方無いって考えてるんだよ。酷いよね。ぼく達は、誰も傷付けても殺してもいないのに。此の世の善悪の判断も付いてない、幼い子供まで。悪魔みたいだよね」
シモンは悪魔の牙から視線を逸らさず、絶望の色の声音で言う。
「悪魔だよ……。だって。ここは地獄だもん」
「うん。地獄だね。生き地獄だよ。こんな世界を作った奴等は、痛みなんて知らないんだ。だから、平然と人を殺す事が出来るんだよ。本当の正義が何かなんて知らないくせに、偽物の正義を信じてさ……。だからさ。奴等に仕返ししようよ」
タデウスはシモンに囁いた。その緑色の双眸は、悪意に満ち満ちている。
「仕返し?」
「そう、仕返し。報復だよ。どうせ奴等は簡単には戦争を終わらせないし、説得なんて無駄なんだから。だったら、同じ方法で報復するんだ」
「でも。報復なんて……」
シモンは報復に刹那の魅惑を抱いたが、ためらいを見せる。
「其のくらい許されるよ。だって、正当防衛だもん。それに、ぼく達には立派な正義が有るから、悪い事にもならないよ。奴等に、ぼく達の正義を思い知らせてあげようよ」
「ボクたちの、正義……」
「そして、ぼく達が受けた痛みを、其の魂に刻んでやるんだ。何度も、何度も。痛みが何層にも重なって、呼吸する度に痛くて悶えるくらいに。ほら。皆も言ってるよ」
気付けば、周りには死体となった犠牲者たちがいて、小さく口を動かしている。呪文のように口を揃えて「やれ……やれ……」と、唸るように呟いていた。
「君が、皆の痛みを奴等に思い知らせるんだ。此れは、君しか出来ないんだよ。君の正義。君の使命だよ」
「ボクの、正義……。ボクの使命……」
「ね。報復しようよ。でないと、死んで此の人達の仲間入りだよ?」
「死ぬ……」
シモンは死体たちを自分と重ねて青褪め、背筋を凍らせる。
「死ぬのは嫌だ」
「嫌でしょ? 死は究極の痛みだもん。死んでも痛みは付き纏うよ。そんなの嫌だよね?」
「死ぬのも痛いのも、どっちも嫌だ」
「じゃあ、君が報復しないと。でないと、何も終わらないよ。こんな希望なんて何処にも無い世界は、終わらせないと。君の手で」
「ボクが、終わらせる」
タデウスに唆されたシモンは、ハーツヴンデ〈恐怯〉を具現化させた。
そして弦を引き、自分を殺そうとする敵に光の矢で狙いを定める。
「そう。君が終わらせて」
(そうすれば君は、復讐することでしか生きられなくなる。堕ちて、使徒なんか出来なくなる)
最初は戦うことを拒否していたタデウスは、生の負の感情に味を占めたようにニタリと笑った。




